Track8: HERO
灰色の雲の影に投影した月の明かりが、くすんだ暗い夜空をボンヤリと照らす。
広い川幅を持つ河川に隣接する遊歩道から見える川面に映る街の明かりが、緩やかな川の流れに揺れてチラチラ輝く。水辺の空気は一際冷たく、白く曇る吐息が冬の訪れを感じさせた。
警察から身柄を解放されたユウコは、一時的に没収されていたギターを回収すると、店に戻る道すがらセイイチとケンジの二人に古い友人の話を始めた。
「高校生の頃、音楽好きの趣味が高じてタスク君と親しくなったんです。
一緒に曲を書いたり、歌ったり。
ギターの弾き方を教えてくれたのも彼でした」
「あいつがギターを?」
セイイチは信じられないといった表情で興味深そうに頷きながらも、記憶の中のタスクの姿を思い出したのか嬉しそうに笑った。
「高校の卒業を機にMor:c;waraが始まって、バンドの人気が出てくると、私も大学が忙しくなってきて、自然と会う機会も減っていったんです」
視線を遠くへ向けながら事実だけを訥々と語るユウコの瞳の中には、追想への寂しさと愛慕の思いが共存しているようだった。
「でも、たまに私がライブに出演するとどこで聞きつけてくるのか、気づくと客席に彼の姿があってーー よく聞きに来てくれてました」
「マメだね、あいつも」
セイイチがそんなことを言うので、ユウコが照れくさそうに笑みを浮かべて相づちを打つ。
「彼が亡くなる二週間前にも、タスク君は私に会いに来てくれました。
そのとき、彼にこのギターを預けたんです」
そう言って視線を落とすと、片手に提げた大きなギターケースをユウコが愛おしそうに見つめた。
物憂げなその瞳を見てセイイチとケンジの二人は、そのギターが彼女にとって欠け替えのない大切なものだったに違いないと強く感じた。薄汚れた傷だらけの古いギターケースだが、ユウコにとっては重要な意味を持つ思い出の品であり、長い間ガレージに放置してしまっていたことにケンジは後ろめたさを感じる。
「じゃあ、これは本当に君の?」
「はい。セイイチさんがケンジさんに譲ったって聞きましたけど」
「お店に飾るギターを探してたら、セイイチ君が持ってきてくれたんだ」
「誰のか解らないギターがずっとスタジオに残されてて、俺はずっとタスクのギターだと思い込んでたんだけどな」
「そうだったんですね」
水の流れる音だけがゆったりと響く静かな夜。三人は不思議と切なくも温かいノスタルジックな思いを同時に胸の奥に感じていた。
「お店でこのギターを見つけたときは驚きました。
はじめは同じモデルのギターが店に置いてあるのはただの偶然だと思ったんですけど、音の鳴りが良くないってケンジさんが言っていたのがどうしても気になって。
やっぱりこれは私のギターなんじゃないかって思ったんです」
「それを確かめるためにギターを持ち出したのか」
「はいーー 何も言わずに持ち出したりしてすみませんでした」
そういってユウコが頭を下げるとセイイチは「もういいよ」と先ほどとは打って変わって気の毒そうに穏やかに応じた。
「でもどうやって、確かめるつもりだったの?
