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獣は風を巻き起こし宙を舞う。その姿は風を纏った巨大な……イタチ。体高が2メートルくらいはあるのだろう。まるで化かされた気分だ。
狐色の体毛からは烈風が吹き荒れ、毛が逆立つ。ここに来て俺は魔剣に相応しい名前を知った。
カマイタチだ。
俺は手に抜き身の聖剣を掴み、まっすぐと前を見つめて立っている。昨日のままの制服は血に汚れている。聖剣は日本刀の姿で、光を浴びて笑っているようだ。
風の中には由利さんの紙切れが静かに混ざりこんでいく。イタチは流石に苛立ったのか旋風の鎧を吹き散らす。鎧に潜りこもうとした異物は確かに取り除かれ、イタチは解放感に浸って喜ぶ。逆に言えば妖狐は堅牢な鎧を剥ぎ取られ、無防備な身体を曝したのだ。安心感が生み出した確かな油断とともに。
そしてその隙を見逃す人類ではない。鉛の弾丸、鉄の弾丸、言霊の弾丸、人間の怒りを体現したかのような烈火の攻撃がイタチの生命を抉っていく。
咆哮が響く。
断末魔という様子はなく、煩わしい虫を散らすように、風の刃が辺りを切り払っていく。
呪術師たちは慌てることなく対処する。誰一人として周りの心配をしない。彼らはお互いを信頼し、誰一人として仲間を置いて死なないことを当然のこととしている。
呪術師たちの統制された包囲網が予定されていたとおりに散開する。
そしてイタチと俺の目が合った。
少し驚いたような人間らしい知性を湛えた目付きが俺を値踏みする。
抜き身の聖剣が俺の地位を保証するかのように輝く。魔剣の敵として相応しいと称しているらしい。
俺はその信頼に応えるために、仮初めの覚悟を示すために一歩を踏み出す。人間の一歩というのは小さなものだがこの一歩には確かな意味があるのだ。
お前を俺が斬り殺す、この一踏みで俺は声もなく宣誓したのだ。
無論伝わらなくても問題はない。これは俺の心の問題なのだから。逃げないための言い訳だから。
俺は静かに中段に構える。イタチと俺はまるで決闘でもするかのようだ。だが安心はしない。十メートルほどの距離でも、次の瞬間の俺は唐突に喉笛を掻き切られている可能性があるのだ。
イタチが動いた。俺を試すような小さな動き。ただ右前脚を振り上げて振り降ろしただけ。それだけのことで俺は生きた心地がしなくなる。砕けて塵のようになったアスファルトやコンクリートたちがまるで意志でも持ったかのように波打つ。
風に乗っているのかと頭で理解した時には、もう手を伸ばせば届く距離。俺の手の中にあるのが聖剣でなければ俺は死んでいた。
「自分で動けるのかよ」
俺はついそう漏らした。聖剣によって一瞬主導権を奪われた肉体を確認した。
無駄口を叩かないでください、と厳しくも正確な指摘に俺は注意を元に戻す。
イタチはゆっくりと身を沈め、その足に力を込めた。俺はイタチが次の決定的な動作をした瞬間にスタートを切った。
イタチの身体が宙を舞い、俺の身体がその下を掻い潜る。
腹を撫でる聖剣は絶対的に浅い。イタチの口が歪む。腹に付いた血の一筋をまるで気にした様子もなく、ただこいつは遊べるかもしれないな、などと俺を再評価したような凶暴で凄惨な笑み。
全く生きた心地がしない。だが逆に、この酷い状態が死んだような心地だとすれば、これ以上何も怖くはないのではないか、と熱に浮かされたような考えが頭を支配する。俺も気付かぬ内に笑みを浮かべていた。
俺は駆ける。
イタチの鎌風が何本か走るがそれをすんでのところで交わす。ふらつきながら振り抜いた刀はイタチの爪で阻まれ、俺は倒れるように跳んでイタチの視界から離れる。後ろから聞こえた唸り声が少し心地良い。
転がって立ち上がる時には迫る牙。咄嗟に構えた刀とぶつかり火花が散る。聖剣の楽しげな笑いが聞こえたかと思うと火花が火炎に進化する。
なるほど増幅とはこういうことらしい。
炎を嫌がって一歩引いたイタチの顔面を目掛けて刀を突き出す。口を開いたイタチはただ息を吹いた。凄まじい暴風が刀を俺ごと吹き飛ばす。ビルのコンクリートに叩きつけられ意識が揺れる。口の中に血を感じる。
心のどこかに心地良い刺激を確かに感じる。
俺に止めを刺そうとしたのか、駆け出したイタチの鼻面に四方八方から銃弾が降り注いだ。
俺はイタチが牽制されている間に立ち上がる。まだ力は入る。普通の高校生が口から血を吐きながら戦うというのは遠い世界の話だと思っていたのに、と今更の恨み言が脳の血管を巡る。
俺は再び中段に構えた。俺はその遠い世界の主人公なんかではないから強くはないのだ。何度も何度も自分が立ち上がらなければならない理由を確認する。ここに至れば死なないために剣を持つしかない。
イタチに走り寄る。弾幕が途切れ、俺とイタチだけの空間が生まれた。
第一ラウンドは俺の場外負け、これから第二ラウンドといった様相だ。
刀を振るい爪に弾かれ、牙を受け止め巨体に弱い蹴りを入れる。俺が必死に振るえども素人の刀ではまともに肉に届かせることすらできず、聖剣を警戒するイタチはうかつに攻撃に出られない。
イタチの鼻先に赤く小さな花が咲き、無防備になった俺の体に前足が抉り込む。
