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聖剣英雄(偽)譚  作者: 伽藍堂
二章~狼
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17 ■

 久しぶりに電話が鳴った。仁は電話を取るのを渋った。正直なところ電話で誰かと話したいような気分ではなかった。


 だが誰から掛かってきたのかは気になった。だから仁はスマホを見る。そこには仁の電話に掛かるなかでも二番目くらいに珍しい人物の名前があった。


 夕方のこと。珍しくトランスで本を読んでいない午後のことだった。


 学園祭まであと数日。仁の従姉と年上の友人のグループは学園祭の準備に追われてか、ここ数日顔を見せていない。だから仁は家の中一人で本を読んでいるのだった。いつものように真っ黒な服装で真っ暗な室内で、まるで息を殺すかのようにして。部屋の明かりをつければ暗がりに溶けていきそうな様子だった。


 そんな中着信が響く。部屋の外に漏れることのなく、聞き逃がすこともない適切な音が仁の鼓膜を揺さ振った。母親に存在を気取られないための処置だった。仁は小難しい専門書から目を離す。


 スマホに浮かぶ名前は三条***。名前を何度聞いても、とうとう覚えられない同級生だ。仁は毎日学校で彼女を見る度に名前を思い出そうとし、覚えようとし、挫折する。三条***のアスタリスク部分を正確に覚えているのは仁の知る限り滝峰美咲ただ一人だった。


 仁は着信音を聞きながら迷う。取るべきか取らざるべきか逡巡する。彼女が仁に電話を掛ける理由が思い当たらない。それこそ名前を覚えていないことを唐突に怒るような内容かもしれないし、もっと違うことかもしれない。


 彼女は一応生徒会の一員だから登校はしても真面目に授業を受けようとしない仁に説教をするつもりかもしれない。もしかしたら面倒な用事を押し付けられるかもしれない。


 マイナスな想像ばかりが膨らむ。だが結局仁は通話を始める。今までほとんどかかってくることのなかった電話番号だ。単純に興味を持った。


「もしもし。吉田です」


 仁は定型句を舌で転がす。


「もしもし、朧です」


 その名前は確かに仁にとって聞き覚えのあるような気がした。そして覚えようと思う間もなく意識の狭間に溶けていく。


「何か用?」


 仁は彼女の名前に関する不可思議で理不尽な現象が嫌いだった。まるで自分が間抜けなように思えてくる。だから少し不機嫌な声音になる。


「ごめん、ただ……私の名前を覚えてるかなと思って」

「今言ってたじゃん。三条某さん」


 彼女との会話は嫌いだった。自分の無力さを噛み締めるような気分を味わっていた。それに名前のない少女との会話は自分の存在までも曖昧にしていくように感じていた。だがそれは仁が家にいることにも原因があるはずだ。怒りを彼女にだけぶつける自分自身にも怒りが湧いていた。


「私の名前は三条朧。いい加減に覚えてよ」


 その音声はノイズが混じっていた。電子機器、情報社会のエキスパートである吉田仁にとってそのノイズの正体は簡単に分かる。どんなものがどんなふうに変質するかはよく知っている。

 だがこんなノイズは子供でも正体が分かるものだ。聞くものの心にまでノイズとして潜り込むような音の出処は悲しみ。


 泣いているのだ。涙もしゃっくりも湿った声も確かに変質しているのに悲しみだけは変換されずに伝わった。


「何があったんだ?」


 仁は混乱しつつ擦れた声で尋ねる。仁からすれば泣きたいのは彼自身だった。なぜ唐突に掛かってきた電話で泣かれなければならないのか。


「いや何もないのか? 何も変わらず、誰もお前の名前を覚えていないのか」


 仁から見て三条は明るく優しい人物だ。彼女の欠点は名前を覚えられないこと。

 それは呪いだと聞いていた。その情報は彼女の兄からのものだ。高等部の長は妹の名前を覚えていない。覚えることができない。だが彼は兄として妹の名前を忘れることを自分自身に許さなかった。だから呪術を使い無理矢理脳に書きこんだ。


「もうすぐ満月だね」


 鼻水を啜る音と共にそんな声が聞こえた。話題の転換が唐突で意味が分からない。ただ少なくとも仁は彼女と月の話をした記憶はない。それすらも記憶することができないのかもしれない、と仁は少しだけ恐怖した。


「知ってるか。月がきれいですねって言葉は告白の言葉らしいぜ」


 仁はただの雑学を思いつくままに告げた。涙の音が聞こえるのは嫌だったからだ。能力を使えばそんなノイズは見事に消し去れると気付いていてもそれはしない。見つけた悲しみを覆い隠すことは仁にはできない。だから彼女の感情自体を誤魔化す。


