23.間違った覚悟・前編
その夜、大都市パルバスの高級宿で巻き起こった騒動は、大変なものだった。
エルバルグ辺境伯邸消失事件ーー特別討伐晩餐会の出席者は元より、その屋敷家屋、使用人、隣接した建物に至るまで、馬と薔薇園と周りを囲む高塀以外の全ての物が一夜にして忽然と消失したーーは、翌日の夜になって一気に城下へと噂が駆け巡った。
これにより多くの招待客らが宿泊していた高級宿には、どこも同じように噂を耳にした数多の人々が一斉に押しかけた。
身内や従者、友人とーーあれこれ関係者を名乗り行方不明者の安否を問い詰める者、部屋で帰りを待ちたいと申し出る者、荷物を引き上げて宿泊の精算をしてほしいと言い出す者……
これが場末の安宿ならば、お好きにどうぞとなるやもしれないところだが、そこは高級宿、確実に関係者であると身分の保証が出来ぬ者をおいそれと部屋まで通すわけには行かない。
ここ、高級宿『ダランスエンス』もまたそんな宿の一つだった。
血走った目をした人々の押し寄せるフロントは、さながら戦場のようである。仕方なしに急遽休みであった用心棒達すらも召集し、緊急で対応に当たっている。
「ですから! 何度も申し上げておりますが、私共にも今回の事件の詳細は一切知らされておりません。今判明している事実は、当宿にご宿泊頂いたお客様の中に現在消息不明の方が多数いらっしゃるということのみでございます。申しわけございません。お部屋へのご案内については緊急事態ということで、ご宿泊されておりますお客様とのご関係が確認出来ました方から、対応させて頂きます」
さすがは高級宿とあって、混乱する人々をなんとか宥めながらどうにかこうにか捌いていく。
パニック状態にあるとはいえ、基本的には高級宿に宿泊するような者の関係者である。それなりの良識のある者は、宿の説明に「それもそうだ」と納得し、動揺する気持ちを抑え順番を待つ列へと並び始めた。
もちろん中には、とにかく通せと恫喝したり、身分も提示せずごねる奴もいる。その大半が安宿泊まりを強いられていた下っ端従者か、噂を聞きつけてコソ泥を働こうと企てる頭の悪いチンピラ共だった。
怪しい輩を用心棒達が、次々に外へと叩き出していく。
そしてしばらくの時が過ぎーー
先に部屋へと通された関係者の何人かが慌ただしく部屋の荷物を外の荷馬車へと運び出し始めた頃……ようやくフロントへの順番を待つ列の後方へと並んだ少年がいた。
ごくありふれた一般的な庶民服、フードを目深に被り、周りの誰とも目を合わせようとしない。
その様子を見た宿の主人が、彼にそっと近づき声をかける。
「失礼ですが……」
主人の問いかけに、少年がほんの少し顔を上げた。
それは主人にだけその顔が認識出来る絶妙な角度。そしてさらに、彼はその右手の手袋をずらしてその甲を主人へと見せた。
「おお、やはり君でしたか……」
主人はそう呟くと、少年を引き連れその場を後にした。
「てっきり一緒に晩餐会へ行かれたものだとばかり思っていましたが、君は今までどこに?」
部屋までの道中、主人は少年へと会話を投げた。
彼等に当てがった3等特別室に当たるその部屋は3階の角に位置する。階段を登る傍ら、少しばかり気になったことを口にしたのだ。
「はい。当初はその予定で出発したのですが、実は主人の持つ招待状では私のような者の参加は認められないということが現地で分かりまして……かといってすぐにこちらへと私が引き返してくるのはその……」
「なるほど。体裁が悪いと?」
「はい。それで迎えに行くまで安宿で身を隠しているようにと……」
「ハハハ。いかにもジョルドール様らしいですな」
「恐れ入ります」
「ここへは噂を聞いて?」
「はい。迎えがないのはさほど気にしておりませんでしたが、つい先ほど噂を耳にして驚いてこちらに…… このような服装で申しわけありません。主人の手前、どうーー」
「いやいや、君の容姿は目立ちますからな。それで正解だったと思いますよ。まぁ、何にせよ、君が現れてくれたお陰で、ジョルドール様達の生存が確認出来ました。なにせここへ入れる奴隷は君くらいのものですからね」
「恐れ入ります」
少年は宿の主人に深く頭を下げてから、昨日朝にチェックインした部屋の中へと入った。
部屋は薄暗かった。
月の綺麗な夜とはいえ、窓から差し込む月明かりだけでは、目的のものは探せそうにない。
少年はテーブルの上に置かれている魔石ランプへと魔力を通した。
一瞬にして、優しい光が部屋を明るく灯す。
最新型の高性能な高級魔石ランプ。流石は高級宿、ランプ一つですら手を抜いていない。
少年はランプをかざし、一応室内に人影がないことを確認してから、蒸し暑いフードを下ろした。
こげ茶色と薄紅色が混じり合った不思議なグラデーションの絹のような髪をかき上げ、深いため息を吐く。
そして目的の物があるはずの場所へと足を進めた。
そこは少年にあてがわれた荷物置きの一角――
「……え?」
確かにそこに置いたはずの鞄が見当たらない。
「探してるのは、コレか?」
不意に背後から聞き覚えのある声が響いた。そこに混じる侮蔑の臭いが人違いではないことを物語る。
「貴方が何故、ここにいるんです?」
振り返らずに、背後の人物へと質問を返した。
「そりゃヤンゲ・ジョルドールに命じられたからだよ。留守の間に、泥棒にでも入られたら困るからってな」
「なるほど。用心のいい事ですね」
「そんな事より、何でお前だけ生きてるんだ? タラバ」
背後で嘲笑する青年に呆れたように軽く両手を上げ、タラバが冷たい目つきで振り返った。
先ほどよりも濃くなった薄紅色の髪が、美しく煌く。
「僕は結局、晩餐会には行かなかったので」
冷たく微笑むタラバは、いつもにも増して美しい。
「フ、フン。残念だが、オレはお前は言葉は信じない。昨日まではあったはずの左耳がないのがその証拠だ。能無し共と違って、オレはお前の得体の知れない黒さには昔から気付いてた。大嫌いだったからな!」
「そうですか……」
(その割には随分とセクハラ紛いのことをされてきましたけど……?)
