善行日
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
功罪。漢字で書けばほんの二文字なのに、これほど多くのものに適用される二極性は、多くないだろう。
今のネットワーク関係だってそうだ。誰でも気軽に情報を発信できるようになった反面、嘘やおおげさな広告に惑わされる羽目になる。あまりに手軽、短時間で情報を手に入れられるがゆえに、無数の選択肢に惑わされ、真に価値あるもの、必要としているものを掴むどころか、気づかずに通り過ぎてしまうこともある。
これまで幾度となく、議論が交わされただろうが、少なくとも俺が把握している中で、一方が相手をこてんぱんにのしてしまうことは、ない。理性と妥協が織りなす、無難な着地点。「バランスが大事」に落ち着くわけだ。
バランス。天秤のように目に見える形で「傾き」が現れてくれれば、測りようもあるんだがな。実際の社会でこいつを維持するのは難しいぜ。
片方の皿が下がったから、もう片方の皿にもおもりを加え始める。もしくは下がっている皿からおもりを取り上げ始める。でも、この現実の天秤が釣り合っているかどうかは、神しか知らない。
判断のつかない俺たちは、あるいはおもりを加えすぎ、あるいはおもりを奪いすぎ、方向は違えど、また余計な傾きを産む。好況と不況が交互に来るのも、そのためだ。
このような均衡の在り方に対し、俺自身も少し関わったことがある。
今から数年ほど、前のことになる。
久しぶりにとれた、連休初日。明日も休みとなると、身体も心も羽目を外し、日付が変わっても、俺は日本酒とあたりめをテーブルの上に広げ、舌鼓を打っていた。
まだまだ宵の口、とばかりに冷蔵庫にストックしてある炭酸水を取りに行きかけて、ふとポケットの中からの振動に気づく。震源はケータイ。
学校を卒業して十年近く顔を合わせていない、同級生だった。かといって、疎遠というほどではなく、年に数回ほどメールで連絡を取り合うし、互いの現在の住処も把握している。
「今から向かう。家の鍵、開けといてもらえないか?」
それだけの文面のメール。
非常識すぎる、と思った。今まで一度も彼を家に招いたことはないし、普段から俺の部屋はゴミ屋敷もいいところだ。俺一人が横になれれば、あとはもう残骸たちの、思うがままに巣くわせている。
とても招ける状態じゃない、と文章打つのももどかしく、電話をしようとしたところで、「ピンポーン」とインターホンが鳴った。
早すぎる。家の前でスタンバイしていたかと思うほどだ。実際、開けてみると、一人の男が、半ばドアにもたれるようにして入って来た。
いくらか頬がこけ、やつれた印象を受けるが、顔立ちは紛れもなく、連絡をくれた友達本人のものだった。
どこかで飲んできたのか、それとも寝不足なのか。アルコールの臭いはしないが、足下がふらついていて危なっかしい。ここで追い返そうものなら、車か電車の餌食になる恐れさえ感じた。
「ちょっと待ってろ」と声をかけると、彼を玄関口に寝ころばせて、近くの流しにあるコップを手に取る。水を飲ませようとしたんだ。
ところが、靴の上に橋を架けるような体勢で、うつ伏せになりかけた彼は、数メートル先にある、俺の六畳間の惨状を見るや、一気に立ち上がった。ついさっきまで、死にかけにすら見える疲れ具合だったのが、まるでコンセントを差し込まれた電子機器のように、いきなり稼働を始めたかのような、唐突さだったよ。
「なあ。その部屋の掃除をやらせてもらってもいいか?」
キラキラとした目で、彼は俺に訴えかけた。
俺の部屋を根城とするのは、ビン、ペットボトル、お菓子やそうざいの空き袋や容器といった、終日引きこもりに付き合ってくれた相棒たち。すでに数ヶ月に渡る籠城で、その数は増していく一方だったところだ。