「告白? 愛してるとかそういう?」

「おう。だから何も考えずに――」

「告白か。私も告白するよ」

「へぇ、誰に」

「仁君に」


 冗談には聞こえない。だが愛の告白だとも思えなかった。仁は電波の向こうの悲痛な声に首を傾げる。長い付き合いで、複雑な付き合いだからこそないと断言できた。


「オレ人から告白されるの初めてだわ」


 仁は渇いた唇を舌で湿らせる。できるだけ軽い口調で言った言葉は仁の心に重く停滞する。他に言うべきことがあったのではないか、と言ったそばから後悔していた。


「私も告白なんて初めてだよ。でもごめんね、初めてが名前も知らない女の子で。それに愛の告白じゃなくて」

「オレが初めてなんだろ。すげー嬉しいよ」


 仁は通話を録音しだす。たとえ彼女の名前を覚えることができなくとも、彼女の告白を忘れるわけにはいかない。金色の目は真っ暗な部屋の中輝く。


「まさか、自殺とかするわけじゃないんだろ?」

「そのまさかだったらどうするの?」

「……しかるべき手段を取るよ」


 涙声は明るい。本当に冗談を言い合うようだ。その涙さえなければ。笑いが涙の代わりにあったのならば。


「しかるべき手段ってずるいよね。死体の処理をするのか、死体を探しにいくのか」

「生きているお前ともう一度会うんだよ」

「その言い方かっこいいね。ヒーローみたい」

「それならお前はヒロインだ。ヒロインは幸せになる運命だろ?」

「でも二度目はないかもよ。もう一度会って幸せなまま死ぬのかもしれない」

「ヒーローは何度でも立ち上がる」

「でも名前がない、どこにいるのかも分からない女の子だよ。……私は……誰?」


 仁は繰り返し聞こえる涙混じりの声に、強い口調で答える。強い口調で思いこむ。だが最後の問いには答えられなかった。仁は彼女が誰か知らない。同時に自分自身が誰かも知らない。

 生物学的な母親が仁を名前で呼ぶことはないのだ。仁と彼女が抱える穴は良く似ている。


「何があったんだ?」


 仁は問う。仁の知る限り彼女は学校で普段と同じように過ごしていたはずだ。普段と同じように名前を忘れられ傷つきながら。


「もうすぐ満月だね」


 彼女は先程と同じように月の話を始める。太陽の光を浴び、月が最も美しく輝く日のことを。

 仁は部屋の壁のカレンダーを眺める。カレンダーに書かれた月の満ち欠けが役立ったのは初めてのことだった。仁は6月の日付を目で追う。


「学園祭の日が満月なのか」


 6月の13日は穏やかに終わらないだろうことが仁にも予想できた。


「高等部の後夜祭はキャンプファイヤーするんだろ。きれいそうだな」

「きれいそうだね。見てみたいな」

「来年見ればいいじゃん。伝統行事はそうそうなくならないしな」


 とりとめのない会話が続く。もう彼女の涙は止まっていた。ただその悲しそうな響きは変わらない。


「神様に会ったんだ」


 誰でもない少女はそう囁いた。その言い方は告白というより密告に近い。あるいは独白か懺悔か。仁がそこにいなくとも彼女は語り続けるし、相手が神様でもそうだろう。


「神様?」

「大きな神様。狼みたいな神様」


 彼女の声には不思議な響きがあった。まるで恐れるような、畏れるような、楽しむような、悲しむような。


「満月の夜、正式な契約をするんだって」

「正式な?」

「仮契約は済んだんだって」


 まるで他人事のように彼女はフラットに告げる。


「そのとき、私は私じゃなくなるの。名前のない人間から、名前のない怪物に変わるの」


 それが彼女にとってどういうものなのか、仁には分からない。人間から怪物になると言われても想像ができないのだ。ただ悲しむべきことなのだろう。少なくともこの通話で彼女の笑い声は聞いていなかった。


「何でオレに話したんだ?」


 仁は尋ねる。仁よりも相談するに相応しい人物はいるだろう。滝峰美咲は親友だろうし、彼女の兄である三条大樹は高校生徒会長を務める人物だ。疑問に対する答えを求めて仁は静かに彼女と自分の関係性を思い出す。


 仁と彼女の関係性は知人だ。仁はそう思っている。友人という関係性があまり好きではないのだ。それに幼なじみという関係の定義がいまいち分からないのだ。


 仁と彼女の出会いは小学生低学年の頃だ。

 聖人や魔人は生まれた時から能力を使い、目の色が変化するわけではない。覚醒する時機には個人差がある。

 出会った頃、まだ仁の目の色は変わることがなかった。まだその頃はお互い下の名前で呼び合っていた。


 仁は彼女を殺しかけたことがある。それは仁の覚醒の時だ。仁は目の色を黄金に変化させ、その結果二人の関係性も変化した。その事件を仁は漠然と覚えている。彼女はその事件を覚えていない。

 そしてその事件で二人の関係性に変化があったことに気付く者はいても、彼女の存在に変化が訪れたことを知る者はいない。彼女の名前は人知れず人々の記憶から消失した。


 彼女の呪いとは神隠しにあったこと。神に全てを隠され、名前だけを返却されなかったという呪いだ。

 仁は思い出す。今の関係性はどこまでも他人に近い、知人であるということを。


「……気まぐれだよ。誰でも良かったの」


 少しの沈黙。仁はカーテンを開ける。中途半端な形をした月光が部屋の明かりとなる。

 仁が何も言えない間に通話は終了した。


 黄金の瞳が黒に染まる。月明かりがなければどこかに溶けていきそうだった。仁は眩しい光を苦々しく睨む。そしてカーテンを閉めると、椅子に腰掛け動きを止める。


 散々話を聞いて、涙声を聞いて、もたらされたのは恐怖と痛みだった。


 仁は本を掴む。呪術に関する専門書だ。仁はそれを強く握る。それで何かが手に入るわけでもないが、ただそうしていたかった。

 言い知れぬ衝動を仁は拳を握って堪えていた。


 仁はかすむ目でパソコンの電源ボタンを押す。

 黄金に光る瞳の影響か、自動で様々な情報がネットワークに流れていく。それらの情報のほとんどは意味をなさない0と1の羅列。熱い目頭、強く握られた拳、叫び出したい衝動。感情の渦は海外のサーバーを巡り、爆発する。

 地球の裏側のコンピューターたちが悲鳴を上げたが、電子機器の王はそんなことを意に介さない。


 悲しみも混乱も恐怖も痛みも世界にばらまいた。今仁の心を占めるのは怒りだ。名前のない知人は仁が力を手に入れたいと願った最初のきっかけだ。


 後悔したくはなかった。神などという抽象概念に彼女を泣かされたことは仁の心に懐かしい感情を思い出させた。

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