第一章 足止め
その町の入り口に辿り着いた者は、49日待たなければ、町の中へは入れない。
低い門の上からは、町の中心を通る曲がりくねった道が、果てしなく続いている様子が見える。
人の気配はなく、動物や植物の影も見えない。
まるで紙細工のような町並み、温度も湿度も感じない。
その低い門の片隅に、開門の掟が記された札が掛けられている。
ともすれば見落としてしまいそうな小さな札だ。
「・開門まで49日待て。
・強引侵入者には罰則。
・タイムリミットは3分。」とある。
その門の前に一人の老婆が立っている。
名を年子という。生粋の江戸っ子。
年子がここへ来た目的は、年子の言う
「鶴田」に会うためだ。
「鶴田」とは、往年の映画スター、鶴田幸三の事だ。
もう何十年も前に“あの世”に旅立ったスーパースターだ。
年子は熱烈なファンで、鶴田幸三の家に招待されたこともある程、家族公認のファン代表のような存在。
自称第二婦人を気取る、まさに「鶴田」一色の人生だった。
だったと言うのは1週間前のこと、年子も「鶴田」と同じ世界に旅立ったからだ。
90歳と28日だった。
この町の入り口に辿り着いた年子の目の前には、幅一間程の施錠のされていない門が立ち、少しの力で押し開ける事ができた。
様子を伺いながら なに食わぬ顔で中へ入った。
門から5、6歩進んだ右側には、たくさんのドアが並ぶ小さな家があり、ノックをするも反応はない。どのドアも無反応。
門の中へ入ってから3分がたった時、それはいきなり年子の身に襲いかかってきた。
まるで竜巻のように、恐ろしく強い力で巻き上げられ、門の外へと吹き飛ばされた。
磁気を帯びたかのように、髪も衣類も逆立っている。片方の靴だけが辛うじて、つま先に引っ掛かっている有り様。
よろけ気味にスクッと立ち上がると年子は、数秒前の出来事に驚くよりも先に、何も無かったかのように、手早く身なりを整えた。
そして、握り締めていた布製の黒い手提げから、おもむろにタバコを取り出し、火をつけた。
深く吸い込んだ煙を、長い息で吐き出し、大きな一服をした。
くゆらせた煙の中から、門の片隅に掛けられた 小さな札が見えた。そこに、この町へ入るための掟が書かれていたことに気づくが、時 既に遅し。
年子はタバコを吸うとは言わない。
飲むと言う。
二服目を吸い込みゴクリと飲んで、鼻から煙を出した。やれやれといった感じで。
年子は無類のコーヒー好き。
“あの世”と言うこの世界に来てから、まだ一度もコーヒーを飲んでいない。
当然この場に存在するはずのない喫茶店、首を左右、後ろにねじり探すもあるわけがない。
漆黒の闇が年子を嘲笑うかのように広がるだけで‥
承知の上と至極冷静な年子は、町とは反対側にねじった首を、ゆっくり町の方へと戻した。
「デイサービスなんか冗談じゃないわよ!そんなに耄碌してないわよ!」
と言っていた年子は以前、銭湯で転倒、骨折、1ヶ月以上も入院している。
風呂好きの年子は、入浴に付き添いが付くことを知ると、二つ返事でデイサービスに通い出したのだった。
そんなある日のこと、定時にデイサービスのお迎え
「お風呂行って来るよ!」と、いつも通りに出かけた年子だったが、
夕方には、わざと呼吸を止めて死んだ振りをしているかのような年子が、家ではなく、病院の一室へ無言の帰宅をした。
デイサービスのスタッフからの丁寧な挨拶と、死因を誤嚥と伝えられたのは、
一人娘の芳枝だった。
悲しみに打ちひしがれそうな芳枝を尻目に、年子は旅立ちの翌日には、「鶴田」を探しに“あの世"と思しき暗闇を彷徨っていた。
“あの世”は真っ暗闇の世界だと、子供の頃から聞いていたので、目的のある年子は真っ暗闇を怖がるでも驚くでもなく、躊躇なくその中へ飛び込んでいた。
寧ろ、三途の川を渡らなかった事や、49日間の“足止めゾーン”なるものが存在していることに、酷く驚いていた。
そんなことより年子は、「鶴田」と同じ世界に居ながら、厄介な掟に捉われ すぐに会えないことに、少しの矛盾と苛立ちを覚えていた。
さて、49日間何処へ行って、何をして暇を潰そうか?