分別の仕方を俺に尋ねながら、手際よく片付けていく彼。俺よりも数段早いが、さすがにひとりでこなすには、荷が重い量だ。礼を言いつつ、俺も手伝いをしようとしたんだが、彼に止められてしまったよ。僕に任せて欲しい、とね。
正直、意外だった。久しく会っていなかったとはいえ、彼は学校で知る限りでは、どちらかというと、掃除の足を引っ張るタイプだったから。それが他人の家にお邪魔する立場になってしまった借りだと考えても、やや強引なきらいは否めない。
そのことについてやんわりと尋ねると、彼は今日が自分の「善行日」なのだと語った。
「僕たちの地元の慣習によるとね、人間は産まれて生きている、それだけでもたくさんの功と罪。両方を背負い続けているんだってさ。そして、人間は往々にして罪を重く、功を軽くしがちだ。そのバランスを整えなくては、たちまち生きていくことができなくなってしまうんだってさ」
エジプトの神の話に似たようなものがあったっけ、と俺は思った。
アヌビス神は、死者の心臓と真実の羽を、それぞれ天秤に乗せて、罪の重さを測る。魂の罪が重いほど、天秤は心臓側へと傾き、その限度を超えてしまった時、そばで待ち受けている幻獣アメミットがその心臓を食らい、二度と転生ができなくなるとか。
「人は産まれた時は、親を含めた多くの庇護者とつながっている。罪を償うすべが充実しないうちは、本来、自分で得るべき『功』の部分を、庇護者がこれまでの生涯で蓄えた、功によって補填する。それによって命を長らえることができるんだ。
守られた子供は育ち、やがて自分の手で『功』を重ねられるようになるけど、『罪』とのバランスを、完璧に取るまでには至らない。変わらず、血縁の力に頼るしかないのさ。
だが、人の生きている時間は限られている。順当にいけば、祖父母を見送り、おじおばを見送り、両親を見送ることになる。そして家族を持つのなら、『功』を子供に分けなきゃなんない。『功』の重みは、長く生きるほど、辛くのしかかってくる。
だから、僕たちの地元では、その日一日は、特に『功』を重ねるべき、という時間を作るんだ」
「それが、善行日?」
「その通り。これは一年の初めに提示されてね。わかりやすく例えるなら、ボーナスデーのようなもの、かなあ。その日にしっかりと善行を積み続けると、罪が軽くなる……と言われているんだね。身も蓋もない言い方をすれば、免罪符ってわけ」
「この部屋掃除も、その一環だと?」
「恩着せがましい真似をして、悪かったよ。だが、ここに来た時の、僕の様子を見たろ?
あれは、背負った罪の重さがもたらすもの。身体がね、あまりの辛さに、清算したがるんだよ。楽になることでね。
あんな風になって、体調を崩したり、ヘタをうって命を落としたりした人を、僕は何人も見てきている。だからこうして……」
その時、地面が揺れた。
彼はすでに床に散らばった、ペットボトル類を片付けて、冷蔵庫そばのフローリングを、雑巾がけしているところだったんだ。
そこへ、冷蔵庫の上に置いておいた、茶葉の入った缶を再利用した、小物入れが落ちていく。幸い、中身は彼には当たらなかったものの、その右手の指先数センチのところには、たまたまキャップが外れて、刃をむき出しにしたハサミが、かすかに床に食い込んで、突き立っていた。
「ほらね。気を抜くと、すぐこうだ。悪いけど、家の掃除。引き続き、やらせてもらうよ」
彼は半日ほどかけ、一人で俺の部屋をきれいにしてくれた。
礼もかねて一緒に外食し、近況報告をして夕方には別れたよ。それ以来、彼とは会っていない。電話にも出ないし、メールを送っても返事が来ない。そして、毎年来ていた彼からの連絡も、ぱったりと途絶えてしまった。以前に聞いていた彼の住まいも、もう別の人が住んでいたよ。
便りのないのは良い便り。そうはいうものの、俺は少し不安になる。
彼はしっかりと「功」を積めているのか。それとも、「罪」に押しつぶされてしまったのか、とね。