特別な印やなんかは無かった気がするけど」
ケンジの質問を受けてユウコは少し恥ずかしそうに微笑むと、ポケットからスマートフォンを取り出して、保存されている画像データを呼び出して二人に見せた。
「タスク君が学生時代にギターを修理してくれたんですが、ピックガードの裏にメッセージを書いていたんです。それが裏移りしたみたいで、ギターにはまだそれが残っているはずなんです」
写真を見せられた二人は含み笑いを浮かべて「こいつは……」と面白そうに画面を覗き込んだ。ユウコが恥ずかしくなってスマートフォンを引っ込める。
「私が彼にギターを預けたとき、ピックガードは付けていませんでした。
音の鳴りが悪かったのはそれが原因だったんです。」
写真を見せたのは失敗だったかもしれないと顔を赤らめながら、納得したのかしないのか判然としない様子で顔を見合わせる二人の表情をユウコはむず痒く思いながら覗き込んだ。
「ピックガードを外すためにわざわざSeaNorthまで行ったのか」とセイイチが納得しながらも少し呆れたように応えるのを聞いて、やっぱり信じてもらえないかとユウコが落胆する。しかし意外にもセイイチが「だったら今確認してみようぜ」と悪戯っぽくほくそ笑んでユウコのギターケースを取り上げた。
遊歩道わきに設置されたベンチまで移動してケースを座面に置く。ケースの蓋を固定している留め金を外してギターを取り出すと、頭上に灯る街灯の明かりに照らして問題のピックガードをじっくりと観察し始めた。
本来、ギターの本体を保護する目的で貼られているこのパーツが音に影響することはあまりない。それでも、長年ギターには良くない環境で保存され続けていたユウコのアコースティックギターはピックガード一枚でも音色に少なからず影響を及ぼすようだった。適切な方法で交換しなければボディーを痛める可能性があり、最悪の場合は音色も変化させてしまう。
セイイチがこれからやろうとしていることに不安を感じたユウコとケンジは、ちゃんとリペアスタッフに見せた方がいいとセイイチの説得を試みるが、セイイチはまるで聞こえていない様子でピックガードを弄り続けた。指先の爪をピックガードのへりに滑り込ませてムリに引き剥がそうとするのを見て、ユウコはさすがに我慢できなくなり「止めてください!」と抗議の声を上げる。しかしそこでセイイチが何かに気づいて「ん?」と不思議そうな唸りを上げて「このピックガード……」と訝し気に呟くと「あっ!」とユウコとケンジが声を上げる間もなく、ピックガードをあっさりと剥ぎ取ってしまった。
「え…… ピックガードってそんな簡単に剥がれるもんなの……?」
剥ぎとられたピックガードを見ながらケンジが素っ頓狂な声を出す。
あっさりと剥がれてしまったことに対するショックと不可解な事態に呆気に取られてしまったユウコは、ほんの少しの時間、剥ぎ取られたピックガードを見つめたが、すぐになんて乱暴なことをするんだとセイイチの背中を恨めしく睨んだ。
「どうやら……剥がせるように貼ってあったみたいだな」
セイイチが黒いプラスチックのプレートをまじまじと眺めながらそう呟くのを聞いて、ユウコは急に合点がいったようにハッと息を飲んだ。
「たしかに、何か白い塗料みたいなもんが残ってるなぁー」
ピックガードが剥がれた部分を街灯の明かりに照らしながらじっくり観察するセイイチ。
「これか?君が言ってた証拠ってのは?」とユウコに振り返ると、恐ろしく真剣な眼をしたユウコが「そのピックガード見せてください!」と緊迫した声でセイイチに迫った。セイイチはユウコの迫力に気圧されて、声にならない返事で頷きながら、剥ぎ取ったピックガードをユウコに渡す。
ユウコは受け取ったピックガードを食い入るように見つめ、よく見えるように街灯の明かりの下に移動した。そしてすぐに何かを発見して大きく目を見開いた。
「み、見てください。これ……」
ユウコは自分の発見に驚愕しながらセイイチとケンジの二人にもよく見えるようにピックガードの裏面を明かりに照らした。
”data/sonar ”
そこには白いペンでアルファベットの文字列が書き込まれていた。
「何だこれ? もしかしてこれもその時のメッセージ?」
「いえ、このピックガードは二年前に預けたそのあとに張り替えられたものなので、
