story1(2)_side葉月
走りながらこんな事を考えているあたり、私にはやっぱり自分の身に起きた事でも、どこか他人事のように見てしまう節があるようだ。
どこか隠れられる場所でもあればいいのだけれど。
ふと、目についた少し先にある路地。杖を抱えたままこのまま走っていても目立つだけで、体力が切れて捕まってしまうだけだし。一か八か、私はその角を曲がった。
そして、直ぐそこにあった建物の陰に隠れた。そこにタイミングよく(いや、悪く?)現れた恐らく男性(えっ? って驚いてた声が男性っぽかった。女性だったらごめんなさい)は人がいると思っていなかったのか、ビクリと体を揺らし、驚いたように目を見開いて固まる。確かに杖を握りしめてこんなところで踞み込んでいる女なんて、怪しさしか感じないんだろうけれど。
お願いだからそんなに見ないで、バレちゃうから。
と思いながら、その人物に念を送ってみた。
それで理解してくれたのかどうかは分からないけれど、その人は私から視線をはずすとそのまま何処かへ行ってしまう。暫くすると
「どこ行ったんだよ、あの女!」
なんて、さっきの絡んできた若者達の声が聞こえてきてドキッとはしたのだけれど、若者達は私には気づかずにそのまま何処かへ走り去っていった。
その後もそのままこの場所で動かずにいると、誰かが近づいてくる気配が。危ない感じはしないから、絡んできた連中ではないだろうけれど、それでもやっぱり緊張してしまって、身を縮めながら杖を握りしめていた。
「あの……、さっきの連中行ったよ? おねーさん、大丈夫?」
耳に入ってきたのは、自分と同じかそれよりももっと若い男性の声だった。
「あ、ありがとうございます」
もう既に日は落ちていた。完全に視えなくなってしまっているから、どんな人なのかは分からないけれど、どうやらこの人がさっきの連中をここから遠ざけてくれたらしい。声の方向から大体の顔の位置を予測し、出来るだけ視線が合うようにして、お礼を述べる。この体質になってから身に付いた癖とでもいうのだろうか。視えないのに視えるように振る舞ってしまうのだ。自己防衛本能が働いているからなのか、それともただの見栄なのか。兎に角、他人に隙を見せてしまうことが私は怖い。
「いや、大丈夫ならいいけど」
クスッと笑いながらその人は言った。
「その杖、もしかして……視えないの?」
言われて気づいた。……そうだった、私は今両手でこの杖を握りしめている。見る人が見れば、私が視えないことなんて、バレバレで。防衛本能も見栄も何もない。
「……はい」
嘘を吐く理由もないので私は正直に頷いた。
「そっか。よかったら、おねーさんが分かるところまで送るけど……。ここが何処だか分かってる?」
兎に角逃げるために必死で走っていたから正直、今の私の方向感覚は馬鹿になっている。ここが何処だか全く分からない。
「いえ……」
言葉少ない私に対して何かを言うわけでもなく、若者は丁寧に声をかけてくれる。話し方はなんだか非常に緩いのだけれど、そんなに悪い印象は受けない。
この若者なら、きっと大丈夫。
根拠のない自分の勘がそう告げていた。こういう時の勘もハズレることは殆どないのだ。防衛本能とはまた違うけれど、私は私の感覚を割りとそこそこ信用している。
建物の隅っこで踞み込んでいた私を若者は立たせてくれようとしていたが、大丈夫だと断った。
不必要に他人に踏み込まれたくない私の気持ちを察したのかは分からないけれど、若者は何も言うことなく、私が自分で立つのを待ってくれた。
「あ、腕……貸した方がいい?」
歩き始める前、斜め上から聞こえる声。私は声の方向に顔を向ける。きっと、視えない私を気づかってくれているのだろうけど、私はそれも大丈夫だと首を振って断った。
