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Track1: SLOW DOWN

 ノイズ混じりの古い録音。

 薄い膜を張ったような少しくぐもった音声データには、柔らかな音色のアコースティックギターの演奏が収録されている。

ローテンポながらも静かな力強さがあり、アクセントに織り交ぜられた低音域の弦の響きが心地よい重厚さを醸し出している。ギターの腕前は決して上手とは言えないが、どこか懐かしさを感じさせるメロディーはロックバラード特有の切なくも情熱的な雰囲気を上手く作り出していた。

 伸びのあるアコースティックギターの音色は録音環境の悪さのせいか、すぐに無音の中に溶けていってしまう。ボーカルの歌い出しが始まる直前の一小節ほどのほんの短いブレイクで音の空白が生まれると、ホワイトノイズがひときわ際立ち、ギターの余韻が完全に失われそうになった。

 徐々に薄れていく音色の影から息を潜めるように小さなブレスが聞こえる。

 ーー次の瞬間、まるで空気と共鳴しているかのような驚くほど透き通った女性の歌声がアコースティックギターの旋律に融合した。

 空気を震わせるというよりも溶け込んでいくような圧倒的な透明感。ガラスを振動させたような繊細な歌声はどこか幼く、少女のようなあどけなさを残しつつも、一方では穏和な表情の奥に秘めた強い意思が確かな存在感を放っているのも聞き取れる。

 的確に音階を捉えていく安定した技術と、曲の世界観を彼女の声として具現化させられる豊かな表現力は、聞き手の心を揺さぶるのに十分な実力を備えていた。


 もう何度この曲を聞き返したか解らない。

 これまで数え切れないほど幾度となくこの音源を繰り返し聞いてきたというのに、この優れた才能の輝きに触れるたびに、セイイチはいつも胸の奥を激しくざわつかせる。

 じっとしているのが息苦しくなるような、今にも走り出したくなるような、どこか焦燥感にも似た衝動が胸の底を突き上げる感覚。それは初めてロックに触れたときの感動をセイイチに思い起こさせた。


 3分15秒

 手元を誤ったギターが場違いな高音を発して演奏が途切れると、ほんの一瞬の間が空いたあと、若い男女の笑い声が聞こえてそこで収録が終了した。

 ”プー”という機械音がイヤホンから発せられて、時代遅れの古いデジタルプレイヤーが再生を停止する。無惨にひび割れてしまっている液晶には「Notitle」の文字が表示されている以外何の情報もなく、バッテリー残量を示す電池のアイコンが絶えず点滅していた。

 誰が歌っているのか、曲のタイトルすら解らない古い録音データに記録されている謎の才能。

 この歌声の圧倒的な魅力に気圧されて、呼吸するのさえ忘れていたセイイチは息苦しさと気だるい高揚感が体の表面を揺蕩っているのを意識した。


「ーーさんっ…… セイイチさん!」


 ふいに名前を呼ばれて我に帰るセイイチ。耳に装着したカナル式のイヤホンを取り外すと店内の喧騒が唐突に雪崩れ込み現実に引き戻された。


「ああ、悪い。なに?」

「なに? ぢゃないですよ、もぉー」


 困ったように眉間をハの字に歪めて抗議の声を上げたKが、呆れた様子でカウンターに突っ伏す。


「セイイチさんのために無理言って何とかラインナップに捩じ込んで貰ったんですから、ちゃんと聞いてて下さいよぉー」


 唇を尖らせてブツブツ文句を言いながら、Kはそのまま店の奥に位置する小さなステージに視線を向けた。そこでは小柄な体には聊か不釣り合いな、大きなアコースティックギターを胸に抱えた若い女性が現代的なポップロックを歌っていた。


「まだまだ発展途上の逸材ですよ。路上で歌ってるのを見つけて声かけたんです」


 新しい才能はいつも輝きに満ちていて、未知の可能性を感じさせてくれる。そんな彼らを見出だし、未来への扉に手を掛けられるのはごく限られた人間だけで、歴史の一部になれることにセイイチとKは誇りを持っている。

 ステージを見つめるKの横顔には、そんなまだ見ぬ未来への期待が顕れているようで、とても楽しそうで自慢げだった。しかし録音データの歌声が未だ耳の奥に残るセイイチには、ステージから流れてくる音楽が聞こえていなかった。