多分ーー 彼が亡くなる前に書かれたものです」
「えっ!?」
セイイチとケンジが同時に驚きの声を上げた。
「じゃあ、これの意味は!?」
セイイチがユウコに詰め寄る。その眼には大きな期待に満ちているようにユウコには見えたが、ユウコは申し訳なさそうに眼を伏せた。
「わかりません……」
セイイチの残念そうな溜息が聞こえてきそうなくらいハッキリと落胆した様子が見て取れた。
「でも、この字はーー」
「ああ、タスク本人の字で間違いないだろうな」
街灯の明かりに照らして、もう一度よくピックガードの文字を覗き込むが、この書き込みが一体何を意味するものなのか三人にはさっぱりわからないため、ただ黙ってそれを見つめるしかなかった。
「どうして気付いたんだ?」
「剥がせるように貼ってあったってセイイチさんが言ったから、
前にピックガードを張り替えた時みたいにまた何かメッセージを残してるのかもと思ったんですけど……」
「その意味が解らないんじゃな……」
「ええ……」
ギターを見つめるユウコの横顔は慈しむような優しさに満ちていながらもどこか寂し気で、二年前の出来事が彼女の心にも深い爪痕を残しているのだろうということがセイイチにも見て取れた。彼女も自分と同じように止まった時間の中に生きてきたのだろうと思うとセイイチは居た堪れなくなり、同情にも似た虚しい共感を覚えた。
「あ、そうだ」
ユウコが何かを思い出して、ジャケットの内側に手を入れると、セイイチが求めていたもう一つの探し物が現れた。
「ユウコちゃんが持ってたんだ」
ユウコが取り出したものをセイイチに受け渡すのを見てケンジが安堵して微笑む。セイイチは目の前に差し出されたデジタルプレイヤーを手に取り、ホッとした安らいだ表情を見せながら「よかった」と呟いた。懐かしそうに寂しさを湛えた瞳でセイイチの手の中にあるデジタルプレイヤーを見つめるユウコ。
「まさかセイイチさんがあの録音まで持ってるなんて驚きましたけどね」
何気なく放ったユウコのそのセリフに引っ掛かりを覚えてセイイチが「録音?」と小さく呟いた。そしてすぐに重大な事実を忘れていたことを思い出したセイイチは、彼女の言葉の意味に気づいて心臓が高鳴るのを感じた。
「あの録音聞いたのかっ!?
なんか知ってるのか!? 教えてくれっ!
誰なんだっーー あれを歌ってるのは!?」
セイイチが急に興奮した様子で詰め寄るので、ユウコは小さく驚きながらも少し照れくさそうに笑って答えた。
「……私です」
ユウコの返事を聞いてセイイチは、喜びと感動と、あらゆる歓喜の感情で飛び上がりたくなるほど興奮した。隣で聞いていたケンジも「信じられない……」と呟いて、幽霊か何かでも見たような表情で見つめている。
「やっと見つけたっ……!!
二年間……ずっと君を捜してた!!」
「えっ、どうして私を……?」
ユウコの肩を掴んで、息を詰まらせたように切れ切れ訴えるセイイチ。感情が昂るあまりユウコの戸惑う様子すら目に入らず、そのまま彼女の手を取ると「ちょっと来てくれ!」と強引に引っ張っていく。何が何だかわからないユウコは戸惑いながらも、手を引かれるがままセイイチについて行くしかなかった。そんなセイイチの背中に古い記憶の中の一コマが重なって見えた。
夕暮れに朱く染まる廊下を少年が興奮した様子で自分の手を引いていく。戸惑いながらも少し嬉しい心持でそのあとについて行くあの時の自分を思い出し、手の平に残る少年の手の温もりが鮮明に蘇った。
「じゃじゃーん!」
「えっ!? もう直ったの!?」
少年に連れらて少女がやって来たのは誰もいない放課後の音楽室だった。少女の目の前には先日少年に修理を託したアコースティックギターがあり、多少の汚れは残っているものの綺麗に整備されていた。少年が自慢げに胸を張って目を輝かせる。
「それとこれ!」
ノートに走り書きしたような簡単なコードの進行表を少女に差し出すと少し恥ずかしそうに笑う少年。受け取った譜面を眺めて驚いた様子で少女が問い返す。
「これって……もしかしてあの曲?」
「うん! ちょっとアレンジしてみたんだけど、どうかな?」
「ただ思いつきでテキトーに歌っただけなのに ーーすごいね。」
少女が何気なく口ずさんだだけのメロディーをいたく気に入った少年が曲にしたいと言い出した。少女はただの冗談だと思っていたのに、譜面を見るとほんの3~4小節程度の短い鼻歌がちゃんと一曲に仕上がっていた。
