これから戦いゆく者へ
意を決して門を潜った。
足元の石畳は眼前にそびえる城の入口へと伸びている。黒を基調として造られたその建物は、『触れられぬ王』が棲むに相応しい威厳をたたえていた。こうして眺めているだけでも目が眩みそうになる。ここに来た回数はもう数えるのをやめてしまったが、未だこの感覚に慣れそうにはない。それはその大きさと威圧感の強さだけでなく、王が放つ魔力のせいであるようにも思われた。
だが気圧されてばかりもいられない。
左腰のあたりに手を触れる。鞘に納められた剣の柄が、応じるように音を立てた。一度目を瞑り、深呼吸する。
目を開けた。足を踏みだす。
石畳を進む間、幾度とない挑戦の記憶を思い返していた。
『触れられぬ王』は強かった。強力な魔法を使っても、鍛錬を重ねた剣技を放っても勝つことなどはありもしない。何もかもが及ばない。しかし感覚は掴んでいた。あと一歩で手が届く、という感覚。運というものさえ回ってこれば、一撃を叩き込めるという確信があった。だが、その一歩は大きかった。
脳裏にちらつく数々の光景。浮かんでは消えるそれは走馬灯のように見えてしまう。この先で死ぬはずがないと解ってはいても、やはりこの感情は拭えない。
「―――今度こそ、必ず勝つ」
自身の声が耳に届く。それは、長年辛苦を共にした相方の囁きのような安心感があった。
そうして目を上げた先にあったのは、城内へと繋がる扉だった。ところどころに汚れが目立ち、朽ちる日が近いことを予感させている。が、その城の存在感を薄める要素とはなからなかった。
もう一度大きく深呼吸した後、その両開きの扉を開けた。
城内は前と変わらなかった。広いだけが取り柄と言うのが正しいような空間だ。机も椅子も棚も無く、装飾らしいものと言えば天井に吊り下がるシャンデリアくらいのものである。かと言って汚らしいわけではない。物の少なさが醸し出す雰囲気は、『殺風景』ではなく『こざっぱり』だった。
そして、正面に見える大きな階段。その先はひとつの扉に繋がっている。玄関扉よりかは一回り小さいものの、その隙間から威圧感のようなものが漏れだしているかのように見えた。その先にこの城の主がいると思えば当然のことだった。
ひとり、無言で階段を上る。身体と心を緊張感が蝕んでいく。手足の先が痺れ、冷えきってでもいるような感覚に陥る。しかし、不思議と引き返したくはならない。それは勝利への執着のせいかもしれなかった。
いつしか、目の前には扉があった。
片手を扉に当て、動きを止める。心臓が高鳴っているのが分かる。全身へと送り出された血のうねりまでわかるようだ。
「勝ってみせる」
感傷に浸る暇などない。
『触れられぬ王』に勝利を収める。それだけだ。
扉を開けた。
「―――ようこそ、挑戦者よ」
そこには『触れられぬ王』がいた。
大仰な椅子に腰を据え、赤い眼をすっと眇めていた。
床に散らばる艶やかな黒髪に、整った目鼻立ち。すれ違えば振り向かざるを得ない雰囲気を纏う女性だった。もう何十回、何百回と会っているのに、その風格に押され後退りそうになる。
そんな美しい空気の中に、『王』と呼ばれるに相応しいものはあった。その動きひとつひとつに威厳が宿っていた。
訪問者が何も言わないのにも関わらず、王は椅子から立ち上がると、無言で武器を取った。人間の胴ほどの幅がある剣だ。扱いによっては、人体も一裂きで二つに分かれてしまうのだろう。
「―――剣を交える前に、問おう」
王が口を開いた。構えかけていた剣を下ろす。剣に目を向けることもなく、王は続けた。
「名は何という?」
言われ、動揺した。ただ挑戦を受け、ただ相手を打ち負かすだけの王に名を聞かれたことはかなりの衝撃だった。だがその心の揺らめきを面に出さぬよう、努めて真剣な表情を保ち、そして名乗った。
