06
結城由利は後悔していた。
何を後悔しているかと言えば今の状況そのものであり、今の状況を作る行動をし始めたときには既に後悔も始めていた。
反射的に動こうとした判断は良かっただろう。いや、少なくとも悪くはなかっただろう。少年の生命の危機だ。
動かぬ理由がない。
では、なぜ、そこで足を選んでしまったのだろう。
真っ白な装甲を咄嗟に纏わせた足は、いとも容易く人類の最先端精密機械の一部を破砕した。全体から見るとドアの精密さは微々たるものだが。
必要なことだった。責任は上司にある。窓を一枚破っているくせに由利はそんなことすら考えていた。
「神祇庁呪術捜査局だ。抵抗せずに――」
マズルフラッシュが瞬き、銃口から鮮やかな閃光が放たれて、銃弾は由利の真っ白な肌に突き刺さり……かけた。
シャツに偽装された紙は本物の服の中で何重にも層を作り、装甲を形成している。もしも勢いを殺さなければ、確実に由利の鮮血が床を濡らしただろう。
身体をくの字に折ってすぐ無表情で体勢を戻した由利に、射手であった若者がつぶやいた。
「化け物か」
「君たちとそう変わらないよ」
くしゃりという音を微かに立てて由利の装甲は力を取り戻した。傍から見れば銃弾が当たった箇所が盛り上がったような不気味な光景。
「呪術師というやつか」
「身分証でも見せる必要があるかね?」
「いや。ところで僕たちの身分はこれで保証されるかい?」
鮮やかな赤に染まった瞳を指してリーダーは言う。
「いや、手荷物の銃火器類で十分だ。立派な犯罪者だよ。まぁ、それでだ。提案なのだが、大人しくお縄についてはくれないかね?」
あくまでも優しい声音で丁寧に語り掛ける。名乗りを上げたと同時に殺されかけたのである。内心では冷汗を掻きまくっている。落ちつくためにもゆったりと心掛けた。
「お縄につく、抵抗せずに諦めろ、と」
確かめるような言葉。その後ろの方で女は目を金色に光らせた。複雑な近代兵器の単純明快な音が由利の耳まで届く。由利は平和的解決が不可能であることを悟った。
「分かっているとは思うが、断らせてもらう」
「そうか、では君たちを殲滅する」
宣戦布告。死の宣告。当たり前のことながら、由利には彼らを殺す権利はない。この時代においてやっと、警察に拳銃の携帯を義務付けた日本ではたとえ権利があろうとも犯罪者を現場の判断だけで殺そうとするようなことはまずない。
それは由利も変わらない。そして由利は死をもってではなく拘束してから、事件を収拾するだけの技量をもっている。
由利の挑発に、頭を沸騰させるような血気盛んな人物はいなかったらしい。銃声でも響くのだろうと警戒していた由利に質問が浴びせられた。
「あんたの遺言、誰かに届けてやろうか?」
若者はUZIの引き金に指を掛け、銃口を由利の身体に向かわせていた。
「天国の祖母か地獄の祖父に届けてくれるかね。元気にやっている、と」
しかし引き金は引かれない。若者は確かに指先に力を入れたにも関わらず。混乱と動揺が焦りと恐怖を呼ぶ。紙切れが引き金の可動域を狭めているのに気付いた時には、銃口にも紙切れが飛び込んでいた。
若者の判断は決して遅くない。スムーズで無駄がない。
ホルスターからセカンドアームのシングルアクションアーミーを取り出すと、流れる仕草で撃鉄を起こし発砲した。リボルバーの蓮根のような弾倉が一発ごと回転する。
由利の判断は間違いではなかった。由利にとっての脅威はサブマシンガン以上の火力だ。連射される弾丸の全てを受け留めれば二発目から既に生命の危機に瀕するという自信が由利にはあった。
その自信は裏を返せばハンドガンならば装甲で防御できるというものだが、その考えとは裏腹に由利は座席の後ろに入り、射線から身を隠した。理論と恐怖は別物だった。
それにヘッドショットは一撃でアウトだ。精神的にくる。
リーダーとサブリーダーは後ろに下がり、若者と老人が前に出る。老人が持っていたM1911A1を若者が右手に構え、左手ではナイフを持つ。老人はUZIで狙いを定めつつ進む。
テロリストたちはいくつかの疑問についてそれぞれ考えていた。
まずエコノミークラスにこの呪術師はいたか? いや、いなかっただろう。
ではどこにいたのか?
もしや侵入してきたのか?
ではどこから侵入してきた?
そしていつだ?
離陸後に侵入などできたのか?
銃弾を受けてもびくともしなかったのはなぜだ?
ボディアーマーの類かあるいは?
実際のところ、由利は離陸直前から飛行機の外にいた。機外に搭乗していたわけである。
誰も予想だにしないおよそ非常識な行動だ。なにせ由利自身も不本意ながら実行し、由利の上司の指示でもない。様々なミスやタイミングの悪さが積み重なっての出来事だったのだ。
当然ながらテロリストたちはそんなことは知る由もなく、疑問ばかりが積み重なる。
計画は漏れていたのか?
なぜ真正面から堂々と入ってきたのか?
どうすれば俺たちは生き残れるのか?
そして生き残ることは最善の選択なのか?