いい加減に歌った曲なので少女自身その内容を覚えているわけでもないのにこうして形になったものを見ると、アレンジというよりも少年のオリジナルと言った方がむしろ正しい。少年の才能に驚き、照れ臭さを感じつつも彼の行動が嬉しくて少女が微笑む。それに対して少年はなんだか言いづらそうに顔を伏せながら上目遣いに少女を覗き込んだ。
「ねぇ、歌ってよ!」
「えっ? ーーでも……」
「いいじゃん、お願いっ!」
少年がパチンと音を立てて顔の前に両手を合わせる。祈るように目をグッと閉じたまましばらくその姿勢で粘るので、少女は呆れながらも嬉しそうにはにかんで「仕方ないなー」と少年の申し出を受け入れた。
少年が顔を明るくして頭を上げると予め準備しておいたマイクを引き寄せてから、修理されたばかりのギターを膝の上に乗せてやけにいそいそと機材を準備し始めた。
「えっ、録音する気?」
「いいじゃん、いいじゃん。」
悪戯っぽく笑う少年の笑顔に促されて少女は仕方なくといったふうを装いながら、コホンっとわざとらしく咳払いをして喉の調子を整える真似をする。手渡された譜面でメロディーを確認してうろ覚えの歌詞を頭の中で反芻しながら、小さな声でアレンジされた曲のメロディーを口ずさんでみると、少年は嬉しそうに頷いて親指を立てた。
緊張した面持ちで視線を合わせて合図すると、少年がプレイヤーの録音ボタンを押して手元のギターで演奏をはじめた。
放課後の閑散とした、それでいてどこか温かい空気の流れる音楽室にアコースティックギターの柔らかな音色が流れ始める。イントロの演奏を聴きながら曲を間違えないように気を付けて、少女は少年の伴奏に合わせて歌い始めた。
少女の透き通る歌声がギターの柔らかな音色と絡み合い、驚くほど美しい旋律となって室内に反響する。少年は彼女の歌にうっとりと聞き惚れて、音楽に合わせて嬉しそうに体を揺らした。
2コーラスが終わったところで少年が手元を誤り演奏が途切れると、その拍子にピックガードが剥がれ落ちて床に転がった。その様子を見て二人が楽しそうにケラケラと笑い合う。少年は録音停止ボタンを押してデジタルプレイヤーを停止させた。
「ちょと外れちゃったよ。タスクちゃんと直してよぉ」
「わかったわかった。見せてみ」
少年がそういうのを聞いて少女が床に落ちたピックガードを拾い上げると、少女は何かに気づいて怪訝な眼差しを少年に向けた。少年が緊張して体を強張らせる。
「なにこれ? 男らしくない」
「え……」
少女がピックガードを少年の目の前に掲げてそういうと、そのセリフに少年は落胆して肩を落した。少女がそのまま俯いて表情を隠しながら照れ臭そうに視線だけを少年に向けて呟く。
「自分の口で言ってよ」
店の扉が開き、反射的にスタッフ達が「いらっしゃいませ」と呼びかける。
セイイチとユウコが姿を現すと二人の姿を認めたスタッフ達が「ああー、よかった。心配しましたよー」と安堵した様子で二人に駆け寄った。
店の入り口近くの席に陣取っていたシドも「申し訳ない! ウチのスタッフが余計なことしたばっかりに迷惑かけてーー」とユウコに声をかけるが、セイイチが先を急ぐようにユウコの手を引いたまま強引に店の奥のステージへと向かっていくので、シドの呼びかけは無視されてしまった。
今夜はライブがないため客の入りはまばらだが、脇目も振らず店の中を突っ切っていく二人の姿に数人の客が驚いたように目を向けた。
ステージの上に並べられているMor:c;waraの楽器を、自宅の家具を動かすようなごく当たり前のことのようにセイイチが移動させると、人が一人立てるくらいのスペースを作って戸惑うユウコをステージに引っ張り上げた。セイイチはギターをケースから取り出して彼女の前に突き出す。
「さぁ、歌ってみてくれ!!」
「……えっ……?」
突然の出来事に店内は騒然となり、全員の視線が二人に集中する。ユウコは恥ずかしさのあまり目の前のギターをセイイチに突き返すとステージから飛び出した。
明かりの落ちた店内は営業時間の賑やかさとは打って変わって、少し寂しさを感じるくらい静かで仄暗い。後片付けのために点灯しているカウンター席の小さな明かりが、項垂れるユウコの姿をぼんやり照らしていた。
「死ぬほど恥ずかしかったです……!」