「それにしてもコーヒーが飲みたい!」
と呟く年子。
タバコを飲みながら、コーヒーを飲む年子の定番スタイル。
「そうだ! 芳枝にコーヒーを入れてもらおう
一旦家に帰ろう!」
“あの世"と言うこの世界に来た者は、誰に教わるでもなく瞬間移動が出来ることを知っている。
もちろん年子も。
生前訪れたことのある場所には、迷うことなく瞬間に移動できる。
芳枝は良くできた娘で、母である晩年の年子を まるで娘のように労ってきた。逆転親子と言っても過言ではないほど。
年子は一瞬で芳枝と暮らしていたアパート、あきば荘、101号室に戻って来た。
そこには肩を落とし、年子の遺影を突き抜けた先に焦点を置いた芳枝が 仏前座布団に座っていた。
「誤嚥って・・何を誤嚥しちゃったのさ?」
と呟いた芳枝に年子は思わず
「自分の唾液! 唾液よ!」
と即答するも 芳枝には聞こえない。
姿も見えていない。
その時 年子がふと思い出した。
それは“あの世”というこの世界の入り口に ポツンと立っていた少女から、何かを貰っていた事を。
男女の区別はつくものの 顔はぼんやりとしか見えない。不安や恐怖感はなく、なぜか親しみを感じ 引き寄せられるように少女の元へ足が向いた。
少女に近づくにつれ その顔は以前何千回となく鏡に映していた 若かりし頃の年子自身であることに気づいた。
笑みを浮かべながら少女の方から、
「花村年子です」と名を告げてきた。
こんなにも美しかったのかと、老いた年子は自画自賛の境地で しばし少女時代の自分に見入っていた。
「私なんだね?」と
年子が少女に語りかけると、小さくうなづいて
「困った時に開けて下さい。」と言いながら
古びたマッチ箱を差し出した。
そこには“花村”と屋号が書かれてある。
少女時代の年子の実家は料亭を営んでおり、
ご贔屓のお客様方にお配りしていた、まさにその料亭のマッチだった。
マッチ箱の絵柄を手の上で縦や横から見ては懐かしんでいた年子が、再び少女時代の自分に目を向けた時、既に彼女の姿はなく 年子ひとり暗闇に取り残されていた。
年子は軽くマッチ箱を振ってみた。
マッチ棒ではなく 他の何かが入っているようだったが、それ以上には気にならなかった。
大事なものはいつも 布製の黒い手提げのファスナー付きポケットにしまっていた年子。
あの時しまったマッチ箱を 慌てて取り出し開けてみた。
中には幾重にも折られた赤い紙 広げると“炎”と一文字書かれてある。
年子は試しに、目の前の仏壇に灯された蝋燭の炎に息を吹きかけてみた。
思った通り ゆらゆらと炎が揺れた。
今度は少し強めに息を吹きかけた。
すると、蝋燭の炎が一瞬真横に流れ すぐさま螺旋を描きながら上へ登って行った。
その様子に気づいた芳枝が、
「えっ、えー! お母さん?」
返事をするかのように年子がまた蝋燭に息を吹きかけた。
「お母さんなのね?」
また蝋燭の炎を揺らす年子。
何度繰り返してもコーヒーを頼めないことに気づいた年子。何が違うのか?