 現実世界に聞こえる音がどこか遠くから聞こえて来るもののように感じられて、自分一人だけが別の次元に居るようなそんな感覚にセイイチは囚われている。

 氷が殆ど溶けてしまっている飲み残しのウィスキーのグラスを手に取り、その冷たさを指の表面で確認すると、白い紙の上に垂らしたインクが黒いシミを広げていくように、指先から徐々に現実世界へ引き戻されていくような気がした。グラスに薄く残った琥珀色の液体を通して、コースターにプリントされた店のロゴが歪んで見える。


”Bar Tom&Collins”

 アンティークやインダストリアルを基調とした内装で、barというよりもカフェに近い赴きを感じさせるこの店には、業務用のコーヒーマシンも完備されているため、コーヒー目当てにやってくる客も少なくないらしい。

 店の奥には小規模ながらも本格的な音響設備が導入された小さなライヴステージあり、ジャズにロック、ラテンやカントリーなど多様なジャンルの音楽が、プロ、アマ問わず幅広いアーティスト達による生バンドの演奏で楽しめる。

 大音響のライブハウスとは違い、落ち着いた雰囲気の中で食事や酒を音楽と共に楽しめるため、最近では耳と舌の肥えた中高年達の社交場になりつつあった。

 だから今夜のように若い女性シンガーがステージに立つことはこの店では珍しい。若く張りのある声がティーンエイジャーの甘酸っぱい恋心を可愛らしく歌っているが、中年男性が多いこのバーの客層にはあまり似合わない選曲であることは間違いない。

 それでも客観達は何時もと違うこの雰囲気を素直に楽しんでいるようで、サポートバンドの面々も、いつもジャズクラブで演奏を披露している凄腕のベテランアーティスト達ばかりなのに普段あまり演奏しないタイプの曲のせいか、いつもより張り切っているようにさえセイイチには見てとれた。

 髪に白いものが混じり始めている初老の男性達と彼女とでは祖父と孫ほども年が離れているので、その対比がなんだか妙に微笑ましい。


 ようやくステージに意識が向いてきたセイイチはKが用意してくれた資料の存在を思いだしてカウンターに放置したままだった黒いファイルを手に取った。フェイクレザーの分厚いバインダーに仰々しくファイリングされている割には大した内容はなく、彼女の写真と簡単なプロフィールが印刷されているA4用紙が一枚挟まっているだけだった。

 名前はサエ。父親がイギリス人で母親が日本人。年齢は18歳とあるが、ステージに立つ彼女はそれよりもずっと幼く見える。目元のほりが深く鼻筋が通り、瞳の色が少しグリーンがかっている。一方でアジア人らしい肌の色と綺麗な黒髪がオリエンタルな雰囲気も漂わせていて、まだ幼いがほんの数年で美しい女性に成長するだろうと想像できる端正な顔だちをしていた。

 プロフィールの最後に”帰国子女”と印字されている。Kの話では日本にやってきて三年ほどで、日本語がまだ苦手らしいが、歌声を聞くかぎりではそれほど気にならなかった。時折妙なイントネーションになることはあるが、それがかえっていい味を出していて、セイイチには可愛らしく感じられた。


「どうです、彼女? 結構いい声してると思うんですけど」

 Kがセイイチに向き直って自信ありげに声を弾ませる。

「ああ、そーだな。いいんじゃないか」


 セイイチはただボーッと文字が印刷された紙の表面に視線を這わせているだけで、返答は上の空だった。そんな反応を見てKが「はぁー、やっぱダメか」と心底残念そうに肩を落とす。


「いや、ダメとは言ってねぇだろ」


 条件反射的に返事をしただけで特に意味などなかったつもりが、迂闊だったと気付いてセイイチは慌てて取り繕うが、すでに臍を曲げてしまったKには無意味だった。


「セイイチさんがそうやって気の無い返事するときは、大抵ダメじゃないスか」


「そんなことねぇよ」と言いかけて返答に詰まるセイイチ。

 まだ若く美人だし歌唱力もある。磨けばなにか光るものを見いだせるかもしれないが、それ以上の特別なものをサエに感じなかったセイイチは、彼女の歌声が人々の心に感動を生むような、一流の歌い手に成長していく姿がイメージ出来なかった。

 歌の上手な美人なら沢山いるが、頭一つ飛び抜けなければプロとしては通用しない。セイイチはそんな漠然とした物足りなさを彼女の歌声に感じながら、無意識のうちにあの歌声を思い出していた。


 丁度そのときステージで歌っていたサエが最後の曲を終えて観客達の間から拍手が起こった。サエがはにかんだ笑顔で観客に向かって頭を下げる。

 セイイチの興味を惹けなかったのが悔しかったのか、項垂れた表情でそれを見守っていたKが徐に立ち上がると「この一年、新しい才能発掘出来てないんですから、そろそろ結果出さないとヤバいっスよ俺達」と捨て台詞のように言って席を離れて、そのまま撤収作業を始めているステージに向かった。


