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電話は夜のことだった。自分の部屋に聞き馴れた駅の放送が鳴り響く。
生徒会長として一週間後に迫る学園祭の準備に力を入れたいところなのだが。そんな僕の儚い願いは叶うことはなさそうだ。幸い明日の宿題は終わっているし、夕食は食べた。風呂にまだ入っていなかったことも好都合だ。
一階にいる妹から二階の僕に向かって風呂に入れという叫びが聞こえる。僕はそれを無視して、制服から夜外出するに相応しい服装に着替える。黒色のジャージだ。ブランドでも何でもない安物。誰でも持っているどこにでもあるもの。そしてそれの新品だった。これまた新品の黒い帽子を被り、服装は整った。
僕は必要最低限の道具だけをポケットに入れる。階段を駆け降りると風呂上がりなのか、髪の毛が濡れている妹と鉢合わせした。
「早く風呂入れ、くそ兄貴」
そして不機嫌な様子で僕に言う。ここ数年、家で上機嫌な姿なんて見ていないけれど。
「ああ、走ってくるの。車とかに轢かれると相手に迷惑だからね」
僕はそれに曖昧な笑みで応対する。遠回しな気遣いなのか轢かれればいいという願望なのか。冷たい声音ではどうにも死ねばいいのにと言われているようで落ちつかない。
僕は足早に玄関を通り抜ける。
僕の電話を鳴らしたのは見馴れた番号だった。そして掛かる度にたっぷりと迷った末に取るような相手だ。そうは言っても時間自体はあまりかけず、3コール以内に取ることを心掛けている相手だ。
高校生に色々と面倒ごとを押し付ける嫌な上司だ。
僕はゆっくりと歩き出す。月が空に昇っている。満月にあと数日でなるくらいの月だろう。
しばらく歩いて電話で指示された通りの場所に到着した。月は依然として空に輝き、夜の暗闇に優しく月明かりを届けている。僕は暗闇の中に静かに佇む。
瞳の色は黒から赤へ染まる。魔人の特徴だ。いつも疑問なのだが魔人と聖人に違いはあるのだろうか。瞳の色以外の違いを聞いたことがない。
僕が暗がりの路地裏から覗くのは一人の男。
暗がりから繁華街に入り、上機嫌な様子で歩いている。酔っ払っているのか足取りは覚束無い。スーツ姿の男は仕事帰りに飲み歩いているようにしか見えない。
僕はその後ろをゆっくりと路地裏を通って追跡する。見失わないようにこまめに確認するが千鳥足のおかげかその心配もなさそうだった。
時計を確認する。真夜中より一時間ほど早い時間。そして何度目かの確認で男に変化があった。大きな黒いケースを背負っているのだ。
男は繁華街を抜けていき、人通りの少ない方向へ近付いていく。
時計を見る。予定の時間だった。僕は路地裏から足を踏み出す。月明かりの下、真っ黒で顔も見えない人影はどれほど不気味なものだろうか。酔っ払いの振りをする男は僕に気付かない。正確には気付いた素振りを見せなかった。
「何者だ?」
男は思いの外はっきりとした口調で、後ろにいる僕に向かい問い掛ける。
僕は無言を貫き通す。口は決して開かない。ただ男の姿から目を離さないように注意した。
「赤目か」
魔人の蔑称を呟くと、男は銃を抜く。僕は素早くポケットから取り出したガラス玉を投げつけて走った。月光を浴びたガラス玉はそれ以上の光を放出する。同僚が作った特製のフラッシュグレネードだ。指向性のある光は夜の中、男の顔にだけ的確に照射された。
男が目を開けたとき、僕の姿はなかった。僕は男の真正面に立つ。僕が石ころを遠くに投げると、その音に警戒した男の銃口がそちらに向く。当然そこには何もない。騙されたと気付いた男がその真後ろを見るもやはりそこには何もない。ふらつく銃口はどこに狙いを定めるわけでもなく彷徨い続ける。
僕は男の脇から静かに近寄る。僕の能力が途切れるまでの微妙な時間だった。僕は銃を持つ手に触れる。男の腕が力を失い。男の戸惑いの目の焦点が僕に合う。恐怖に瞳孔が見開かれる。
