15
吉田佳奈。
俺の口からは呼びなれた名前が今までで初めて発する響きをもって紡がれた。佳奈は唇を噛みしめている。
頬には切り傷がつき、髪は今までに見たことのないほどぼさぼさ、体中に汚れが付いている。
多分俺がそんなふうに言うと佳奈は怒るだろうが、そんな佳奈は俺の記憶の中にある佳奈の中でも一二を争うほどに美しかった。
佳奈の右手が腰の辺りに滑る。いつも通りの制服の腰だ。握られているのは拳銃。
引き金にかかる指が動く。銃口から弾丸が飛び出した。音は爆音に紛れて聞こえない。それとも五感は全て佳奈の姿を捉えることに回されているのだろうか。
銃弾は佳奈の目の前の壁に突き刺さった。透明な壁。先ほどまではなかった、障壁とでも表現すべきものだ。熱風は障壁に阻まれ、俺は死神の大鎌から逃れることに成功した。
やはり呆然としていると後ろに引っ張られた。佳奈の手は今までに感じたことがないほど力強くそして熱を帯びていた。
障壁に刺さった弾丸は緩やかに発光し始める。佳奈の手から爆音が響いた。ここに来て聴覚が戻ったことを知覚する。四発の銃弾はひびの入りかけている四角い障壁の頂点辺りに着弾した。ペイント弾のように色が付く。赤というよりは朱色に近い、まるで神社の鳥居のような色だと思った。
植物が生長するように朱色が結ばれていき、天を衝くような大木になった。それらが姿を変えていき、出来上がったのはその色にふさわしい鳥居だ。軋んでいた障壁が安定する。、
恐怖はなかった。鳥居ができた時から不思議と心は安らかだった。
「鳥居は神の領域と人の領域を分ける結界。でも私の作った紛いものはそう長く保たないから」
俺は抜けかけた腰に気合を入れた。ちょっとした見栄だったが後悔はしない。すぐに腰は必要になったからだ。
呟きに聞き返す隙さえ与えられず、「走るよ」という一種の命令に逆らうこともせずただ走った。
「何やってるのかな!?」
佳奈がそう叫んだのは何度か曲がり、氷の戦場が見えなくなってからのことだ。
「いやまずこっちが聞きたい」
「何を!?」
激昂する佳奈を見て、少しの冷静さを取り戻した俺はまず現状の理解に努めた。
佳奈はいつも通りの制服だった。手の拳銃は腰に納められ、背中には短機関銃がかかっている。日常と非日常をかけあわせてばかばかしさを足したようだった。
現状の理解を求める今、必要な質問は核心を捉え簡潔であることだ。
「あれは何だ? あれは人間なのか?」
とてもじゃないが氷の柱に閉じ込められていたのが人間だとは思えなかった。人間ならばあの次元が違う感覚は何なのだ。あの恐怖は、あの無雑作で荒々しく身を削る殺気は。一瞬だけ見えた、人間を試すかのごとき上からの目付きは。
「あれは人間じゃないよ」
佳奈は油断のない目で後ろを気にするような動きを見せ、情報の取捨選択をするように目を閉じた。
「人間を一瞬で蒸発させるような力を持ってる。だから逃げて」
佳奈は自分のことを棚に上げて告げた。嘘をついている様子はない。だが何もかもを答えてくれるわけではないようだ。
「佳奈、お前は何なんだ?」
「今自分で言ったじゃない」
佳奈は笑って誤魔化した。そういうことを聞きたいわけでないのは彼女も十分に承知している。
「わたしは吉田佳奈。友達の名前も忘れたの?」
佳奈の笑顔は痛ましかった。友達に対して何も明かさないのはどうなんだ。酷く距離があった。俺の口は意志に反して動かない。ここで追及することが何か状況を好転させるとは思えない。
「まぁ安心してよ。学校で話すよ」
