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聖剣英雄(偽)譚  作者: 伽藍堂
序章~空の上
8/75

08

 オルトロスの動きは野生の狩人が獲物を狙う時のそれとは違った。


目の前の生物を見定めるように水でできた虚ろな双眸が覗く。透明の視線はどこでその情報を受け取って処理しているのか。

 鼻で水音が鳴り匂いを嗅ごうとしているらしい。

 口を開けると透明な牙が立ち並び、不思議と弾力のありそうな水製の舌が動いた。



 男女のオルトロスへ向けられた視線がどこか警戒を帯びているのを見て、由利はオルトロスが完璧に生物であることを確信した。


 生物としての定義からは外れても、それは確かに意志を持った個体だった。テロリストに服従を誓っているわけではないのだ。



 英雄と怪物は間合いを測る。



 双頭の犬の鼻面に紙切れがひらひらと降りて、水分を吸ってふやけていく。舌先が紙を体内へと誘う。


 それから水の流れは穏やかに異物を体外へ排出した。オルトロスは満足そうに唸ると、足の筋肉に、水流に力を込めた。


 座席の隙間を流れるように犬は走った。時に身体の一部を弾け飛ばしながら。水の飛沫は派手に見えても、おそらくそれは毛が抜ける程度のものだったのだろう。


 幻獣は宙に身を踊らせ、無色透明な凶器が由利の血液を求めた。


 棍棒が鼻先を強打する。


 呆気なく噴き飛ぶ怪物の躯体。


 機内に一部飛散した水は由利の身体も例外なくじんわりと濡らした。



 オルトロスは顔を失い、前足も欠けたが、心臓を中心に据えた構造に変革は起こらなかった。


 由利の身体を、座席を、壁を、天井を水は流動し、拍動を続ける心臓を中心とする流れに加わった。



 怪物は再び咆哮を上げた。

 そして再び由利を見やる。今度はより用心深く、由利を確実に攻略するように算段を立てている。



 再び機体が不規則に揺れた。乱気流にでも入っているのか。

 由利は座席に掴まって堪え、怪物の足先がばらけて揺れる。


 由利の左手が数枚の紙を引っ張り出す。筆で漢字が書かれたもの。機内で何度か使用した単なる紙切れ。それに意味を付与したのは由利だ。それから意味を引き出すのは由利だ。


 四つの文字は、『気』『火』『水』『土』の四文字は由利の意志に従って不気味に震えた。


 由利の呪術は紙を媒体としたものだ。一般的に紙と呼ばれるものならば何でも扱えるが、基本的には特注の和紙を用いる。結城由利の呪術の基本はあくまでそれであり、その一つの完成形が白童子というスーツだ。



 改めて、由利の呪術は紙を媒体としたものだ。用いたものではなく、媒介したものだ。それはつまり紙を起点に別の種類の呪術も使えるということに他ならない。


 それは紙に文字や絵で意味を付けることだ。視覚、聴覚、その他五感との同調。哲学や宗教における元素を紙に封じ込めること。封じ込めたものを解放すること。



 由利の手の中で震えた紙は、順番に中の物体を放出した。



 風はオルトロスの足元で漣を立て、炎は風の支援も受けて水の生命を燃やそうと試みた。



 オルトロスの肉体がわずかに空気中に離散して、煩わしそうな声が上がったところで濁流がその肉体に流れ込む。

 由利の水と土は混じりあって、オルトロスの心臓の懸命な働きを阻害した。本来の肉体の割合が減り、補給をしたいと思ったところにそれだった。




 オルトロスの叫びは勇猛果敢というよりは悲壮な響きを伴っていた。重い足は制御しきれず、床から引き離すことができないらしい。心臓が早鐘を打つように鼓動の速度を増して、不純物を排除しようと健闘している。


 真っ赤な器官が苦しそうに動く様子が由利の位置からもよく見えた。



 オルトロスの透明な目が決意を帯びたのを由利は見逃さなかった。それは決死の覚悟とでもいうような種類のもので、一つの生命が死を覚悟したことを如実に表していた。



 泥混じりの足が宙を舞った。


 優雅に燃える生命は虚しく障害物を破壊する。


 大きく開かれた二つの口は由利の反撃に閉口し、牙を形作っていた水が飛沫となった。



 再び立ち上がった怪物は潔く散ることこそが至高であるとでも言うように、特攻する。


 牙は数枚の紙切れを飲み込んだ。オルトロスが何を意図していたのかは分からない。ただその体内で四種類の紙が炸裂し、体内から仮初めの生命は瓦解する。


 真っ赤な器官は真っ赤な炎に包まれて蒸発した。



「これで終わりかね」



 由利の言葉に反応するかのように機体がまた大きく揺れた。由利の認識にはなかったが断続的に揺れているのだ。



「ああ、終わりだ。もうどうしようもない」


 男は壁にもたれてそう答えた。



「あの子どもは……君たちにとって何だね?」



 由利の質問に男は首を傾げた。男の脳裏にエコノミーで眠るジュリアの、いつか見た笑顔がよぎる。あの笑顔に明るい未来を、と男は静かに祈った。

 そして男は沈黙する。血の繋がりはない。


 ただ共に過ごした記憶だけが流れる。男は関係を正しく言い表す言葉を知らなかった。一方的に押し付けがましい善意と感情と願いを託された少女にとって、男は何であったのか。少女は男の何であったのか。



