05
由利先輩の視点は様々な場所に潜り込み、それを経由して監視する僕はまるで神にでもなった全能感を味わいながらも飛行機の揺れに頭を悩ませていた。
窓から外は綺麗な青空が広がっているのに不思議なことだ。こんなに揺れるものだろうか。
プロメテウスのリーダーは依然として操縦席の無線で交渉しているようだ。日本がどのように対応するのかは知らないが、先輩を乗せている以上まともに交渉する気はなさそうだ。
ファーストクラスのお金持ちの皆様方は折角のお金の力を行使することを許されず、がたがたと震えていた。
サブリーダー格の女は操縦席の方へ戻っていったので、監視役として若い男と老人がいるだけだ。
乗客を一ヵ所にまとめて怯えさせている二人組は暇潰しにか銃をばらしていたり、目を閉じてじっと動かなかったり、案外気の抜けた様子を見せている。乗客が多少の犠牲を厭わなければ相手にできただろう。
だが人を顎で使うことしか知らない彼らはそこで動くことができなかった。
若者は口を開いた。UZIの独特な銃床を伸ばして額に当て、まるで祈りを奉げるように目を閉じている。
「ジュリアはあっちで上手くやれるかな?」
「どうだろうな。……だがわしらの国よりはましだろう」
老人は顔を綻ばせた。ただでさえ皺の多い皮膚にさらに線が入る。
ジュリアというのは彼らの連れてきた、聖人の少女のことだ。
「問題は法律だ。日本は民主政がまだ保たれているからな」
「日本は宗教に特に寛容らしいね。アニメもいっぱいだし」
「ジュリアがしっかりと育つのならば何も問題はない」
老人は自らに言い聞かせるように呟いた。首から下げた十字架を握りしめて目を閉じる。
若者は気を取り直すような短い息を吐くとサブマシンガンを振り回す。銃口が次々と乗客の頭を指して品定めする。乗客の怯えの声に老人は目を開けた。
「何か明るい話をしよう」
「今日の夕飯はスシがいいなあ」
老人の話題に若者はのんびりと同調し、穏やかな会話が始まる。そこには国際情勢も人類が恒久的に抱える問題も、彼らの信奉する少女のことも関わることがない。
彼らの話題はそれからも脈絡なく浮遊していく。食べることができないだろう夕飯を案じ、見ることのできないだろう少女の将来の姿を案じ、彼らは差し迫る死に思いを馳せていく。
彼らにとって死は救いなのだ。死は絶望という可能性を覆い隠し、希望を鮮やかに描き出す。
乗客はそれらの会話を理解できるものとできないものの半々程度らしかったが、どちらが良かったのだろう。乗客にとっては死こそが絶望だ。絶望を誓約されることは希望を消し去っていく。
ハイジャックは平凡に進んでいく。彼らにとって失敗することすら予定調和なのだ。ならば彼らが望まぬ形で終わらせるのが僕たちの望みだ。
では始めよう。
僕のそんな決意とは裏腹に由利先輩はまだ動くつもりがないらしく、目を閉じていらっしゃる。
正直な話、老人と若者の会話はそれなりの長さがあったのだ。僕という仕事中にロリータに愛情を抱けるほどに仕事熱心な男が飽きるほどの長さが。
いきなりだが、一人の少年がいた。
羨ましいことにファーストクラスという座席を有しておいでになるらしい。僕などとは生まれからして違う。五歳くらい、幼稚園の年中くらいの少年は状況が掴めていないようだ。当然のことである。
死というものを理解せず、目の前にいる男たちの手の中にあるものが兵器だとも知らない。
それを使えば痛みが生じることも知らないし、自分の行動一つでそのトリガーが引かれる可能性があることも知らない。なにかのアニメや映画、ドラマなどで出てきたものを見たことがあっても、漠然とすごいものだとかかっこいいものという認識しかなかっただろう。
重ねて言うならばもしその凶弾が放たれても、穴を穿つのは少年ではなくその母親だ。母親はそこまでしっかりと覚悟していたし、母親を守ろうと思えるほど少年は成熟していなかった。
もっともテロリストという人々が母親の行動に胸を打たれて、子供一人を始末するのに躊躇するような人種とは思えないが。
さて、機内は占拠されて、均衡状態にあった。テロリストの管理は一定の緊張を与えるも、パニックに陥らせるほどではなく、彼らのリーダーと日本政府間での交渉は続き、由利先輩も踏み込んでいない。
つまり平和にハイジャックされているというわけだ。歴史の教科書でしか知らない冷戦を彷彿とさせるような気がした。