若者の足音を右側の耳で聞きながらゆっくりと歩く。
男達から追いかけられていた経緯を軽く話した後、若者は特に私に話し掛けてくることもなく、先ほど伝えた家の近くのコンビニの方向を目指して歩いてくれていた。沈黙も私はそれほど気にはならない。若者がどうなのかは分からないけれど。
「さっき教えてもらった住所のコンビニまであともう少しだよ」
若者に言われ、ここまで来ればあとは大丈夫だと内心ホッと息を吐く。
「本当にここまでで大丈夫? また、変なのに絡まれたりしない?」
もう家までは直ぐそこだからと言ったにも関わらず、重ねて何度も大丈夫かと聞いてくる若者。初対面の女相手に変わってるなぁ。
「大丈夫です。ここまで案内してくれて、どうもありがとうございました」
私は出来るだけ深くゆっくりと頭を下げた。
「いや……ふふっ」
何か面白いことでもあったのか、ふっ、と息を漏らしながら笑う若者。首を傾げていると、「あ、ごめんなさい」と言ってまた笑われた。
いったい何だと言うのだろうか。
「ねぇ、助けた代わりに俺のお願い一個だけ聞いてくれない?」
唐突な若者の言葉に何と返したらいいのか分からずに思わず固まる。
この若者も面倒くさいタイプだったのだろうか。連絡先を教えてくれ、とかだったらどうしよう。この若者には助けてもらった恩義があるけど、初対面の顔も知らない男の人に連絡先を教えるというのは流石に気が引ける。――って、自意識過剰か? お願いって何だろ。簡単なことならばいいのだけれど。
何も言わない、というか言えない私を気にすることなく(視えていないから、本当のところは分からない)、若者はそのまま続けてこう言った。
「おねーさんの名前、教えてよ」
なんだ、なまえ……か。拍子抜けしたけれど、やっぱり何も言えずに私は固まる。
名前だけでいいのか。よかった……。それなら。なんて考えが頭の中をぐるぐる、ぐるぐる。
「あ、ダメ?」
何も言わない私に何を思ったのか、若者の声が少し落ち込んだ気がする。
「あ……、あなたの名前は?」
私が尋ねると若者の声に少し元気が戻った。
「あー、ごめん。人に名前聞く前にまず自分が名乗れって感じだよね? 俺は篠塚公人。さっき、おねーさんと会った場所でバイトしてて」
「えっ、バイト中だったの? ごめんなさい、私迷惑かけて……」
「いや、もう上がるところだったから大丈夫だよ。帰る支度して出てきたところでおねーさん見つけて」
「ホントにありがとう……。助かりました」
「いーえ。本当に大丈夫だったから、気にしないでよ。それよりも、早く家帰った方がいいよね。ごめんね、引き止めちゃって」
自分からお願いを一個聞いてほしいと私の名前を聞いてきたにも関わらず、それを聞かずして私を家に帰そうとする彼。私がまだ名乗ってないこと、気付いてないのかな?
そう思ったら何だか、抜けてるなこの人と思わず笑ってしまった。
「いえ。あの、私は大丈夫だからあなたももう行って下さい」
「あー、そっか。俺に見られてちゃ行き辛いか。気付かなくてごめん、じゃ!」
そう言って本当に名前を聞かずに去っていく彼。
悪い人ではなさそうだし、名前くらいはいいか。そう思った私は、彼を呼び止めた。
「あの!」
「っ、はい!」
遠ざかっていた彼が足を止めたのが分かった。
「四宮葉月」
「……えっ?」
聞き返されたのが、聞こえなかったからならばそれまでだろうと思い、私は二度は言わなかった。
「私の名前」
「…………」
それから反応が返ってこなくて、どうしたらいいのか分からなかった私はそのまま彼を置いて帰ることにした。
どんな表情をしているのかなんて私には関係ない。彼のお願いを一つ聞いた訳だし、もういいだろう。
くるりと背中を向けて、私はそのまま家に帰るのだった。