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途切れていた意識が回復したのは体感で五分ほど経ってからのことだ。爆発した三条さんは再び地面に足を着けていた。どうやら幽霊ではなさそうだが、地に足を着けると言うのはいかにも語弊がありそうだ。少なくとも現実味は全くない。だが夢であるという感覚はない。どれだけ痛みに身を任せて起床の時間を待ったところで俺は確かに地面に伏している。
『そろそろ起きてください』
と目覚ましが言う。起床を促す声がどこから出ているかの判断に一拍要した。脳内だと気付いてつい呻きを上げる。悪いな目覚まし、御苦労と鷹揚に考える。
『誰が目覚ましですか』
血の巡りが悪く、まあそれも大分体外に血液を散撒いてしまったことが原因だが、どうにも上手く起動してくれない頭が起こした言語の不具合だ。ソフィアはそれに噛み付いた。言うなれば読点を打つ場所を間違えただけなのにそんなに怒らなくても。
『そんなこと考えさせるために起こしたんじゃありませんよ』
そうだ。ソフィアは俺を起こしてくれた。死の淵に差しかかり三途の川を名残惜しいような気持ちで引き返したところだった。ここ二ヵ月で二回も死に掛けたのか。
感慨を抱くと同時に、何か責任感のようなものの芽生えを感じる。いや義務感か。死人に鞭打つような真似を、と俺は思う。どうせならば本当に死んで置けば良かったとも。
少なくともこの足の痛みを感じることはなかったし、酷い喉の渇きも認知しなかった。生命の危険を騒ぎたてる神経の働きは俺を責める。なぜここまで俺たちを危険に晒したのだ、と。
『冗談でも自殺とか考えないでくださいよ』
嬉しいことを言ってくれる。
俺はその言葉を糧に体に力を入れる。俺の細胞たちは俺の意志に上手く従わない。代わりに悲鳴を上げて俺の命令から逃げ惑う。死から蘇った精神と死に向かい続ける肉体の間の齟齬を消化しきれず、俺は膝を着いた。
『彰さんが死んだら私たちも何もできませんから』
感動のあまり泣き崩れそうだ。俺の口元からは卑屈な笑いが漏れる。まぁいいさ。俺もソフィアが必要だ。傷口で活発に働く血小板やら白血球はソフィアの柔らかな輝きを受けている。お互いが必要で替えが利きそうにないのなら裏切られることもないさ。
『主よ、早いところあの犬ころを細切れにしませんか』
イタチは焦れたように言う。その声は脳と言うよりはいくらか高い位置で聞こえる。そういえばと体に落ちる影を見て、イタチを見上げる。
俺はその急かすような視線を浴びながら何とか立ち上がる。杖代わりのつもりかイタチはその身を大きな鎌に変化させた。
狼はやっと俺に気付いたようにこちらを見た。狼はその獣の瞳の焦点を合わせる。その手には変わらずアサルトライフルが握られている。狼は、それは、三条さんの体に獣を宿したそれは、ひゃひゃは、と笑った。愉快そうに不愉快さを抱かせる声で、俺を嘲る。
夕焼けの中、少女の体をした化け物は佇んでいた。ようやく体感で五分しか経っていなかった意識が世界の標準時に合わさる。日はまだ完璧には落ちていない。
仁はモーターを鳴らすこともなく、生きているのか死んでいるのかさえ判別できない。ただあの強化外装は死んでいるのだろう。修理しても動くかは五分五分と言った具合だろう。男女の二人組はどこにも見えない。恐らく呪術師だったのだろうが、戦略的撤退か? 俺は捨て駒か?
『朗報です』
何だ? 安らかに死なせてくれるのか? それとも全てが夢だったのか?
唐突な明るい声に、俺は幽鬼のような足取りで思考の迷路に歩みを進める。だがいくら答えを探そうと彷徨っても俺にとって朗らかな知らせは見つからない。まず朗らかからイメージができるものが限られている。温かいベッドか? それとも5月と6月が俺の嘘であった証拠か?
深いため息が聞こえる。頭蓋の内側で俺を揺らす。俺以外の何かが俺の脳に侵入しているという事実は少なくとも朗報ではない。
『少しはしゃんとしてくださいよ。彰さんの目的は何ですか?』
俺の瞳は獣の瞳を直視する。少なくとも俺の目的は狼を殺すことではない。ではなぜ狼と敵対しているのか。狼を収集するため。いや、そういうコレクターではない。自分の力を見せつけるため。誰にだ? それにそういう目的はない。殺し合いが楽しいから。それは死に掛けで陰鬱な人間がもっとも選びようのない選択肢だ。
ようやく俺の目は彼女に向く。三条さんという人間を捨ててまで、その身に大きな神を降ろした少女だ。三条さんは、先程までも三条さんと呼んでいたから今更呼びかたを変えはしないが、ともかく守らなければいけないだろう。それはなぜか?