「誰か教えて!」と叫んでみた。
49日間、先は長い。
この状況で頼れる者は 少女時代の自分しかいない。意思を伝える術を知っているはずだと思い込み、“あの世”というこの世界の入り口辺り、少女時代の自分に会った場所へ逆戻りを決めた。
じゃんけんすら勝ったことのなかった勘の悪い年子だが、今はその勘に頼るしかない。
“あの世”というこの世界に来てからの 過去へ戻るための瞬間移動は効かない。
が、高く飛び跳ねたり 浮遊することはできる。
年子が片足で地面を蹴ると、軽く3メートル程飛び上がり、5メートル先に着地する。次の足で着地と同時につま先で軽く蹴ると、更に3メートル飛んで5メートル先に着地した。
そして宙を自由自在に泳ぐこともできる。
味わったことのない感覚に、まるで童心のように わくわくとはしゃく気持ちを押さえきれず 年子はしばし浮遊を楽しんだ。
まさに真っ暗闇を闇雲に浮遊し“あの世”というこの世界の入り口や、闇に消えてしまった少女時代の自分を探し回ったが見つからない。
諦めかけていたその時、眼下に揺れている白い羽根のようなものが見えた。
少しずつ下降し、その白いものに近づくと、そこには ちぎれんばかりに尾っぽを振っている白い小型犬がいた。
「タロー! タロー!」
思わず叫んでいた。年子が少女時代に飼っていた愛犬だった。
「こんなにお婆ちゃんになっちゃったけど、私がわかるのかい?」
「ワン ワン!」
と嬉しそうに タローが年子に飛びついた。
「お前。何処から来たんだよ! 確か、大往生で逝ったのに・・・若いな!」
と驚きながらも 顔中のシワが百倍になるほどの笑みで、タローの頭や胴をゴシゴシ撫でた。
「そうだタロー、何処かで若い頃の私を見なかったかい?」
と懐に抱き寄せた瞬間に 懐かしいタローの感触とちょっと臭い獣臭を残して タローも消えてしまった。
刹那な喜びと寂しさが入り雑じり追いつかぬ心のまま ため息混じりに年子が呟いた。
「この世界は 全てが儚いね・・・」
ところがそれから 次々にいろいろな生き物たちが 年子の前に現れては闇に消えて行く。
まるで敏子を応援するかのように優しい空気を残して。
「これは・・・ 私が子供の頃に飼っていた生き物たち・・・」
病弱だった年子は 幼少期の殆んどを家の中で過ごし、いくつもの小さな生き物を飼っていた。まるで友達や家族のように慈しんでいた。
年子は成長するにつれ体力もつき病気も完治。病弱だった幼少期が嘘のように元気になった。
“あの世”というこの世界での小さな生き物たちとの再会に深い絆を感じた年子。
気がつくと辺り一帯 芳しいコーヒーの香りが立ち込めている。年子は目を閉じ鼻から抜ける癒しの香りを一瞬楽しんだ。
その時 年子の頭上に薄ぼんやりと灯りが点いた。それは次第に光の輪となり暗闇を押し出すかなように広がり辺りを照らした。
そこにはおびただしい数の白いカップソーサーに乗ったコーヒーカップ、中には琥珀色のコーヒーが まるで花畑のようにぎっしりと並び美しく広がっている。その数に唖然とする年子だったが、ふと我に返り
「芳枝だね、1杯でいいのに・・・」
と呟くそばから
「それは先祖代々、ご先祖様の分!」
と まるで鬼灯を鳴らしたかのような声で口々に言いながら 宙をスイスイと泳ぐ色とりどりの金魚の群れが 何処からともなく現れ 年子の周りを一回りすると何処へともなく消えて行った。
まさにその時、あきば荘101号室では 芳枝が年子の好きだったブラジル豆をブレンドした 少し苦めのコーヒーをたて年子の遺影の前に供えたところだった。
まるで親代わりだった芳枝には、蝋燭の炎のやり取りで年子が何かを欲しがっていることに気づいていた。そしてそれがコーヒーだということも。
芳枝が供えたのはたった1杯のコーヒーでも、
“あの世”というこの世界では無限の数となり、ご先祖様にも届くのだ。すべてのお供え物は平等に行き渡る“あの世”というこの世界の慈悲深いしきたりを年子は知った。
年子はいつもの布製の黒い手提げから 取り出したタバコに火をつけごくりと飲んだ。そしてコーヒーを1杯だけ味わって飲んだ。
もう一つこの世界には嬉しいしきたりがあった。
「足止めゾーン」で、一つでも願いを成し遂げた者には、残り日数の短縮制度なるものがあり、たった今コーヒーを飲んだことで 年子はその制度をクリアしたのだった。その証拠に右の頬に4、左の頬に8という数字が浮かび上がり48日間を意味し この世界特有の認印ならぬ頰印が押された。そしてそれは開門と同時に消えてしまうが、48個の慈悲の心が備わり、好きな形に変えて使う事ができる。
たくさんの愛に助けられ、あと1日待てば町に入れるところまで漕ぎ着けたのだった。