タラバはゆっくりと右手を差し出した。その美しい仕草に、思わず青年が喉を鳴らす。
「それはそうと、僕の鞄返してもらえますか? 優秀な奴隷頭のバリアンさん」
バリアンはジョルドール商会の古株の奴隷で、タラバよりも5歳ほど年上の奴隷頭である。生まれ持った黒髪黒目のせいで、幼い頃に親に売られた過去を恨み、性格も根性も随分と拗らせている。
「そんなに欲しけりゃ返してやらぁ。そらよっ!」
バリアンの投げて寄越した鞄を、タラバが抱きとめる。そして中身を確認し、その表情が曇った。
「もしかして、目当てのものが入ってなかったか?」
そう煽り彼が掲げたのは、紫色液体の入った小さなガラス瓶。その行為に、タラバがバリアンを睨みつける。
「そう怒るなよ。そんなに大事なものならすぐにでも返してやるさ。お前が俺の奴隷になるというならな」
「どういう意味です?」
「お前も知ってるだろ? 奴隷から抜け出すには、主人が死んでから20日間逃げ延びるか、自分の奴隷を持つかだってな」
「あー、そういえばありましたね。そんな眉唾な話も……」
「今は、オレもお前も主人を亡くした野良奴隷だ。絶好の機会じゃないか。これからはオレがお前を飼ってやるよ」
「……気持ち悪い」
「あ?」
タラバは悲しげに目を伏せると、その両手の手袋を見せつけるように外した。そしてその手の甲をゆっくりと、バリアンへと向ける。
「残念ですが…… 僕もう、売約済みなんです」
「は? なんだと! お前、一体誰に!」
思わず堪えきらなくなったタラバが、思いっきりバカにしたように笑い出す。
「ふざけるな! こ、これがどうなってもいいのか?」
動揺したバリアンが、今にも投げ割らんとばかりに手の中の小瓶をタラバへと見せつけた。
「それがなんなのかも知らないくせに…… 本当にそんなもので僕が貴方の言うことを聞くと思ってるんですか? おめでたいですね」
「グゥゥゥゥゥ! ふ、ふざけんなよ…… 」
「いつかもう少し使えるような手駒になってくれるかな? って期待していたんですけど、いつもいつも邪魔ばかりしてきて。結局、最後まで使えない人なんですね。うん、残念です」
タラバの煽りに、我を忘れたバリアンが小瓶を投げ捨て腰の鞘からナイフを取り出した。
その目を血走らせ、口の脇から泡を吹いてタラバを見据える。
「あ……ちょっとやり過ぎちゃったかな?」
結構なピンチにもかかわらず、タラバは少し苦笑いした程度で動揺する様子はない。
それもそのはず、彼はここに来る前に既に死ぬ覚悟を終わらせている。
ここへ来ることは、新たな主人であるスコティッシュフォールドにもミギエにも告げていない。
スコティッシュフォールドがその疲れからか急に寝入ってしまったのを好機に、ミギエには翌朝分の水を汲みに行くことを口実にして、部屋を抜け出してきたのだ。
1年前から、とっくに死ぬ覚悟は出来ている。ただ、心残りがないわけではないが……
(もう少し、一緒に冒険したかったかな……)
それでも、そこまでしてもどうしても手に入れたいものが、この部屋にはあったのだ。
「殺してやる…… どうしても手に入らないのなら、いっそお前を殺してやる!」
「僕は殺されても、貴方のものにはなりませんよ?」
「うぉぉぉぉぉぉぉ!」
激昂したバリアンが、ナイフを手にタラバへと襲い掛かろうとした瞬間――
「グハッーー」
――ドサッ。
タラバまであと数センチという距離でそのナイフは宙をかすめ、バリアンが倒れ込んだ。
それは強烈な手刀――背後から放たれた首筋への一撃だった。
「ようやく見つけました…… 私と一緒に来ていただきます」
そこにはーー
黒ずくめの服を着た怪しい男が跪いていた。