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結界の中でそれらは全て起こっていた。僕は静かに手を触れる。結界は神の領域と人の領域を区切る見事なものだった。その穏やかな術を感じればその完成度は推し測れる。だがそれを形成するエネルギーは少女の不安を体現するように揺らぎを見せている。
由利先輩の教え子の一人は自らの術への意識をしっかりと保っている。流石のプロ意識だ。僕にはそこまでの根性はない。職業なんて金銭を得て生活するための手段に過ぎないと思う。
僕は心の底から称賛する。
僕の傍で無力さを噛みしめる恐ろしいまでの力を持つ彼女も称賛に値する。その瞳がどこを目指しているのかは想像もできないが、少なくとも僕の経済的な価値を重んじる生活が向かう先とはかなり違いがあるのだろう。
則物的なんて言えば聞こえが悪いが、理想に身を滅ぼすのも下らない。少なくとも身の丈にあった生活を僕は送る。自分らしい無個性な生活を惰性で続けていくのだろう。
「どうなった?」
陽日は聞いた。
時刻は六時を回り、夕焼けはもう見えない。夜の帳が世界を覆った。
夜の食国は月読の治める世界だ。僕はただの伝説として、神話としてそれを知っている。蒼海原を治めるとも聞いたことがあるが、月の神なのだから素直に夜の神というのがしっくりくる。あるいは月の満ち欠けと潮の満ち引きは関連性があるとも聞いたことがあるからやはりそちらでもいいのかもしれないが。
だが僕の推論はどうでもよく、月読は夜の神だ。そしてそんな月の神が支配する国では、つまりは日の光が休息を迎える世界では天照大神の権能は弱くなる。
この国の主神は日のない世界を月に任せたのだ。
いきなり日本古来の馬鹿話を始めたのはそれが現代において意味を持つからだ。さらに言えば俺の目の前において意味を持つ。
天照大神の子孫である陽日にとって昼と夜には月とすっぽんの差がある。
天皇という立場ではなく血筋が一つの特性を彼女にもたらしたのだ。それは呪術的な才能のことではなく、人としてあってはならないような能力だ。
彼女は日の光を浴びて死ぬことができない。彼女の死はいずれ冷たい夜の中で訪れる。陽日にとって夜は死神が唯一彼女に語り掛けることのできる時間帯。
陽光は彼女の細胞を活性化し、彼女の魂を肉体に縛りつける。僕のボロアパートでナイフを突き刺した時、あるいは体育館で半身を失った時、彼女の肉体は太陽の加護で再生した。
正確には知らないが。
月の光は青白い光を陽日に与えた。月光は透明の結界を透過して平等に降り注いでいた。
「終わりました」
陽日の質問に長いことを掛けて返答する。
三人が三人とも地面に腰掛けている。結界の外に呪術師は何人もいる。それにも関わらず殺し合いにそういう専門職はほとんど関わることがなかった。陽日が絡んだといえばそれもそうだが、どちらにせよ年端もいかない少年少女であることに変わりはなかった。
「良かった」
うわごとのようだった。僕は僕で地面に座る。結界は静かに効力を失った。結界術師としてもそれなりに限界だったらしくへたり込む。
結界の中だった三人の内の一人が立ち上がる。金髪の美少女が彼の体を支えている。
もう一人の少年も目を覚ましたようで身体の神経と電子回路に鞭打って身を起こした。
少女は最後にいくらか戸惑った様子で立ち上がった。その身体は一度四散したとは思えないほどスムーズだ。
「どうなった?」
滝峰彰はそう言った。
「少なくとも死んではいませんね」
それに対する言葉は死んでなくて良かったという安堵か、あるいはなぜ死んでいないのかという嘆きか。そんな疑問を抱かせるほどに淡々としていた。
「どうなったんすか?」
「死んではないらしいな」
やはり淡々とした事実確認は続く。その様子に僕の背筋で冷たいものが走る。