疑問は彼らの視野の内で高くそびえ、結城由利という一呪術師の本質を覆い隠す。そして自分たちよりも目の前の自信に満ち溢れた女の方が圧倒的な優位に立っているのではないかという思考を形成する。
それは少しずつ相手の方が格上だという確信に変質していく。
二人は停止した。相手の接近戦の技量が分からない。
銃火器は接近すればするほど優位性を失う。銃口さえ向けられなければ銃弾は当たらないという単純なルールがあるからだ。
そしてもう一つ、由利の隠れたその少し後ろ側にはエコノミークラスがある。つまり由利の仲間が何人いるか分からない以上、二人はそちらも警戒せざるをえないのだ。
膠着した。
「乗客たちはゆっくりエコノミーへ行け」
リーダーの言葉に乗客たちは恐る恐る立ち上がり、手をふらふらと上げて不格好な人形のように歩き出した。
「何を考えている?」
乗客の全てが避難し終わり、由利は尋ねた。乗客の流れの中、不用意に動くことはできなかった。名城が動こうとしてもそうだろう。
「罪のない人々を戦場に放置したままというのも気分が悪い。ただそれだけのことだ」
二人の尖兵は先ほどまでと同じように構えたまま。そして少しずつ動き出す。乗客の避難の前後でまるで時が切り離されたようにあまりにも自然だった。
由利は由利で乗客の避難を促した思惑を掴みきれず、戸惑うばかりだったから状況はほとんど何も変わらない。時間稼ぎと肉の壁だったわけだ。由利は唇を噛む。
老人のサブマシンガンがけたたましい音を立てる。弾丸は座席の中に潜り込み、そのまま貫通する。
わずか二秒から三秒の間に撒き散らされた弾丸は弾倉の約半分。その中の一発たりとも由利の身に届くことはなかった。
老人は気が付かなかった。
己の手元で跳ね上がる銃に意識が向かい、気付かない。それ以前にサブマシンガンの向こう側、丁度死角になっていたのだから気付けない。
座席の下を潜って接近したロープは老人の手に絡み付いた。
色合いはほとんど床のカーペットと同じ。十全な警戒があろうとも気付けたかは微妙なライン。足を縛りつけ、さらに銃を無効化しようと紙の鎖が伸びる。
若者のSAAが火を噴き、鎖が紙切れへと変わる。
自ずと足元への注意を強めた二人に今度は上から強襲する。若者の手は宙を滑り、ナイフはスムーズに切り裂いた。
舞い散る紙片は二人の視界を遮る。
由利の肉体はようやく動いた。
座席の後ろから通路まで、通路から老人にまで肉薄する。UZIの銃身を無理矢理掴み、引っ張った。銃口が若者の振るったナイフと激突する。
老人は用を無くした短機関銃から手を離し、拳を握る。そして老人は停滞した。
老人はゆったりと停滞していた紙切れの渦に入ったのだ。細切れの紙が老人の皮膚に当たり、重なり、包装していく。顔だけを不様に出した不思議なオブジェ。
今まさに人を殴ろうという時に固定され、どこか躍動感のある彫像のような姿。
若者はたじろいだ。
リボルバーを向けようにも先には仲間である老人がいる。一瞬の躊躇。
気が付けば、目の前に由利がいる。ナイフは由利の手元で食い止められた。『パピルスナイフ』と記されたそれは文字通りナイフ以外の何ものでもなかった。
二人の腕がしなる。
お互いの右手のナイフはそれぞれ急所を容赦の欠けらもなく攻めたてる。若者は目を見張る。
紙の刃は金属を受け止め、受け流し、千切れては再生する。
ひらりと刃は紙の柔らかさを取り戻し、若者の肉を次の瞬間切り裂いていた。
由利が捻った頭の横を金属が通り抜け、お返しにとばかりに由利の足が股下に抉りこもうとする。
若者は足を引いてSAAを構え直し、そこを由利が蹴りあげる。宙を拳銃が舞い、銀と白の光がその下で踊る。
「頑張れよぉ」
特等席での観戦をしている老人は呑気な応援を送る。
どうする? 若者は考える。SAAを取り戻す必要はあるか?
由利のナイフが若者の手先を傷つける。頬を、腕を、血が伝う。
若者はナイフを投げた。由利の眉間に、骨を砕き、隠れた脳味噌を暴き出そうとナイフは意気込んで飛び込むのだ。
それを尻目に若者は飛び出した。ほぼ真上に、拳銃を求めて。
弾倉が回転し、撃鉄が次弾を解放する算段を付け終わった時。
それは由利が手を犠牲に頭を守り、一枚の紙切れを取り出したのとほぼ同時だった。
そしてその時、若者は照準を定め終わっていなかった。
「風よ」
由利は無雑作にそう言った。紙切れには『気』と記されている。狙いなどない。気流は由利の前をどこを狙うでもなく、薙ぎ払う。
暴風が空間を支配した。
SAAは若者の手の中で跳ねて、銃弾を吐き出したが、それは座席の中で静かに眠りについた。
「魔法使いが、くそ」
ことごとく理に適わない、そんな思いを吐き捨てて若者は体から力を抜いた。その体を座席に縫い止める紙。とても強靱な繊維。
「こちらだって文句を言いたい。銃なんか使って私の内蔵に穴があいたらどうしてくれるんだか。子宮にでも空いたら心が折れるだろうが」
「嬢さん、子供でもいるのかい」
「まずは良い男だ」
「頑張りなさい」
「それにだ。もうこんなに胃の痛くなるような仕事をしているというのにだ」
由利はひたすらに愚痴る。その様子はとても勤務中とは思えない。それも胃の痛くなるような荒事の仕事中とは。まるで目の前にいるのが気心の知れた友人かのように不平を吐くと二つのオブジェから目を離し、観客と化していた男女を見た。
にわかに機体が揺れる。雷のような轟音が鳴る。まるで神が鳴いているような音が響いた。