「うるせぇよ。社長みてぇなこと言いやがって」


 Kの言い分を理解しながらも、それを素直に受け入れられないセイイチは、店内の喧騒にかき消されてしまうほどの小さな声でKの背中に向かって悪態を吐いた。

 Kと共に仕事をするようになって三年近くになる。もとは同じレーベルに所属する後輩アーティストだったのだが、セイイチが仲間と共にインディーズレーベルを立ち上げ、移籍の話が進んでいたのと同じ時期に、Kの所属していたバンドが解散してしまったため、Kはセイイチのサポート役として共にレーベルを移籍することになった。以来、スカウトとプロデュースの仕事を共にし、今ではセイイチにとってKは無くてはならない存在になっている。

 己の信念に正直でこだわりが強い割に直情的で気が短いため、他人と行動を共にしたり協調するのがセイイチは苦手だった。業界内では気難しい人物だと噂されているらしいが、今の自分が自由に振舞えるのはKという有望な右腕がいてくれるからこそだとセイイチ自身理解している。しかし最近になってKとの意見の相違が表面化するようになってきており、セイイチはそれが気がかりだった。

 因みにKというのはバンド時代のあだ名で本名は圭一。セイイチと組まされた時、発音が似ていて紛らわしいという理由で、セイイチが社内の名簿や名刺まですべて”K”に統一させのだった。


 Kが立ち去り際に残したセリフに苛立ちながらセイイチは溶けた氷で薄まってしまったウイスキーの残りを一息に飲み干した。


「天才プロデューサーのお眼鏡にかなう才能は未だ現れずか」


 やけに嬉しそうにニヤつくケンジがカウンター越しにセイイチを見下ろしていた。


「プロデュース業は上手くいってるかねセイイチ君?」

「嫌味な野郎だな。今の聞いてたくせに」

「これでも期待してんだよ。セイイチ君が認めた人はいつもスゴいからさ」

「よくいうぜ」


 セイイチは照れ臭そうに唇の端を歪めると表情を隠すようにケンジから視線を反らした。自然とステージへ目が向き、演奏を終えたバンドの周りにほろ酔いの客が数名集まっているのが視界に入る。撤収作業をしながら和やかに応対するサエの後ろで、Kが慣れた手つきでシールドを捌いていた。

 サエのステージが終わり、それまで静かに演奏を聞いていた客達が談笑をはじめ、料理やドリンクの注文が再開したことで店内が俄かに騒がしくなってきていた。


「店は上手くいってるみたいだな。始めた頃はガラガラだったのに」

「最近は何とかね」

「音楽辞めてバー始めるなんて言い出したときは、どうかしたのかと思ったけどな」

「自分の店を持つのは夢だったし、

 それに俺はセイイチ君やタスクみたいな天才とは違うからさ。

 君達の後にくっついていったら運良くオイシイ思いが出来たってだけだよ」

「この店が持てたのは俺のお陰ってことだな。少しはサービスしろよ」

「そういうのは溜まったツケを払ってから言ってくれるかい」


 ケンジがそう言ってセイイチの前にチェイサーのグラスを差し出す。

 店が忙しくなってくるとセイイチの相手をしていられなくなるため、ケンジが水を出すときはいつも帰れという合図になっていた。「ケンジ君、注文いいかい?」とカウンターについている客の一人が声をかけたのを皮切りに、セイイチの周りがオーダーを待つ客で賑わい始める。


 セイイチとケンジはかつて同じバンドMor:c:waraに所属し、共に夢を追いかけた同志だった。バンドはずっと続いていくものだと誰もが疑わなかったが、TASKの事故をきっかけにバンドは解散。彼らの夢は永久に潰えてしまった。

 バンドが解散した後、セイイチは仲間とともにインディーズレーベルを立ち上げ、プロデュース業を始めたが、他のメンバーも各々音楽の道を別々に歩んでいくものだとセイイチは信じていた。しかしケンジだけはあっさりと音楽から足を洗い、このbar Tom&Colllinsを開業したのだった。

 客として店に顔を出すようになったセイイチだが、もう二度とケンジと一緒に音楽を演やれないのかと考えると一抹の寂しさを覚える。


 店を出ようとカウンターに広げた私物を整理し始めたセイイチが骨董品のデジタルプレイヤーに手を伸ばしたところで「何か飲まれますか?」と女性スタッフの声が聞こえた。伸びのある穏やかな高い声で、少しだけ鼻にかかった感じが愛らしい綺麗な声だった。声に釣られてセイイチが顔を上げるとそこには、思わず目を見張る美人が微笑んでいた。