「私はミノア・ロダンという」
簡潔に述べ、口を閉じた。それ以上言う言葉もない。
王は頷いた。
「良い名だ。何十回も挑んでくる者の名を知っておきたかったのだ。もはや友とすら思えてくるからな」
冗談のつもりなのか違うのか、表情からは判断できない。
しかし分かったところで、戦いには関係なかった。
「話はそれだけか?」
ミノアは冷たく言い放った。必要なのは王と友人になることではない。王に勝つことだ。
「それだけだ」
それは王自身も承知だった。その細腕で剣を構え、挑む者をじっと見据えた。
刃物のような目線を、真っ向から見つめ返す。
その眼の奥には、読み取れない感情が燻るだけだった。
もはやすべきことは何もなかった。
「始めよう」
王の言葉を合図に、ミノアは攻撃を仕掛けた。
一瞬にして身体を魔力で強化し、王に向かって真正面から突っ込んでいく。数メートルの距離を瞬間的に詰め、その勢いのまま首を落とさんと剣に力を込めた。
が、易々とやられてくれはしない。
直立不動の体勢のまま、剣を片手で持ち上げる。ミノアが放った一撃はいとも簡単に受け止められた。片や両手で剣を持ち、全身の力を込めている、片や片手で大剣を構え、眉のひとつも上げないままに受けている。
唇を噛むと、一度目より力を入れて剣を上に跳ね上げた。王の胴が無防備に晒される。しかし、ミノアはあえて、足を狙った。それが誘導であると分かったからだ。最小限の動きで王の足を払う。が、避けられた。身を沈めつつ、身体を横にずらして頭上からの一撃を回避する。
そこで、王と目が合った。この状況をどう見ているのか、どんな感情を抱いているのか、何もかも分からない。次の動きを読み取ることは諦め、じっくりと隙をうかがうことにする。
一合、五合、十合と剣を合わせる。幾度となく金属質な音が弾け、剣の軌道が視界を邪魔する。
隙がない。僅かな隙があれば、つけ込める自信があった。だがこれでは消耗を待つだけだ―――。
一度背後に跳んで距離を取った。戦いが始まる直前の位置関係に戻る。少し、息が乱れていた。
「休憩か?休憩なら待ってやるが」
煽るようなその台詞は計算か、自然のものか。
「必要ない。押し切ってやる」
意識して不敵な笑みを浮かべ、剣を持ち直した。
そして、踊りかかる。
「勢いだけで勝てると思うな。わたしの意表を突いてこい」
合わせられた剣越しに受ける挑発。悔しさが湧き上がった。
「今日こそ―――っ!」
その僅かな感情の揺らぎが仇となった。
剣がうち払われた。
背後、どこか遠くの方で、手から離れた剣が音を立てた。
そして王の剣は、ミノアの腹部を刺し貫いていた。
「悪くはないが、な」
冷たい感触と共に、剣が引き抜かれる。膝から崩れ落ちそうになる。が、王はそれすら許さなかった。
「そんなところに寝るな。風邪をひいても知らんぞ」
襟を掴まれる感覚があった。次の瞬間、身体は宙を舞っていた。投げられたのだと分かったのは、もろに壁に叩きつけられた時だった。受け身も取れず、衝撃が軽減されぬままに体の内を襲った。まずい。そう思っても身体が動かない。
「ひとつ、教えてやろう」
少し先に王が立っている。剣の先を床に向け、リラックスした体勢だ。その余裕を前にして心が折れそうになる。壁に背を預けた姿勢のまま、床に爪を立てた。爪の先端が折れるのが分かった。
「お前は強い」
その声音に嘲りは見えない。それは本心であると、靄のかかった頭でもわかった。だがそれは強者であるからこそ出る言葉なのだ。歯を食いしばった。
「……勝てないやつが、強いはずがない」
どこが痛いのかすらわからないほど、全身が痛む。
意識を保つのが精一杯の状況の中、目の前に王の影が落ちた。
「出血が多い。今日は終わりだ」
その台詞が意識の糸を断ち切った。