恨めしそうな目付きで隣に座るセイイチを睨むユウコ。セイイチはバツが悪そうに謝って何度も頭を下げた。
「大目に見てやってよ。二年間ずっとユウコちゃんのことを捜してきたんだからさ」
ケンジの助け舟でようやくユウコはセイイチの話を聞く気になったらしい。少し不服そうに唇を尖らせながらも、何か期待するような眼差しをセイイチに向ける。
「私を捜してたってどういうことですか?」
「TASKは新曲の構想があることを俺に話してたんだ。
ただそれがどんな曲なのかは聞かされてなくて、アイツが亡くなってからこの録音データが出てきたんだよ」
そう言ってセイイチがユウコの前にデジタルプレイヤーを差し出す。充電はもうとっくに切れてしまっているためディスプレイは真っ黒で、無残にひび割れた画面が悲惨な過去をそのまま記憶しているようにユウコは感じた。
「この歌声を聞いて驚いたよ。透き通る声に豊かな表現力。
これほど優れた歌唱力を持つシンガーはプロでもそういないからな」
「まさか、ユウコちゃんだったとはね」
ケンジがセイイチのセリフに同調してそう言うと、ユウコは照れながら嬉しそうに微笑んだ。肩を窄めて恥ずかしそうに頬を綻ばせる横顔には、昔の淡い恋心を思い出しているようなあどけなさが浮かんでいるようにも見える。
「なんか恥ずかしいですね。
高校生の頃に歌った歌がこんな形で出てくるなんて……」
「高校生!?」
セイイチとケンジが驚いて声を上げるとユウコは意外そうに二人を見た。
セイイチが「そうだったのかぁ~」と心底納得したといった様子で一言漏らすと、自分の勘違いに気づいて呆れたように笑った。
「どおりで見つからねぇワケだよ。
新曲の話なんてしてたから録音もその時のものだって思い込んでたよ。
まさか昔の恋人が歌ってたなんてなぁ~」
「恋人だなんて……」
ユウコが恥ずかしそうに目を伏せる。
「録音自体は十年以上も前だったんだね。
タスクと知り合いだったなら言ってくれたらよかったのに」
旧友との再会を喜ぶような様子でケンジが嬉しそうに言う。しかしユウコはケンジのその台詞に表情を曇らせて「それは……」と一言返事をしてすぐに押し黙ってしまった。口を結んだまま逡巡する横顔には叱られるのを恐れる子供のような不安が滲んでいる。やや経ってユウコが重たそうに口を開いた。
「どうして彼が亡くなったのか、本当のことが知りたかったんです。
探ってるって知られたら、追い出されるような気がして……」
「本当のことって?」
「タスク君と再会したあの日、彼はなにか悩んでいたみたいで
バンド解散の噂とか、事務所の問題とか私もなんとなくは知ってたから、
そのことかと思ったんですけど……」
そこまで言うとユウコは言い淀んだ。次のセリフを口にするのが辛そうに口元を歪ませる。そして苦しい思いを吐き出すように続けた。
「君が羨ましいって言われたんです」
「え?」
「タスク君ーー 自分はもうすぐ歌えなくなるかもしれないから、自由に歌える君が羨ましいって、そう言ったんです……」
「もうすぐ歌えなくなる……?」
「私はタスク君が亡くなったことをニュースで知りました。
はじめはただ悲しくて、寂しくて……
でも時間が経つにつれてだんだん怖くなってきたんです。
彼に恨まれてるんじゃないかって……
新聞や雑誌でも彼が亡くなった理由について色々言われてたし、だから私……」
長年溜め込んできた不安や恐れが止め処もなく言葉となって溢れ出てくる。しかし最も恐ろしい考えを口にする瞬間には喉の奥が詰まったような息苦しさを感じた。
「もしかして彼は自分からーー」
「それは違う」
ユウコの話を遮るようにそこでセイイチが強い口調で彼女の疑問を否定した。
セイイチの表情は深い悲しみを湛えているように険しく、何かを思い詰めているようにも見える。言葉を探しているのか、自分と同じように言い淀んでいるのか、そんなセイイチの横顔に言い知れない不安を感じながら、ユウコはセイイチの次の台詞を待った。
「アイツは自殺するような奴じゃない。あいつが死んだのは俺のせいなんだ」
悔しい思いを吐露するようにセイイチがそう告げる。苦いものを無理矢理飲み下したように眉間に深い皺を刻み込むセイイチの横顔が深い苦悩を物語っていた。
「なに言ってんだよ! セイイチ君のせいじゃないだろ!