「他人だ」


 男の答えはそれだった。



「……あの子の両親は俺が殺したんだ。親にさえ憎まれるような奴が他人に好かれるような道理はない。俺はあいつが嫌いだ」



 男は女の肩を借り、立ち上がった。歪んだ笑みには、力がない。いや、もともと力などなかったのかも分からない。



「あの子は虐待されていたのか?」

「さあな。俺がされたようにされていたよ。親の仇かってくらいにな。いや実際家族を殺したのかもしれないけれど」



 男は上着を脱いだ。シャツをたくし上げると、古い傷が覗く。今は亡き、男の家族が与えたものだった。



「あの子を見ると昔のことを思い出すんだ。俺と友達は同じコミュニティで同じ薄暗い部屋で、拷問紛いの教育的指導を受けててさ、ある時友達が全員殺したんだよ。俺は何もできなかった。あの子は何もできずに救いを求めるだけだ」



 機体が轟音を立てて揺れた。振動と衝撃が何もかもを揺らす。由利もテロリストも一様に体勢を崩した

。三人の脳裏に同じように一様に疑問が浮かぶ。



「あんたがこの揺れを起こしてるのか?」

「何だ、てっきりそっちの奥の手か何かかと思ったのだが」

「奥の手? 秘密兵器か。そんなものがあればよかったが」




 男の言葉に由利は苦笑した。


 テロリストが振動の原因でなければ、由利は考える。いや、テロリストだけが敵でなければ、か。



「共同戦線と行かないか?」



 そんな提案が出されたその時、名城が駆け込んだ。



「先輩! あれ何ですか? 新手ですか。揉み手でもしましょうか」

「高度一万メートルの揉み手はさぞ誠意溢れるものだろうけれど、まずあれとは何だね? そして担いだ少女は下ろしたまえ」



 その時、金属がぶつかる甲高い音が機内にも届いた。機体の外から届いた。生命のいるはずのない成層圏と対流圏の狭間で生命の奏でる音が機内にも届いた。



「何ですかね?」

「化物だろう。怪物とかモンスターでもいいかもしれないな」

「説明になっていないぞ、日本人」

「説明ができないんだよ、欧米人」




 由利は立ち上がると、手を虚空に伸ばした。すると紙が舞い戻り、由利の腕に纏わりつく。驚きをあらわにして姿勢を立て直したのは拘束されていた二人。エコノミーでも一人のミイラが立ち上がり、もう一人は安らかな寝息を立て出した。


 元ミイラは倒れるようにして入室し、戸惑った様子で銃口を振り回した。


「どうなってるの?」

「降伏して、共同戦線だ」



 二人は英語で意思疎通をし、元ミイラはいくらか落ちついたようだった。

 揺れが収まり、再び立ち上がる。もはや敵意も何もなく、ただそこにあるのは生き残るための方程式。冷たい方程式が戦闘を中断させた。



 生きるためにまずは情報を。死なぬためには情報を。情報は思いのほか簡単に手に入る。五感を駆使すれば、いくつもの断片的な事実が現れる。


 何もかもが揺れている。窓ガラスの向こうに何か赤いものが見えた。音は世界の終末のように重々しい。小さな箱の世界を壊そうとする悪夢の響き。



 日本政府のエージェントとテロリストが並んで歩く様子を見て、意識のある乗客たちは首を捻った。


 どこか夢の中にいるような、あるいは遠い国の物語を見ているような、そんな感覚の中に乗客たちはいた。無論半数以上は確かに夢の中にいたのだ。滅びの旋律に身を委ねつつ、それが自らの周囲で確かに鳴り響いているのを理解していなかった。



「できるだけ近くにまとまって身体を固定したまえ」



 由利の台詞が自分たちに向けられたものだと気付いた観客たちは、それぞれ身近のシートに掴まった。


 外では何かが争っている。それが何かは分からない。誰も知らない怪物たちは勝手気ままな彼らの思惑で高度一万メートルという場所を戦場としていた。



「質問なんだが」



 そう老人が前置きをして、若者がそれを引き取った。



「もしかして右翼が燃えていないか?」



 もしかすると右翼は燃えていないのかもしれない、と期待を胸に質問者二人は目を動かした。




 期待は見事に打ち砕かれる。彼らのささやかな抵抗は怪物の起こした惨状により呆気なく意味を無くした。


 それから皆が皆、自分の冷汗の中に熱からくるものがあると知覚した。



「なるほど、道理で暑いわけだ。てっきり運動不足のせいかと思っていた」


 由利が乾いた唇を舐めた。


「俺も汗が大量に出てしまった。蒸し焼きにはなりたくないんだが」


 リーダー格の男は残念そうに言う。



 しばしの沈黙。黙祷でも奉げるように目を閉じる。さて、目を開けた。誰もが自然と同じような動作をしていた。


 目で見て、音を聞き、肌で感じて、鼻では何かが燃えるような臭いを感じ取る。

 そして言葉で噛み砕いてまでも、理解を拒否させるような現実がそこにはあった。


「先輩、死にたくないんですけど」

「奇遇だね。私もそれを思っていたところだ」



 二人は笑った。同じような会話と泣き喚くような声が飽和した。


 再びの金属音。そしてその音源は以前とは多少の変化を見せていた。確かに外から響いていたそれは少しずつ機内に侵入する。



「そこの壁に浮力を発生させる呪具がある。開けてくれ」


 由利は冷静に指示する。そしてそれからの動きを簡潔に伝えた。




 衝撃。


 飛行する箱は割れて、その機能を途切れさせた。人類の叡智の結晶たる棺桶から人々は投げ出され……。由利の目が二つの化け物を捉えた。


 悲鳴の全てが紙でできた方舟に包まれた。

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