コール
この作品には火災によるやけどの描写が存在します。
……ぺカっ……ペカっ……ペカっ
真空管を電気が弾く音。蛍光灯が切れかかっているようだ。煩わしい。眠りを遮るその音に、私は苛立ちながら目を覚ました。酔っ払いが腰かけているように、私の体はその椅子に全体重を預けて座っている。変な格好で寝ていたせいか、体を動かすと体中が軋むように痛んだ。
ここは一体どこなんだ?
今座っている茶色い座面のそれは、明らかに合皮と分かる素材で、ビニールのような手触りを私の掌に知らせており、電車のシートではないことは分かる。おかしい。私はいつものように職場へ向かっていたはずなのだ。
何度かに分けて瞬きし、ゆっくりと視界をクリアにしていくと、徐々に周りの景色が夢から覚めていく。そして、色の境界線をはっきりと縁取りはじめた。どうやら、ここは病院の待合廊下のようだ。
何年も前から貼ったままであろう予防注射喚起のポスターや定期健診推奨のポスターが目の前の壁にある。不潔とまでは言わないが、セロテープの跡をいくつも茶色く残したその壁は、お世辞にも綺麗だとは言えない。しかし、うす暗い。周りを見回して、受診待ちの人を見る。かなりいる。夜間診療にしては多すぎる気がした。私の隣にも人がいる。人ひとり分空けて座るその人は、流れた髪が顔を隠しているので、声もかけづらい。
それにしても暗すぎる。
雨でも降っているのだろうか? あまりにうす暗い院内には、湿気を含み澱んだ空気が支配しているように思える。雨なら、この暗さにも納得できる。
……ペカっ……
あぁ、鬱陶しい。受付に言いつけに行ってやろうか。いや、それよりものどが渇く。しかし、それを満たすことすらも億劫だ。
長い廊下には窓もなく、茶色の長椅子が廊下の壁に沿ってずっと据え付けられており、私は大人しくそこに座っていた。それにしても長い廊下だ。うす暗いのはその長い廊下にある灯りが、あの煩わしい蛍光灯だけだからだろう。あぁ、本当に鬱陶しい。長椅子と対面の壁には、いくつか四角い穴が開いている。その中から白い光がわずかに漏れて見える。おそらく、その向こうが診察室なのだろう。
老若男女。年寄りから子どもと言われる年齢まで。その誰もが声も発さずにその茶色い長椅子に呆けて座っているのが見える。
来たこともない病院、見たことのない人達。
そして、その穴の奥から声が聞こえた。
聞き取れはしなかったが、名前を呼んでいるようだ。今まで動かなかった人達から声なきどよめきを感じた。どうやら向こうの方で反応を示した者がいたようだ。
髪の長い女の人。全ての視線が彼女に集まる。その視線に急かされるようにゆらりと立ち上がり、やっと歩き始めた彼女は、足を引き摺り、脇腹を押さえ、ゆっくりとその四角い穴の中に消えて行った。
嘆息とも安堵とも呼べそうな息が残った者達から吐き出され、私もそれに自然と倣う。その後は再び静かだった。診察室だろう穴の奥からはどんな話声もしない。
……ペカっ……ペカっ……ペカっ
再び蛍光灯の音だけがじっとりと耳に付き始める。彼女は出て来ない。
誰も声を発さない。頭がぼんやりする。まるで、綿を頭の中に詰め込まれたような、不快感があった。何も考えたくない。何も考えられない。なぜなら、私の脳みそは既に使い物にならない綿なのだから。
考えることもできないのに、私はまんじりともせず、ただ待っていた。おそらくここにいる誰もが同じなのだろう。本当に何を待っているのだろう。
また、穴の中から声がする。やはり、同じように誰もが大きな息を吐き出した。今度は高校生らしい男の子だ。片手で頭を押さえながら、もう片方の手は力なく肩からぶら下がっている。彼は安定した歩調で光の中へ。
そして、彼もまた出て来ない。
誰も出てくる気配のない診察室の向こうでは、いったい何が行われているのだろう。わずかに心拍数があがる。相変わらず蛍光灯は耳に障る音を出し続けている。名前を呼ばれる誰もが、出て来ない。
何も聞こえてこない。うす暗い院内。ただ、耳障りな音だけが響く。誰も出て来ない。焦燥感に襲われた。このまま呼ばれないのだろうか。次に呼ばれるのだろうか。果たして、自分は何を待っているのだろうか。人数はかなり減ってきていた。
「ハタケヤマさん」
はっきりと名前が呼ばれた。顔を上げると残っていた全員の視線が私に注がれた。蛍光灯が光を点滅させる度にその眼光が赤く血走る。
オマエナノカ? オマエナンダナ? イクノカ? イカナイノカ?
何なんだ、こいつらは。何なんだ、ここは。気怠さは変わらない。しかし、私に思考が戻ってくる。心拍数が跳ね上がった。そして、知らないうちに立ち上がっていた。
ヨバレテイルゾ。
「ハタケヤマサン」
ヨンデイルゾ。
ペカッペカッペカッペカッ
蛍光灯の音の間隔が短くなっている。誰も声を出していない。行かなくちゃいけない。行かなくちゃ。行っていいのか? 行ってはいけないのか?
好奇とも羨望とも恐怖とも知れないものを映した眼光が私に注がれ続けている。何が言いたいんだ? 私はどうすればいいんだ? あの女の人は? あの男の子はどうしたんだ? あの中に吸い込まれた人達はどうしたんだ?
ぬらりとした影が隣で揺れた。
「イカナイノ?」
私の二の腕を何かが掴んだ。骨ばった赤黒い指が食い込み、爪を立て、親の仇かのように離れない。掴まれた腕が熱に焼かれる。そして、ぬっと近付いてきた顔を見て、堪えていた悲鳴を上げていた。男とも女とも知れない顔には穴が開いていた。そこから声が出たのだ。歯根まで見える歯と歯の間から熱い息が吹きかけられる。焼けただれた皮膚に溶けた目玉が涙の様にどろりと流れ出た。
「イカナイノ?」
つんとした匂いに吐き気を覚えた。逃げたい。ここから。どこへ。
ペカッペカッペカッペカッ
私の心臓に呼応するようにして、蛍光灯が点滅するのを速めている。
「ハタケヤマサン」
診察室から零れている光に見知った影を見た気がした。
「お父さんっ」
あの光の中に飛び込んだのか、どうだったのか。目が覚めると私は管に繋がれて寝かされていた。ピッピッピ。心電図の音が耳に届いた。そして、泣き崩れる家族と同僚の顔が目に飛び込んできた。妻に娘に小さな孫と息子。やっと動いた掌には温かい湿りがあった。
通勤中、トレーラーを含む玉突き事故に巻き込まれたらしい。普通車、軽自動車合わせて計六台、歩行者までもが巻き込まれる大惨事だった。そして、その一つが炎上した。
歩行者だった私は跳ねられた先で、その火災にも巻き込まれたらしい。そして、奇跡的に息を吹き返した。だが、歩行者を含め、四名が死亡した。意識不明の重体者はまだいるらしい。
あの病院にいた人達がそうだったのだろうか。まだあそこにいるのだろうか。
死亡が確認されている人はあの診察室に入った者だったのか、それとも、残った者だったのか。やはり薄らぼんやりとして、思い出せなかった。