 肌の色がとても白く艶やかで、後ろにまとめた黒髪と人形のように均整のとれた目鼻立ちが大人の女性らしい美しさを備えている。その一方で健康的な赤みの差す頬や柔らかな輪郭にはどこか幼なさも垣間見えて、黒目の割合が大きい奥二重の瞳にも小動物のような愛らしさを抱かせる。そんな少し潤んだように輝く円らな瞳が、覗き込むと吸い込まれてしまいそうな怪しい奥深さも同時に湛えているのが印象的だった。

 カウンター周辺の小さなランプや店内の暖色系の照明が、無数に並べられたグラスやボトルを通してキラキラ輝き、後光のように彼女の姿を浮かび上がらせていたため、セイイチの頭の中には思わず”天使”という単語が思い浮かんだ。


「あの…… 何か飲まれます?」


 無言で見入ってしまっていたセイイチに少し怪訝な面持ちで彼女が同じ質問をする。

「あ、あぁー。じゃあ同じのをもう一杯」


 セイイチがウィスキーを注文すると女性スタッフはその返答にクスリと表情を綻ばせた。


「え、なに? なんか変なこと言ったか?」

「いえ、ごめんなさい。

 ロックンローラーは皆ウィスキーが好きだって、聞いたことがあって、本当なんだなって思ったから……」

「誰のセリフ?」

「おじいちゃん。古いロックスターのレコードを集めるのが趣味なんです」


 そう言って彼女は新しく注いだウィスキーのグラスを差し出しながら「ジャックダニエルも」と微笑んだ。

「ファンキーなじいさんだな」とセイイチがそれを受け取って冷たいグラスから一口飲んで笑う。


「エルヴィス・プレスリーの育ったテネシー州には、ジャックダニエルの醸造所があるんです。ロック発祥の地としても有名ですよね」

「よく知ってるな」

「おじいちゃんの受け売りですけどね」

「じゃあ、エルヴィスは酒が飲めなかったってのは知ってるかい?

 今でこそ、ロック=酒、煙草なんてセットみたいに思われてるけど、エルヴィスはそのどっちもやらなかったらしいぜ」

「そうなんですか? 物知りなんですね。

 セイイチさんは両方とも好きそうですけど」


 セイイチは彼女が自分の名を口にしたことに多少の驚きを覚えたが、この店で働いているスタッフならそれも当然かと皮肉めいた笑みを浮かべて内心でひとりごちる。

 客としてよく顔を出すので、セイイチの存在に気付く客も少なくないのだが、セイイチの纏う独特の雰囲気に遠慮してか、声をかけてくる客はほとんどいない。店員でも慣れるまでは少し時間がかかるため、物怖じせずに接してくれる彼女の態度にセイイチは少なからず好感を覚えた。


「俺のこと知ってんの?」

「当然ですよ! Mor:c;waraを知らない日本人なんて居ませんよ!

 伝説のバンドじゃないですか!」


 彼女が思いのほか熱を入れてそう言うのでセイイチは可笑しくなって「伝説ね……」と照れ臭そうに笑ってウィスキーを舐めた。


「私、最後のアルバムが一番好きでした。

 バンドの転換期っていうか、Mor:c;waraらしく無いんだけど、新しい可能性を感じてワクワクしたんです」

「そう言って貰えると嬉しいね。あれは自信作だ。

 発表してすぐに解散しちまったけどな」


 そう言ってセイイチは遠い目をしながら、もう一口ウィスキーを飲み込んだ。ちょうど視線の先にMor:c;wara時代の写真が飾られていて、派手な化粧や衣装で飾り立てた自分の姿が写っているのを見て少し恥ずかしくなる。

 ケンジがお客さんが喜ぶからといって、店内のいたるところにMor:c;waraとゆかりのあるアイテムを飾っているのだが、かつてのメンバー達は恥ずかしいからやめろと散々抗議してきた。しかしこれが店に客を呼び込む宣伝にもなっているため今さらやめるわけにもいかないらしい。


「解散からもう二年も経つんですね」

「ああ、つい最近のことみたいによく覚えてるよ」


 セイイチは古びたデジタルプレイヤーを手に取り、ひび割れたディスプレイを覗き込んだ。どこか寂しげな表情を浮かべる自分の顔がうっすらと黒い画面に映り込んでいて、プレイヤーの本来の持ち主だった古い友の面影がそれに重なって見えた。


