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この海で会いましょう

作者: 早瀬悠斗

 私は小箱を抱えながら、1年前と同じようにこの海岸に立っていた。周囲に人影は無い。海水浴客の喧騒は1週間前に起きた大規模な水難事故のために消え去り、代わりに群がっていたマスコミの姿も既に消えている。

 灯りが消えた安っぽい民宿が背後に立ち並ぶ中で月だけが光を投げ掛け、黒い海の波打つ表層を銀色に染めていた。

 


 「私たちの故郷が踏み荒らされるなんて、虫唾が走るわ。私は絶対に認めない」、故郷のリゾート開発に最後まで反対していた彼女の声が蘇った。さらに月光で仄青く光っていた彼女の横顔までが思い出され、私は目頭が熱くなった。


 「おーい、約束通り会いに来たぞ」


 黒い海に呼びかけるが、もちろん答えは返ってこない。月の光の下で海は蠢くが、飲み込んだものを決して曝け出すことは無いのだ。

 彼女は1年前にこの海に消え、その後で10人が何かに食いちぎられた状態で浜辺に打ち上げられたが、海が答えることは無い。全ての生物は海を遠い故郷とし、その中である者は再び海に還る。ただそれだけのことだ。

 


 私はそっと、銀色に染まる波に足先を浸した。1年前のあの日も、私はこうしていつまでも月の海を眺めていた。だがあの時は、隣に彼女がいて微笑んでいた。

 

 




 

 「これが、最後かもね」

 

 あの時、彼女は不意にそんなことを言った。

 

 「最後って、でも?」

 「誤解しないで。貴方を嫌いになった訳では無いわ。でも、私はここにいられなくなるかもしれない」

 

 彼女は悲しげに笑うと、月明りに浮かぶ重機とバラックを指した。開発への反対運動を指揮している彼女が、建設企業が送り込んだ暴力団に脅されていることを私は知っていた。

 

 「ならこの村を出て、一緒に…」

 

 私はそう言って、胸元にしのばせた結婚指輪を渡そうとした。しかし彼女は、全てを拒否するように月の海だけを見つめていた。

 

 「無理よ。私はここから出られない。そう決まっているの」

 

 私は押し黙った。彼女の血族は、有史以前からこの村で暮らしていたという。

 



 「いつかまた、この海で会いましょう」

 

 彼女は不意にそう言った後、開発で取り壊し予定の古びた家に戻っていった。私は彼女の後を追うことが出来なかった。

 

 次の日、彼女は行方不明になった。私は暴力団による脅迫と失踪の因果関係について警察に訴えたが、十分に鼻薬を利かされていた彼らはまともに取り合ってくれなかった。逆に私を名誉棄損で訴えると脅迫してくる有様で、私は引き下がるしか無かった。




 


 そして開発は予定通りに進められた。彼女が何よりも愛し、おそらくは彼女の墓所となった海は観光客どもの凌辱を受け続けている。しかし水難事故のお蔭で、今だけは静穏だった。

 


 ぱしゃり、不意に水音が響いた。微かといっていいほどに小さな音だったのだろうが、静寂の中では異様に大きく聞こえる。音が聞こえた方向を見ると、小さな水飛沫とともに何かの背中が月明りに照らされていた。魚だとすればかなり大きい。

 例の水難事故の原因になった鮫かもしれない。私はそう思ったが、構わず足を沖に向かって進めた。彼女と同じ海に還れるなら、それは喜ぶべきことだった。

 


 腰まで海水に浸かったころ、生き物は再び水面に現れた。大きさはよく分からないが、おそらく人間と同じくらいだろう。流線型の体は滑らかに水を切り、時折背中だけが水上に現れて銀色に輝く。陽光の下で見ればそうでも無いのかもしれないが、月光の下では異様なほどに美しく見えた。

 生き物は私を観察するように、周りを泳ぎ続けている。

 



 この生き物は鮫でも海豚でも無い。しばらく眺めていた私はそう気付いた。背鰭は無く、月光に束の間照らされる姿は魚よりむしろ人間に似ている。

 ただ人間との違いは、ずっと優雅なことだ。陸上動物たる人間は、海中ではばしゃばしゃと盛大な水音や飛沫を立てながら無様を晒すだけだが、目の前の生き物は違っていた。魚たちがそうであるように、泳ぐというよりは飛ぶように月に照らされた海を進んでいる。

 


 

 「私たちは本来、海で生まれたのかもしれないわ。ただ、その記憶を無くしているだけで」

 

 ふと、彼女の言葉を思い出した。海洋生物学を学んでいたという彼女は聡明だったが、それでいて突拍子もない話を好むところがあった。あの時は、水生類人猿説なる奇説に嵌っていたはずだ。

 人間の祖先が水中で暮らしていたというその説が正しいなら、こんな生き物だったのだろうか。そんなことを思いもした。

 そして人間の一部は、未だにその血を受け継いでいるのかもしれない。例えば、遥か昔から海に生きていた彼女の血族は…

 



 生き物はいつまでも、私の前を泳いでいる。その様子はどこか懐かしそうにも見えた。

 私は抱えていた小箱を開けた。あの時渡せなかった結婚指輪が、月明りで鈍く輝いている。

 

 私が指輪を海に投げると、彼女はそれを素早く拾って目の前で立ち上がった。水かきのついた彼女の手には、2つ目の指輪がある。私は無言でそれを受け取り、彼女に微笑んだ。

 何気に筆者初の恋愛ものです。深きものは陸上にいるから醜いのであって、本来の住処である海中では美しいのではないか。そんなことを思いながら書きました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 文体と一人称の表現が好きですね。短いながらも引き込まれる美しい作品だと思いました。 [一言] 異種族の恋愛。俺は好きです
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