「何をした?」
お互いが一歩踏み出せば殴れる距離。
「大人しくその荷物を渡さないのならば、命の保証はできかねます」
優位なのは僕だ。男の質問に答える価値はない。情報は与えない。ただただ僕は微笑を浮かべるだけだ。僕は文字通り男に何でも出来るのだ、そういう自負を笑みに滲ませる。
男も何も答えず、僕を睨みつけるだけだ。
僕の能力はもちろん絶対ではない。僕はそれをどこの誰よりも上手く使いこなせるという自信はあるが、能力自体は最強などではない。そして僕自身も最強ではない。目の前の銃が僕に向けられれば、いるかも分からない神に祈るしかないのだ。
男の体は緊張する。筋肉に力が入り、僕への敵対の意志を示す。
男の体はしなり、足が僕の頭を狙う。咄嗟にしゃがむと、ナイフを取り出す。ここで少しでも僕の弱みを見せれば、僕の優位性は崩れる。僕はナイフを振るう。何も切り裂くことはなかったが、男も一歩退く。
僕の袖口からガラス玉が飛び出る。男が目を剥くのが一瞬見えた。閃光が男の目を襲う。
男は目を押さえた。僕の突き出したナイフが肉を抉る。ちょうど銃を持っている腕の筋肉だ。
男の口から空気が漏れた。男が目を開けた時、僕の姿はしっかりと男の瞳に写っている。だが男は僕を再び見失い、辺りを見回す。
「くそっ、どこに行きやがった」
その声は怒ってこそいるが、まだ状況判断力を保っている。あまり時間がない。あと二分もないだろう。
「死にたくなければ荷物を渡してください」
僕は言葉と共に容赦なく、殴りつける。折角視覚を奪っている状態なのに、声で位置を特定されるような間の抜けたことはしたくない。
倒れた男はコンクリートの上でひとしきり呻いた。そして男は拳銃を傷ついた手から持ち替えると、何度も発砲した。火花が散り、爆音が夜の闇に響く。交渉の余地が無くなった。僕自身も早めに撤退しないと、面倒なことになる。結界師に頼んでおけば良かったと今更ながらに後悔する。
「残念です」
爆音に紛れて僕の言葉は男の耳に届いているかは分からなかった。だが男の耳が良かったのか、僕の能力の効果が途切れたのか。たぶん後者だろう。男の目は僕の目としっかり合った。
男の拳銃が僕に向けられるか、僕が男に肉迫するか。刹那のことだった。僕の肩を銃弾が貫き、僕の手の先が男の頭に触れた。
勝敗は傍から見ても分からないだろう。
僕は苦痛に顔を歪ませているし、僕の手は男の頭を押さえている。
「レストインピース」
静けさを取り戻した夜の闇に追悼の言葉が溶け込んでいく。
せめて笑顔で死ねばいい。死んだことすら気付かずに、緩やかに生命が燃え尽きていけばいい。
男は笑みを浮かべている。五感の全てを僕が支配した今、男は幸せな夢の中に囚われている。神経に流しこんだ僕の能力はまさに麻薬だ。脳の機能を停滞し、理性も本能も切り崩し、死に対する恐怖を味わうこともなくす。生物の最も退化したような姿が目の前にあった。
僕はその喉にナイフの刃をいれる。赤い飛沫が夜の闇のなか吹き上がる。
男は体中を弛緩して、膝から崩れ落ちた。
上手くいけば腕を切ったり、戦闘をしたりすることもなく、眠ってもらえたのに。失敗した、と僕は死体を前にして反省する。静かに手を合わせたところで仕事が終わっていないことに気付いた。
黒いケースを回収することが仕事だ。僕は男の背中に手を伸ばす。まったく、人を一人殺してまで手に入れなければならないものとはどんなものだろうか。僕はそのケースを背負ってため息を吐く。
5月の件もある。あまり面倒なことにはならないで欲しいのだが。
こんな考えがフラグにでもなったのだろうか。
黒いケースは留め金が壊れたのか、僕の後ろに中身を落とした。
あるいは中身は僕の後ろに降りた。
欠けた月の光を浴びて、僕を一瞥しているのは狼だった。