俺はそれを聞いて佳奈の要望通り安心した。佳奈の人間性を知っているから。俺と佳奈は友達だから、彼女がこの場面で嘘をつかないことは分かった。佳奈は生き残り、学校でいつものくだらない話と同じように、俺に彼女の物語を語ってくれるのだろう。
それが佳奈の望みで、ただそう信じ込んでいるだけということも俺は感じとっていた。佳奈が言ったのは学校で会ったなら、会えたなら、生き残れたなら説明するということであり、生き残れる確証を与えてくれない。
「ああ、あとこれはお守り。持って行って」
佳奈が差しだしたのは拳銃だった。記憶に間違いがなければFN Five-seveN。人間を殺すには十分な殺傷力を持った兵器だ。佳奈が常々一番好きだと公言する拳銃だった。まさか持っているだなんて思いもしなかったけれど。
不意に視界が暗くなった。上から何かが落ちてきたと気付くのに数秒のラグ。それがなにかを判別して受け入れるのには再び数秒の混乱が必要だった。
「彰、こんなところで吉田に油を売らせるな。彼女にも役目があるんだ」
「由利さんまで隠しごとか」
由利さんは顔をしかめる。身に纏うのは純白の衣装。紙でできたと覚しき白い装甲。
「大人にもいろいろとあるんだ。お前も子供じゃないだろう」
由利さんの言葉は大人という色で汚れていた。そう見えるのは俺の思考が成長のない子供だという裏付けなのだろう。
「残念なことに役目も何もない子供だけど」
俺の嫌みに由利さんは面倒そうな顔をする。チラチラと泳ぐ視線は戦場に向かおうとしている。
「役目は身を守ることだ。死なないことだ。それだけ考えていてくれれば」
由利さんの発言には続きがあるように思えた。そしてそれが取り越し苦労であると信じたかった。
「あれが何か分かっているのかね?」
「こんなところで授業か。青空教室ってやつか」
「軽口はいいから答えてくれたまえ」
由利さんは急かすわけでもない。だが必要なことなのだろう。
「人間を塵のように消せるなんて神様みたいな話だよな」
由利さんは愉快そうに唇を上げた。生徒の間違いを喜ぶことは教育者として間違えているのかは知らないがこちらとしては愉快ではない。
「不正解だ。あれは三度目の世界大戦で現れた兵器だ。さてその名前は?」
そこまで聞けば俺も流石にその答えに辿りついた。
「冗談だろ。魔剣と聖剣なのか? 伝説だと思ってた」
救いのない単なる夢物語で、どうせそんな兵器は何かの比喩だろうと。
「ちなみに黒いのが魔剣で日本刀が聖剣ね」
佳奈の注釈を挿み由利さんは笑えない冗談を続ける。
「全く歴史の浅い伝説だ。あんなものはただの都市伝説だ」
伝説に都市がつくことでどれだけの重みが変わるのかは分からない。だがこの世で最大級の破壊をもたらした兵器をそんなふうに貶めることは由利さんの強さに思えた。
「あんなものはただの法螺話にすぎないんだ」
その証拠に、と由利さんは決意を固めるかのように口を閉じた。
「その証拠にあの二振りの剣は人間に滅ぼされるんだから」
続きを引き取った佳奈の目にも由利さんと同じ色をした決意があった。それは真白で純粋な強さを思わせた。それは覚悟という名前で死ぬことすら肯定するのだろう。
「また、学校で」
「今日の夕飯はとんかつにしてくれたまえ」
二人はすぐに見えなくなった。俺には二人ほどの強さはないだろうと素直に認めることができた。二人は何もできない子供の強がりとは違った。
俺は独りどうしたものかと立ち竦む。
やらなければならない、ということは思いのほか簡単に見つかった。俺は身を守らなければならない。美咲とAさんとクロも同様だ。まずは合流しようか。どうせ俺に選べる選択肢はほとんど存在しないのだから。