一つの問題が起こった。これを僕の中で、キューバ危機とでも名付けようか。まぁ、あまり意味はないか。何が起こったかと言えば、少年が騒いだのだ。
「うわっ、きつねさんだぁ」
どうやら、狐がいたらしかった。きっとつままれたのだろう。邪気のない声は純粋に狐がいることを信じている様子だったし、ただ単純に驚きを口に出しただけのようだった。
もしも何らかの打算があったとするならば、少年は自殺を画策していたに違いない。
「ママ見て、すごいよ」
慌てて口を抑える母親。少年は目をキラキラさせて外を見ている。一瞬だけ戸惑いを見せた若者は気を取り直して、ギラギラとした視線を親子に向けた。
「悪いけれど、静かにしていてくれ」
若者のゆっくりとした日本語に母親は窮屈そうにもがく少年を抑えて、何度も小刻みに頷いた。
「ところで、『狐』というのはfox以外に何か意味があるのか?」
少年の発した日本語について老人は英語で聞いた。
「俺の知る限りではそれだけだな。少なくともアニメやら映画ではそれ以外の意味で使われているのは知らないな」
「ということは、だ」
「ということは?」
「どういうことだ? 何故、こんな上空で狐だなんて叫ぶんだ?」
老人は不思議そうに窓の外を覗く。当然そこには狐などいない。若者は老人越に同じように見やり首を捻る。そして反対の窓も確認する。
ついでに僕も先輩の紙片から手と意識を離し、同じように両側の窓を見たが何もない。由利先輩も首を傾げていた。
僕は再び意識をファーストクラスに移す。子供なのだから雲の形でも見て、狐を連想したんだろうといいう結論に至ったらしい二人組は、のんびりと銃を弄る。
そして再び。
今度は狐ではなかった。どうやら次は剣士らしい。まったくそんなものがいるのなら、この飛行機ごとテロリストを一刀両断に断罪して欲しいものだ。
二人組はこれでは落ちつかない。どうにか少年を大人しくさせられないか、と思案する。そしてとりあえず、少年を前に呼んで座らせた。
「やっぱ、ファーストクラスも眠らせるべきだったな」
「今更、仕方のないことだ。それに眠らせる手段がない」
二人は小声で話し合う。
「エコノミーの方で元気にはしゃいでてもらうか」
「と言いたいところだけれど」
老人の言葉を若者が受ける。僕たちとしてはエコノミークラスに無邪気な子供が来た瞬間に、面倒になる。二人のうちのどちらかが連れてきたら、なおさら面倒になる。
だが、その恐れはなさそうだった。面倒ごとはテロリストの方々が引き受けてくれるらしい。
「金色か」
「どうすればいい?」
少年の瞳はちらちらと不思議そうに揺れた。黄金の眼光を瞬かせて、窓の外に注意を向けている。無邪気な表情を作る首にはネックレス。
「さぁな。なぁ、この子の能力は何だね?」
老人は母親に対してぎこちない日本語で問うた。
「すいません。まだ発症したばかりで分かりません」
「ふーん、発病したばかりか。面白いこと言うな、あんた」
発症を発病と若者は言いかえる。まるで、自らの息子の才能を何かしらの欠陥のように母親は言っていた。
母親は自分が失言をしたことに気付かない様子で目を白黒させた。間違いなんて気が付かないものだ。気付かせてくれるのはいつだって外の存在だと相場が決まっている。
「息子さんを愛してる? 産んだの間違いだと思ったろ」
「ふざけないで」
「ふざけるなよ。怖がるなよ」
「怖がる? 私はシンヤを愛してる。あの子は私と同じで普通よ」
「愛してても怖がってる。そしてあんたの息子は化け物だ」
若者の言葉は出任せだ。嘘の羅列だ。そう主張することは簡単だ。母親の主張が出任せで嘘であると主張できるように。
「もういい。やめなさい」
老人は若者をなだめた。ぎこちない日本語で。あれが普通だ、理解できないのは当然だ、と。
「どういう意味よ?」
「あなたの息子は化け物で、あなたと同じ普通だ」
母親は怒っている。感情的に熱くなった。だが怒りの矛先をどこに向ければよいのか分からない様子で顔を赤く染めるしかできなかった。
老人の言葉の意味合いは取り辛い。二人とも化け物か、化け物であっても普通であるということか。それに普通の意味もよく分からない。能力的に化け物であっても精神的に人間であるということか。それとも能力がたとえ人間に過ぎずとも人間性はどこまでも怪物になり得るということか。