「そのデジタルプレイヤー懐かしいですね。私も持ってましたよ。

 まだ動くんですか?」

「ああ、すぐに充電が切れるけど音は出るよ」


 彼女が珍しいものでも発見したように目を輝かせると「さっきは何聞いてたんですか?」と屈託ない笑顔でセイイチを見つめる。


「さあな、俺も知らない」

「え?」

「人からもらったものでね。こいつには一曲だけしか入ってないんだ」

「たった一曲だけ?」

「ああ、どこの誰が歌ってるのかも解らない曲さ。

 その一曲だけだ」


 セイイチがプレイヤーの操作パネルを触ってディスプレイのバックライトを点灯させると、画面には”No title ”の文字列が表示された。寂しげな眼差しでなにかを思い出すようにプレイヤーを見つめるセイイチに、彼女は「なんだか不思議な話ですね」と首を傾げる。


「あのCM覚えてます?

 女性がたった一人、何もない場所でアカペラで歌うやつです」

「CM?」

「ええーっと、あの歌手の人なんて名前でしたっけ?」


 何の話をされているのか分からずセイイチが首を傾げていると「内野あかり!」と突然ハッとしたように彼女が声をあげた。その名前を聞いてセイイチはデジタルプレイヤーの古いCMの映像を朧気ながらに思い出し、CMに出演していた内野あかりの高い歌唱力が当時話題になっていたことも思い出した。


「あぁー、そういやそんなCMあったな。彼女はあれで一躍有名になったからな」

「伴奏なしのアカペラであんなに人を感動させられるなんてスゴいですよね。

 私まだ小学生でしたけど、いつかあんなふうに歌える歌手になりたいって憧れました」


 少し照れ臭さそうに語る彼女の様子は、夢を追う若者達と同じで、胸に秘めた熱い思いを言葉にするのが恥ずかしいという態度に似ていた。

 この店にはケンジと親交のあるアーティストや音楽業界の関係者もよく訪れるので、ミュージシャンを目指す若者が何名かスタッフとして働いている。彼女にも彼らと同じように目標があるのだろう思い、セイイチは改めて彼女の話し声の美しさに気を惹かれた。

「じゃあ、君もシンガーなのか?」と少し期待する心持ちでセイイチが何気なく訪ねてみる。


「いえっ、私は…… ーー歌は苦手なんです」


 それまで快活に受け答えしていた彼女が急に歯切れの悪い返答をするので、その様子を不可解に感じながら「勿体ないな、良い声してると思ったんだけど」とそれとなく水を向けてみる。しかし彼女は困ったようにぎこちない笑顔を作りながら微笑むだけだった。


「試しに歌ってみてくれよ。自分でも気づいてなかった才能が見つかるかも知れないぜ」

「いやっーー そんな…… 私本当に……」


 ばつが悪そうな苦笑いを浮かべてたじろぐ彼女の様子に違和感を覚えながらも、少し強引だったかとセイイチが内心で反省していると、「いつもそうやって女の子口説いてるんですか?」と背後からKの声が割り込んできた。

 客の注文に奔走していたケンジもいつの間にか合流していて、二人で呆れた様子でセイイチを見やっている。


「大丈夫?変なことされてない? こいついい歳して若い子大好きだからさ」


 ケンジがそう声をかけると、女性スタッフはどこかホッとしたように表情を和らげた。


「おいおい、俺にだって良識くらいあるぞ」

「よくいうぜ。お前のせいで何人スタッフ辞めたと思ってんだよ」

「そんなに手ぇ出してねぇよ!」


 少しムキになってセイイチが否定すると、かえってわざとらしく聞こえてしまったのか、Kが「マジっすかセイイチさん……やりますね」と笑顔ともつかない表情で口の端を引き攣らせた。

 二人の皮肉屋の登場にセイイチが「まったく……っ!」と小さく悪態を吐いてウィスキーを啜る。グラスを持ち上げた拍子にセイイチはKの背後にサエが立っていることに気が付き「おい、その子」と彼女を指さした。その瞬間、サエが嬉しそうに目を輝かせて「あのっ  私、Mor:c;wara大好きなんです!」と店中に響き渡る甲高い声を上げながら、目の前のKを押し退ける勢いでセイイチにすり寄ってきた。

 サエのテンションの高さに面食らいながらも、よく通る彼女の声に「なかなかいいもの持ってるな」と感心している自分がいることに気づくセイイチ。つい今しがた突っぱねたばかりなのにと、皮肉めいた笑みが込み上げた。