……事故だったんだ。誰の責任でもないよ!」
ケンジがセイイチのセリフを強く否定するが、セイイチは心から悔やむように苦痛に顔を歪めたまま俯いている。
ユウコは記者に囲まれながら逃げるようにビルの中へ入っていくニュース映像のセイイチの後ろ姿を思い出し、ビルの外から呼びかける記者の質問にセイイチが振り向きかけたあの時の姿が今のセイイチに重なって見えた。
「事故って、舞台装置の故障か何かだって……」
「ああ、宙吊りで登場する演出を考えてたんだ。
俺がやろうって言い出さなきゃ事故は起こらなかったかもしれないのに、俺があいつを殺したようなもんさ」
「セイイチ君……」
心底辛そうに俯くセイイチの横顔にユウコは深い罪の意識をセイイチが抱えていることを感じとった。あまりに悲痛なその姿にケンジも重苦しい表情で黙り込んでいる。
「でも、だったらどうして彼はあんなこと……?」
ユウコの質問にセイイチは考えるように目を閉じて大きく息を吸った。少し間を置いてから何かを決意したように目を開けるとケンジと目を合わせる。それに応じてケンジが無言で頷いた。
「アイツは癌だったんだ」
セイイチの意外な告白をすぐには飲み込めず、戸惑いながらその横顔を見つめ続けるユウコ。カウンターの弱いランプが作り出す濃い影の下で、暗く落ち窪んだ弱々しい眼差しがひどく悲しげな光を放つのを見て、ユウコは癌という病名の持つ絶望的な意味に気づいて言葉にならない驚きの声を上げた。
「喉に腫瘍があって、切除しないと一年も生きられないって医者に言われてたらしい。
腫瘍を切除すればもっと長く生きられたかもしれないのに、悩んでるうちにあんな事故が起こったんだ。偶然とはいえ皮肉な話だよな」
セイイチの語り口にはいつものような力強さがなく、訥々と語るその姿は憔悴しているようにさえ見えた。
「そんな話はじめてーー ……っ!」
俄かには信じがたいその話を聞いてユウコが激しく動揺する。言葉にならない思いが次々と心の中に押し寄せて、タスクと交わした最後の会話が断片的にユウコの脳裏にフラッシュバックした。
「ただでさえ妙な噂たてられてたからな。結局俺は公表しなかった。
このことを知ってるのはメンバーと、一部の関係者だけさ」
混乱するユウコに対してセイイチは落ち着いたように悄然としているが、それはただ疲れ切って既に全てを諦めてしまった姿のようにユウコには見てとれた。
「さっさと切っちまえばよかったのに。
自分の命より歌うことを選んだんだぜ。馬鹿な奴だよ……」
寂し気な眼差しで遠くを見つめるセイイチが皮肉な笑いを取り繕おうとして口元を不自然に歪ませる。そうして無理に作った笑顔はむしろ苦悶の表情に近かった。
「結局、警察の調査でも本当のところは解らかった。
ーーただ、医者が言うにはリハーサル中に気を失ったんじゃないかって話だ」
セイイチの語り口は依然として抑揚が無く、感情を交えずにただ事実だけを伝えようとしているのがユウコにもわかり、セイイチの中に巣食う後悔の深さが滲み出ているようにさえ感じた。
「病気のことを知っている人間はあの時誰もいなくて、あいつ一人で演出のリハーサルをしてたらしい。
装置の準備をするために高い足場に登った時に意識を失って、多分そのまま……」
セイイチはそこで口を噤んで押し黙った。言葉を続けるのが苦しそうに奥歯を噛んでいるのが解る。
舞台装置の故障という対外的な発表はそれ以上混乱を大きくさせないための配慮だったのだろうとユウコも理解できたが、そのことがかえって今のセイイチを苦しめているのではないだろうかとその表情を見て感じた。真実を公表できない苦しさと、その原因を作ってしまったという罪悪感が彼の心を蝕んでいる。
ユウコがどう返事をすればいいのか解らず押し黙っているとセイイチがユウコに向き直り、少しだけ表情を崩して穏やかな口調で語りかけた。
「でも、君にだけは本当のことを打ち明けようとしたのかもしれないな」
「え……?」
辛く寂しそうな表情はそのままだったが、ユウコに向けるセイイチの眼差しは優しい温もりを帯びている。
「自分の体が病魔に蝕まれていく恐怖の中で、君だけが唯一心を許せる相手だったんだと思う」
「どうして私なんか……」
「羨ましいって言われたんだろ?