いや、それにまで理由が必要なのか?
それで朗報っていうのはなんだよ。
あの狼を三条さんから引き剥がす方法を三つまでなら聞いてやる。
『必殺技を教えて上げますよ』
確かにそれは朗報だ。一ヵ月前に教えてくれなかったという事実がなければ。
「ひゃはははは、お前まだ生きてたのか?」
現実の言葉に戸惑う。だが自然と返答できる。自分のこの異様なまでの冷静さすら今は頼もしい。
「三条さんはまだ生きてるのか?」
どう思う? とでも言うようにそれは手を広げた。そのスムーズに動作する肉体を見せびらかすのは確かに彼女の細胞がまだ生きているのを示している。だがそんなことはどうでもいい。三条朧という後輩の魂が生きているかが問題だ。
だけれど、彼女の体は蒸発したなんて、俺は描写してしまったのだけど。
「まだ死んじゃいねえよ。ひゃは、まあすぐだけどな」
黄昏が辺りを包む。何もかもが終わる。
不思議な話だが、太陽が見守る今がギリギリのラインなのだろうと確信できた。後二十分ないくらいか。時間は多くはない。また気絶なんかしている暇はない。そんな隙を見せれば永遠の暇をプレゼントされることになる。
白銀のアサルトライフルは未だに手の中にあった。俺の視界は彼女とそれで、あるいはそれとそれの間を揺れ動く。
にやぁと不快な笑みを少女の表情筋は張り付けた。
俺の表情も歪む。
少女の綺麗な指先は白銀の鍵盤を叩いた。
プラスチックのような金属のような不思議な音色。それからすぐに火薬の爆音を奏でるだろう。
だから俺は駆け出した。手の中の大鎌と日本刀で、邪魔な方を投げつけた。俺の接近までに狙いを付けようなんて甘えた考えはお見通しだ。アサルトライフルをわざわざ振るって避けたのは失策だ。
大鎌は銃身を傷つけた。風が細腕ごと跳ね上げる。
大鎌を振った勢いのまま回し蹴りを繰り出す。何も持たない細腕がそれを受ける。
銃口はまだ空を向いていた。身軽になると、右の掌を打ちつける。少女の肺から空気が漏れる。イタチがわずかに浮いた少女を地面に抑えつけた。
あてどなく彷徨った銃口は地面に付いた。咄嗟の判断で跳び退いた足元からは爆風が吹き付ける。
全く冗談じゃない。
三条さんの放った弾丸が地面をえぐって爆発した。
俺は刀を片手に、高笑いで銃を構える少女を見据えた。腰の横に置かれた刀は夕焼けに煌めく。
『一瞬ですよ』
一瞬なんていうのも烏滸がましい。刹那の邂逅に全てを賭けるなんて冗談じゃない。
世界で一番長いマズルフラッシュが俺の瞼を焼いた。足の動きを別の生物のように感じる。暴風が刹那の邂逅をお膳だてする。俺の脳髄を引きずり出してやろうと息巻いた銃弾は確かに逸れた。
俺の網膜には笑みが写る。空気中で跳ね返った弾丸は俺の神経をどこまでも貪りたいようだった。もう止まれない。恐怖は身体に全く影響を与えることなく、俺の身体は知識として頭に焼き付いた動きをそのままトレースする。左の腰から刀は飛び出した。
偶然だった。あるいは全てが運命付けられた必然だった。俺の刃の軌道が銃弾と交差する。
それは色を失った。弾丸は三度目の軌道修正を余儀無くされる。
「トライサクセッサー」
俺の嘆願に彼女は短く応えた。彼女は白い輝きで俺を肯定する。
彼女の思い出未満の記憶が、俺の体を使って再現された。
『……奥義紅漣』
アサルトライフルを抉る剣先は輝き、それの崩壊を祝福する。アサルトライフルが砕ける。それも一時のことだろう。だから俺の動きはそこでは止まらない。剣は思いきりよく虚空へ振り抜かれた。
『それ』は勝機を見出したと錯覚した。口元が歪むのを見て、俺もその動きを自然と真似ていた。
「クラ――」
俺はそれの続きを識っている。狼少年。
『それ』の切り札。俺を殺しつくせる圧倒的な暴力。
だが、発動は許さない。
俺の身体は規定された動きを続けていた。そこに俺の意識は介在しない。俺はソフィアの知識に操られていた。
右側に流れた腕と刃に何かが纏わりつく。イタチの吹きおこす風が刃を強引に。
漣も小さくとも波は波。寄せて返す波のようにそれの首筋に斬り込んだ。残念なことに峰打ちでは紅の花は咲かないが。
だがその一閃は確かに少女の意識を隔絶の海に沈めていった。命の確かな閃き、三条朧という少女の魂がまだ燃え続けているのが見えた気がした。