「セイイチさんに私の歌聞いてもらえたなんて嬉しいです!」


 目をキラキラ輝かせて素直に気持ちを曝け出せるそんな若さをどこか羨ましいと感じながらも、彼女の良く通る声に反応して店内の幾人かがこちらに注目していることに気づいて急にセイイチは気恥しさを感じた。

「あ、ああ。よかったよ」といつもより控えめのトーンで返事をするが「本当ですか!ヤバい!!」と相変わらず大きな声でサエがはしゃぐので、セイイチはただ苦笑いを浮かべながら黙って嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。

 助けを求めるようにケンジを見ると、サエの迫力に圧倒されてたじろぐそんなセイイチの姿を、Kと一緒に面白そうにニヤニヤしながら見ていた。






 どこまでも透き通る歌声が、吐き出す煙草の煙とともに冷たい夜の闇に溶けていく。相変わらず無機質にNotitleの文字が表示されるだけのディスプレイには煙草の先端の赤い炎が映っていた。


 サエの迫力に圧倒される姿を面白がるケンジとKが煩わしくてセイイチは店の外に逃れてきた。

 テラス席で煙草をふかしながらバッテリーが切れかかった音源の歌声を繰り返し聞いていると、収録が途切れる直前に聞こえる若い男女の笑い声に懐かしさがこみあげてきて、男の方の声に馴染み深いセイイチは、声の主を思い出して記憶の中に保存されていた過去を呼び起こした。


「ハハハ、なんだよもう限界か?」

「当たり前だろ、ウィスキー何杯飲んだと思ってんだ」

「強い酒ばっか飲むからだろ」


 覚束ない足取りでホテルのバルコニーに踊り出るSEIICHの様子を見てTASKが無邪気に笑う。

 SEIICHIはTASKに肩を支えられて、ふらつきながらバルコニーの手摺に辿り着いた。そんな状態でも片手にはウィスキーの薄く入ったグラスがしっかり握られている。冷たい夜風を受けてSEIICHIが気持ちよさそうに鼻を鳴らす。


「こんなことしてていいのかよ俺達。十日後にはツアーのファイナルだぜ」

「息抜きも必要だろ。このところずっと張り詰めてたし、楽しそうじゃんみんな」


 そう言ってTASKが部屋の中で酔いつぶれるメンバーやスタッフ達を指差してケラケラ笑った。

 KENJIはテーブルに突っ伏して眠り、スタッフ達も眠たそうに目をこすっている。すると突然、泥酔したICHIROUが一冊の雑誌を取り上げて、呂律の回らない舌で怒鳴り始めた。


「誰だこんな記事書いた奴は!?連れてこい!ぶん殴ってやる!!」


 雑誌には『Mor:c;wara解散の危機!!』という見出しが躍っている。記事の中には前レーベルとの訴訟や、SEIICHIとICHIROUの不仲についても書かれていた。


「相当怒ってるねICHIROU君」

「あんなんでもウチの社長だからな。

 バンドのイメージが傷つけられるのが許せねぇのさ」


 Mor:c;waraは五年前、サンライズプロモーションからメジャーデビューを果たし、多くの商業的な成功を収めてきた。しかしサンライズから支払われる金額が売り上げに対してあまりに少ないため、メンバー達は不服を申し立てたのだが、サンライズはこの申し立てに取り合わず、結果的に裁判沙汰にまで発展してしまった。

 こうして事務所との関係が悪化したMor:c;waraは独立を余儀なくされ、SEIICHIとICHIROUは新レーベルEclipsRecordsを発足する。

 心機一転再始動を図るが、音源の著作権がサンライズに帰属していることと、競業避止を理由にMor:c;waraは活動を制限され、裁判は泥沼化していた。


「サンライズとは話しついたんでしょ?」

「まぁ、円満とはいかなかったけど、もう心配ねぇよ」


 Mor:c;waraは活動を制限さながらもレーベル移籍後第一段となる新アルバムを発表し、インディーズレーベルとしては異例の大ヒットを記録。アルバム発売に続いて全国ツアーが開催され、十日後にはいよいよファイナルを迎える。

 長く続いていた裁判もMor:c;wara側の主張が全面的に認められ、ようやく終結を迎えようとしていた。そんな時期に全国ツアーも千秋楽を迎えるとあって、メンバーもスタッフ達もどこか浮き足立っていた。