「さて、どうしようかね」
「いっそ、一思いに殺しちまおうか」
若者の指先がUZIをなぞる。ゆっくりと引き金に触れる。老人はガバメントの弾倉を確認すると、一発も逃さないような慎重な手付きで装填した。
「リーダーは許さない」
「殺しのライセンスが必要か? MI6にでも入ればいいのかよ?」
「いや、ちょっとあいつにお伺いを立てればいいだけだ。イギリスくんだりまで行く必要はないな」
少年は流石に焦れてきたらしく、どこまでも落ちつかない様子で窓の外を睨んでいた。
「ねえ、外見せてよ」
「いいけど、聞いてもいいかい?」
若者はしゃがんで少年と目を合わせると尋ねた。少年は見なれない青い目を怖怖と見返して、心ここにあらずな声を出した。
「今、君の目は金色なんだ。今だけできることはあるかい?」
「今だけ? ファイヤー?」
少年は首を傾げ、同じように若者も首を捻った。
そして若者の手元で爆音が響いた。引き金がひとりでに動き、火薬が爆発し、銃口から火花が瞬き、銃弾が空中に飛び出し、座席に飛び込む。
少年がサブマシンガンを物珍しそうに見つめ、指先を曲げてから、それらの物理的な運動はスムーズに行われていた。解釈に困るのは引き金が勝手に引かれた部分。
「念力か」
二人は静かに銃口を自分から遠ざけた。少年はやはり興味が外にあるらしく、窓に駆け寄った。二人は顔を見合わせる。少年をエコノミーにやって見知らぬところでなにかをされたら、と想像が巡るのだろう。
「放置が無難か」
「殺しのライセンスが本格的に欲しいところだよ。それか法改正だな。念力能力者なんて絶対に飛行機に乗せちゃいけないだろ」
「ハイジャックしたのはこちらなのに、命を握られているようだ」
「その言い方じゃ、まるで俺らが命を握っているみたいだな」
「神の御心のままにだよ」
老人が芝居掛かった様子でつぶやいた。若者はそれを馬鹿にしたように鼻で嗤う。二人はそのまま窓に張りつく少年を見た。母親は不安そうな顔をしている。
じわりと時は進む。僕はただ様子を静観する。
「火の鳥だ」
唐突に少年は叫んだ。そして律義に二人は反応する。少年の言葉を口を揃えて反駁し、突然の叫びに慌てたのか銃火器をかちゃりと鳴らす。
そして続けて響いた音にも警戒は続けて向いた。
「どうした? 裏切るのか?」
何ということはない。
ただ操縦席へ向かうドアが開いて、彼らのリーダーと副リーダーが来ただけだ。リーダーは眼鏡を整え、その奥で目を冷たく光らせた。青色の瞳がちらちら揺れる。先輩の紙が操縦席に滑りこんでいくのをわずかに感じた。
二人は気まずそうに銃口を下に向け、若者は少年の肩に手を乗せた。
「交渉はどうなったかね?」
老人が尋ねた。
「その前に僕に銃口を向けた理由を聞こうか。何を警戒していたんだ?」
僕は耳をそばだてるような気持ちで意識を細かく裁断してその一部を向けた。向け方はあたかも銃でも構えるように。当然彼らが警戒したのは僕の妄想上の銃などではなく、少年とその妄言。
狐と火の鳥。
僕は静かに恐れを抱く。得体の知れないものへの恐怖と不安が静かに忍び寄ってくる。
気が付けば僕の意識は浮遊して、ファーストクラスをあらゆる角度から見下ろしていた。由利先輩の意識の揺れ動きが呪術に伝わり、こちらの干渉にも影響を及ぼしているのだろう。
リーダーは事情を理解したらしく、少年に目の焦点を合わせた。青の、東洋人にはない青の、それから旧人類にはない変化する瞳を。真紅に染まった瞳を向ける。
「赤い目……悪魔?」
「どうも、天使くん」
少年の無邪気な表現に、テロリストの親玉の流暢な日本語が滑り出る。
「ぼく、天使?」
「うんうん、僕も君もまともな人間じゃないんだよ」
少年は応えるように目の色を変えた。日本人らしい黒い瞳を金色に染めて不思議そうに紅い目と見つめあう。
「君を試そう」
男は手を静かに振り上げた。紅い光は何を引き起こすのか。僕の興味とは裏腹に、その能力が明かされることはなかった。
手が振り下ろされることもなく、ただ僕の視界がぶれた。
少年が傷つくことがなかったのは、テロリストたちの意識が少年から離れたからだ。僕の視界が揺れたのは、由利先輩の意識が呪術から離れたからだ。テロリストの視線は唐突に開いたドアに向かう。
由利先輩の足はドアを蹴り倒していた。困惑と警戒と後悔がわずかに交じりあい、状況は硬直した。