服が裂け、肉は裂けない。紙が服の中で鎧を形成しているのだ。軽い鎧は先ほどからの衝撃でもう限界だ。ダンボールか蜂の巣のようだった構造も潰れた。足から力は抜け、目の前にあるのは割れて欠けらとなったコンクリートたち。手と膝は地面に着いた。
それでも俺は笑った。
鎧の意味を成さなくなった紙が急に生命を得たかのように動き出す。聖剣の輝きが静かに増した。強化された紙の刃は俺の肩辺りから飛び出ると、鼻面の小さな傷を広げようと襲いかかった。
イタチの目前に迫る白い刃。イタチは怒りに任せた様子で咆哮する。風に散らされて力無く漂っていく紙切れ。その中にいくつか模様が違うものが紛れているのが見えた。すべてが重力に引かれて落ちていく。
その間も俺に歩み寄るイタチ。足で殴られただけで息も絶え絶えに俺は悶えている。刀だけが威勢よく刃を向けるがその輝きもどこか鈍い。
俺は一人、無責任に死を覚悟する。目の端でかろうじて見える包囲網はほとんど崩れていた。だが知り合いはまだ立っているようで少し安心する。
イタチが歩みを止める。じっと俺の目を覗く瞳には確かな感情が渦巻く。俺が知ることのない思考。俺が理解しようとすれば理解できるだろう感情、知性、そして人間らしさ。
俺は目を背ける。聖剣を握る手には自然と力が入った。
「おい、何で戦うんだ?」
俺の漏らした言葉にイタチは答えない。俺がその目から覗くことのできた内面を言葉として伝える手段をイタチは持たないのだ。もしくはイタチの内面は言葉に頼る人間には理解ができない。
確証がない俺の主観ではイタチの目に答えが刻まれているように見えた。
そこに敵がいるから。
生き残るため。
そう求められているから。
それが仕事だから。
いくつかの答えたちは渦を巻く。俺の頭の中と同じように。イタチにとっての戦闘は必要に求められたどうしようもないものなのだ。俺が家族との約束を守るように、神だか知らないがそういうものに与えられた仕事を果たしているだけなのだ。
だからこそイタチは俺に止めを刺すことを躊躇う。確かな優しさを見せている。俺を殺すことは仕事に入っていないのだろう。
おそらく人間について殺せと明言されているのは敵か邪魔者であり、個人についてではない。俺を殺すべき相手と認定するのはイタチの裁量だ。
ゆっくりゆっくりとイタチの牙と爪が殺意に染まり、俺の命に食い込もうと近付く。
俺はゆっくり立ち上がる。逃げるためか抗うためか、はたまた嘲笑うためか。俺の足には力が入らず、立っているのがやっと、もう一歩踏み出すこともできない。
少しずつ近付く死の気配から逃げるには聖剣を振るうことしかないが、今ならば一振りでバランスを崩すだろう。そうなれば結末は死に飲まれてしまうというだけだ。
だが俺はまだ死んでいない。
イタチの武器は俺の体に触れることはなく、声も出せずに俺は笑った。
紙が地に触れたのだ。模様の違う紙。俺の装甲としての役割を失った紙の次の仕事は佳奈の呪術を発動させることだった。結界は確かに発動し、イタチを閉じ込める。イタチは悠然と周りを見回す。俺に止めを刺せなかったことを、刺さなかったことをどこかほっとしたかのような仕草だった。結界は確かにイタチの自由を奪った。
足はふらつき頼りない。聖剣は折れることなく俺の体を支える。飽きもせずに、と他人事のように思った。俺はまだ立ち上がるのか。
俺は刀を持ち直す。何度も何度もしつこいようだが俺にはそれしかできないのだから。
イタチは牙を剥いて唸った。その牙も爪も結界を切り裂くことはできず、俺に届くことはなかった。だから俺は安心して刀を振り上げる。
爪と牙は結界に何度も衝突する。少しずつ傷が入り、脆くなっていくのが分かる。聖剣が淡く光る。そしてその光に呼応するかのように結界のエネルギーのようなものが増した。
イタチの口から悔しげな吐息が漏れた。その眼は俺だけをまっすぐ見つめている。冷気がじわりと足元から伝わり結界を覆う。イタチが開けるだろう出口を封鎖するように氷の茨が生い茂り、花が咲く。
穴が開いた。
イタチの体はそこを強引に通ろうと試み、結界に身を抉られ、氷の刃に裂かれる。イタチはまっすぐと見つめる。憎悪も怒りも、不快な感情を何一つとして伝えない。そんなまっすぐな純粋な目で俺をじっと。
俺の足元にクレーターが出来上がる。イタチの全力の一撃は俺に届きはしなかった。コンクリートが舞う、その中を俺は走り出す。コースはイタチの体の上、前足に無我夢中で跳び乗り、力をこめる。
感覚がなく夢のようだった。イタチの体表には激しい風が吹き荒れた。そんな場所では氷も紙も全てが凶器となって襲いかかる。それなのに俺はイタチの上にしっかりと立っていた。
足にイタチの毛が絡みつき、俺の身を支えるように優しい風が背中を押すのを感じた。
聖剣がくすっと笑ったのが聞こえた。俺の手の中でくるりと刀が回転する。逆手に持った刀を思い切り振りおろす。
まっすぐとイタチの体に潜り込んでいく。知らず知らずのうちに声を上げていた。何と表現していいのか分からない、必死な叫びが風にのまれて消えていく。
刃は激しく光りそれまでの何倍もの刀身を持っていた。刃はイタチの体だけでなく、島のずっと奥深くまで伸びていく。光はどこから溢れたのか爆発した。
俺もイタチも聖剣も飲み込まれていく。光の檻に閉じ込められた。優しく温かみのある檻に隔絶されて、俺の意識は途切れた。