「二人の仲が悪いのも今に始まったことじゃないのにねぇ」


 TASKはベロベロに酔っぱらいながら雑誌記事に文句を言い続けているICHIROUを見やり、誰に向けて言うでもなくそう呟いた。それを聞いたセイイチは少し不機嫌そうに顔をしかめると「別に仲が悪いわけじゃねぇよ」と否定した。


「俺もアイツも音楽に関しては頑固だからな。これはずっと変わらねぇよ」

「結局似た者同士ってことでしょ」

「誰が……」


 TASKの指摘にSEIICHIは眉間にシワを寄せてグラスに残ったウィスキーを飲み干す。それを見たTASKが「照れてんじゃねぇよ!」とからかうとSEIICHIは「うるせぇ!そんなんじゃねぇ!」と少し本気になって憤慨した。


「やっぱり曲作りはうまくいってないの?」

「前作が良すぎたからな」

「期待を超えられるものはそう簡単じゃないか……」

「ああ」


 そこで二人の会話が途切れる。

 都会の煌びやかな明かりの上に、ひときわ大きく輝く月が浮かび、二人の影をぼんやり照らしだす。

 人工的な眩い明かりが無数に煌めく街並みと、それとは対照的に散り散りの星が浮かぶ暗い空で、まるで上下が反転したような景色を見つめながらTASKが徐に別の話題を切り出した。


「なぁ、聞いてほしい曲があるんだけど」

「なんだ、新曲か?」

「あーまぁ、そんなとこかな」

「いいけど、データで寄こすなよ。CDにしろ。PC持ってなぇからな」

「いい加減買えよな。稼いでんだから」

「うるせぇ、俺はアナログが好きなんだっ」

「いやCDはデジタル音源だけど……」

「あ?」


 他愛のないやり取りを思い出して頬を緩めるセイイチ。思わず目頭が熱くなり、胸に刺したサングラスをかけて表情を隠した。

 その時ドアに取り付けられたベルがカラカラと音を立てながら開くと、Kが店の中から出てきた。テラス席で煙草をふかしていたセイイチは、その姿を認めると特に意識したわけでもなかったが、隠すようにデジタルプレイヤーを上着のポケットに仕舞いこむ。


「あれ、セイイチさんここにいたんですか。先に帰っちゃったかと思いましたよ」

「ああーあの子は?」

「ケンジさん達と意気投合しちゃって、まだ中で話してます」

「あの子未成年だろ?ちゃんと送り帰してやれ」

「解ってますよ。セイイチさんみたいに口説いたりしませんから、ご安心を」

「お前なぁ……」


 面白半分で茶化すKに苦笑いするセイイチ。Kがそのまま徐にセイイチと同じテーブルに着くと「ーーで、やっぱりサエちゃんはダメですかね?」と世間話でも始めるような軽い調子で尋ねた。


 自分が見出した才能を是が非でも表舞台に立たせてやりたいと考えるのがこの仕事をしている人間の性だ。しかし話が深刻になるのを嫌ったのか、気を遣わせないように話を向けるKの態度にセイイチは僅かながら罪悪感を覚えた。

 新人の才を見いだすKの能力にセイイチは一目置いているが、今までKから紹介されたアーティストをプロデュースしたことは一度もなかった。決め手となるような特別なものを感じないというのが大きな理由だが、それは何か得体の知れない漠然としたものでしかなく、何が足りないのかセイイチ自身ですら理解できていないのが現実だった。


「まぁそうだな。確かに歌は上手な方だし、ルックスも悪くない。

 磨けばそれなりにはなりそうだけどそこまでだな。

 俺の求める才能じゃない」

 セイイチの答えは解っていたらしい。諦めの混じった口調で「そうスか……」とKが呟くと、残念がる子供のように唇を尖らせて視線を落とした。

 一見すると何も感じていないようなその表情からはどの程度不満を持っているのか推し量れないのがかえってこの男の難しいところだとセイイチはいつも思う。


「セイイチさんの求める才能って何なんですか?」

「何だよ急に?」


 Kの唐突な質問に面食らって、セイイチが思わず怪しむような声を出した。


「今までも有望な新人は何人かいたじゃないですか。

 たとえセイイチさんの求める才能じゃなかったとしても、原石であることには間違いないんだし。

 だったら、彼らの未来に賭けてみようって、そんなふうには考えないのかなって」


 Kは普段、セイイチが決めたことに対して抗議することは殆どない。それは大抵の場合はセイイチの判断が正しいと信じているからなのだが、セイイチが一度決めたことは、滅多なことでは覆さないということも知っているからだった。