それほど君はアイツにとって大きな存在だったんだ」
タスクと過ごした時間はそんなに長くなかった。学生時代はいつも一緒にいた二人も、高校卒業を機に別々の道を歩み始め、Mor:c;waraの活動が本格化するとますます会える時間は減っていった。
全く別の世界に生きている人なのに、どこで聞きつけてくるのかユウコがSeaNorthのステージに立つと決まって彼は見に来てくれる。冷静に考えればそれはあり得ないことなのに、ユウコはそれがどういう意味だったのか今まで気づかずにいた。セイイチの台詞にユウコが思わず目を潤ませる。
「はじめて病気のこと聞かされたとき俺は、情けないことに狼狽えたよ。
なんて言ってやればいいか解らなかったんだ。
俺がそんなんだからあいつはハッキリ言うのが怖かったのかもしれないな。
それでも君には伝えておきたかったんだと思う。
自分の身に待ち受ける運命を」
「そんな……私てっきり彼に恨まれてるんじゃないかって怖かったのに……」
「君が気に病む必要なんて何も無い。
むしろ、それほどまで信頼できる相手に巡り逢えたんだ。
アイツは幸せ者だよ」
そこまで言うとセイイチは体ごとユウコに向き直り、両手を膝の上についた。
「アイツのためにありがとう」
セイイチがそう言ってユウコに深々と頭を下げる。思いもしなかったセイイチの行動に、ユウコの瞳から涙がこぼれた。
嬉しいのか悲しいのか寂しいのか、どう感じるのが正解なのか解らない複雑に入り乱れた思いが瞬間的に胸の奥で爆発してずっと抑えていた感情が関を切ったように声にならない叫びと涙と共に溢れだした。
タスクに対して後ろ暗い気持ちを抱き続けて来たユウコにとっては、セイイチから礼を言われたことが何よりも嬉しくて、長い間胸の底に沈殿していた重く黒い靄が徐々に晴れていくのを感じた。長年抱え続けてきた恐れは自分の意志とは無関係に流れ出る涙と共に洗い流されていくような気がした。
思い出す度に寂しさを覚えていた錆付いた記憶の断片に温かさが戻っていく。激しい感情の波に咽び泣くユウコの様子をセイイチとケンジの二人は優しく見守り、彼らの温かさにユウコは救われる思いがした。暗く寂しかった店内が今は温かく、カウンターの三人を照らす小さなランプの光がグラスやボトルに乱反射してとても明るく見える。
ユウコはTom&Collinsが自分にとって何よりも愛おしい場所になった気がした。
しばらくして感情の揺れが収まると、ユウコはタスクと交わした会話を何気なく思い出していた。セイイチがタスクに対して抱いている罪の意識がこの先も彼を苦しめ続けるのだろうかと考えるとこのまま放っておくわけにはいかない。
タスクがMor:c;waraに対してどんな思いを抱いていたのかを語れるのは自分しかいない気がして、ユウコはまだ少し震える声でセイイチに記憶の中のタスクとの会話を思い出して語った。
「タスク君、お兄さんのこと信頼してました。
何にも無い自分に才能を与えてくれて、バンドに誘ってくれたのはお兄さんだって。 だから感謝してるって」
「あいつそんなこと……」
「セイイチさんはタスク君にとって憧れの存在だったんです」