「そうっすか」
こちらには喜びが滲みでている。
「狼はどこに行った?」
困惑が混じる。
「ここですよ、滝峰先輩」
少女は胸を叩く。
「……私の名前が分かりますか?」
それからそう続けた。その前の発言の意図は全く伝えないままに。誰も何も言わなかった。口は閉ざされた。少女の表情は陰る。
「……仁」
滝峰彰は少年に投げ掛けた。答えが分からなかったのか。
仁少年は苦しそうに笑顔を形作る。答えを探す苦しみか、言葉を放つ苦しみか。何かがその愛想笑いの原料だ。
「……三条某さん……でしょ?」
「……もう、違うよ」
涙が土を濡らす。だがその表情は必死に笑みを浮かべようと努力していた。
「ごめんって。あまりにも朧げな名前だから」
全く誠意を感じさせない声色を仁少年は意図して出していた。それはいつしか怒りを含み出す。
「名前なんてどうでもいいからさ。勝手に死ぬなよ、朧ちゃん。別にオレがお前をお前って呼んでも、君って呼んでも、あんたって呼んでも、何も変わんねえよ。三条さんだろうが朧ちゃんだろうがさ、俺の昔馴染みはそこにいるんだよ」
その意図は伝わる。伝わるべき優しさは三条朧の心に染みいるだろう。
「どうでもよくないよ、仁くん。確かに私は私で変わんないけどさ。あんたって呼ばれるよりはもっと優しく呼ばれたいし、三条さんよりは朧ちゃんの方が嬉しいんだよ」
三条朧は仁少年に一歩近付く。目に浮かぶ涙は先程とは違う色合いで月の光を屈折させる。少年が怯んだように後ろに下がったのを彼女は追う。もう体は触れ合うほどに近い。
「ありがとね」
三条朧は傷ついた仁少年の胸に優しく頭を乗せる。壊れた装甲は暖かみを余すことなく伝えるのだろうか。仁少年の腕は困ったように宙を彷徨った後、控えめに胸の位置にある頭を撫でた。
滝峰彰は本当に困ったようで、気まずそうに周囲を見回していた。ふと、何かに気が付いたのか歩き出す。その先にあるものを見て、僕の表情は険しさを見せただろう。残念なことに滝峰彰はそんな僕の不安に気付かない。
「これどうしたらいいんだ?」
その行動は浅はかだったが、それも仕方のないことだ。彼らが意識を失っている間にその白銀の拳銃は身じろぎ一つしなかったのだから。拳銃を手に滝峰彰は質問した。仁少年と三条朧は驚いたように身を離した。多少そういう意図もあったのだろうか、と僕は邪推してみる。
三条朧の表情に恐怖が現れる。聖剣を含めた四人ともが困惑する。かといってこちら側プロもどうしたものか考えあぐねている。結局のところ拳銃は正当な所有者に返却される。三条朧はそれを受け取った。
安堵の表情は拳銃が依然として明確な反応を示さなかったことが原因だ。
「こんなのがあんな化け物になんのか」
興味深そうに仁少年は三条朧の手の中の銃を触る。
「危ないよ。暴発したら手に穴が……」
三条朧の腕が奇妙に震えた。目に怯えが広がる。
『ひゃははは。狙いを付けたら撃つだけだ』
仁少年の手に狙いを付けた拳銃は小刻みに震えながら言った。引き金を撫でるように指先が動く。二つの意志が小さな手の中でせめぎあっている。
仁少年が手を揺らすと銃口もそれを追うように動く。まるでそれ以外に向けることのできないようだ。もっと的確に狙える場所も狙うべき場所も存在するはずだが手という小さな的を執拗に追い求めていた。
拳銃を五人目の手が捕まえた。柔らかな光を放つその手はやはり少女のものだ。陽日の手は太陽のようだ。月の影響をものともしない穏やかな光源だ。
『ひゃは、女帝か。太陽は苦手なんだ。勘弁してくれ』
震えが収まる。
僕の耳に小さな声が聞こえた。僕の意識は少年少女から離れる。
「どうなったの?」
眠たそうな目を擦り、首を傾げて尋ねる少女に僕は努めて優しく返答する。
「全部終わったよ。ご飯でも食べにいこうか」