 しかし今回は、どうやら思うところがあるらしい。いつも楽天的な態度で人と接するKは、真面目な話になっても口調が普段と変わらず軽いだけに、どれほど深刻な思いを抱いているのか汲み取りにくく、セイイチはいつも困惑する。

 Kの言い分は至極真っ当で正しい。頭ではそう理解していても、胸の奥にクリエイターとして納得のいかない仕事はしたくないというしこりのような思いがしつこく居座っている。

 このところKとの意識のすれ違いが顕著になってきているだけに、Kのこの台詞にセイイチはどう返答すべきか解らずに黙り込んでしまった。


「やっぱり例の録音データが原因ですか?」


 またも核心を突いたKの指摘に狼狽えるセイイチ。

「は?何言ってんだよ関係ねぇよ」と慌てて答えるが、わざとらしく声が上擦ってしまったような気がする。


「また聞いてたんじゃないですか、それ」


 Kがセイイチの上着のポケットを指さし、見られていたのかと、セイイチは自分の迂闊さに舌打ちしたくなった。

「いや、もう充電がねぇよ」とポケットから起動停止したプレイヤーを取り出してKの質問をはぐらかすが、Kはセイイチが取り出したプレイヤーには目もくれず、一人で納得したように「やっぱりまだ諦めてないんですね」と続けた。


「だから関係ねぇってーー!」


 Kの態度は相変わらず掴み処がなく、何を考えているのか解らない。相手の心の内を決めつけるようなその台詞にセイイチは苛立った。


「解りますよ。その歌声聞いたら、他はみんな霞んで聞こえてしまいますからね。

 だけどもう、あれから二年ですよ。

 これまで散々探し回ってきたのに、結局手掛かりすら掴めなかったじゃないですか。 なのに今更ーー」

「解ってるよ」


 セイイチの硬く低い声がKの話を遮った。

 サングラスの下に隠された表情は一切の感情が排除されているかのように冷たく、そんなセイイチの態度の急変にKは思わず凍り付く。


「お前の言いたいことは解ってる。それ以上言うな」


 なおも感情の籠らない声でセイイチが続ける。

 Kは言い過ぎたと気付いて何かフォローしようと言葉を探すが、上手い文句が見つからずに「あ、俺……」とだけ発してそのまま口籠ってしまった。

 セイイチは懐から煙草の箱を取り出すと一本咥えて火を点け、そのまま静かに立ち上がった。

「もうお前にも会社にも迷惑はかけねぇよ」とKには目を向けずに発する。


「迷惑だなんてそんなっ……」


 Kがそれに反応して立ち上がるが、セイイチはKを見ようとはしない。


「これは俺にとっての贖罪だ。

 あいつの残したこの曲を完成させることが唯一俺に許された償いなんだ」


 苦々しく、とても寂しそうな声でセイイチがそう吐き出すのを聞いてKは思わず「セイイチさんは何も悪くないじゃないですかっ!」と声を上げた。しかしセイイチはそれには答えず、背を向けたまま「先に帰るぜ。あの子ちゃんと送って行けよ」とだけ言い添えて片手を振った。


「あのっ  セイイチさんっ……」


 かける言葉が見つからず言い淀んだまま、Kは遠ざかっていくセイイチの背中をただ見送るしかなかった。






 Kの台詞が痛いほど胸に突き刺さる。

 俺はいったい何を求めているんだろう?と自問自答しながら歩いていると、気づかぬうちにポケットの中のデジタルプレイヤーを握りしめている自分がいた。

 二年前のあの日からセイイチの時間は止まったままだ。


 TASKが自分だけに明かした新曲の構想は、今となっては幻となってしまったが、セイイチの手元に残ったこのデジタルプレイヤーはその希望を繋ぐ唯一の手がかりだった。

 どこの誰が歌っているのか、この二年間で突き止めることは出来なかったが、この中に記録されている音源は紛れもなくTASKが最後に残したメッセージだった。


”何がなんでも探し出す”


 そう心に決めたときから、セイイチにとってこの曲を最後まで完成さてやせることが人生の課題となった。

 あのときTASKはどんな思いでいたのか。今となっては想像することすら難しいが、充電の切れた真っ暗なディスプレイを見ながら、セイイチは再びあの夜のことを思い出した。肌に触れる夜風の冷たさに酔いが冷めていく感覚が、あの瞬間の自分と重なる。


 どこを見るともなく、真っ暗な夜空に浮かぶ月にぼーっと視線を向けていたTASKが、なんの脈絡もなくSEIICHIに告げた一言。


「なぁ、俺さ……。

 バンド辞めようと思うんだ」

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