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俺の目の前には銀世界が広がっていた。特にトンネルを抜けたわけでもないのに、とどこか間の抜けた感想を抱く。
まずここはゴールデンウィーク明け数日の近畿地方の一角であり、間違っても雪が降り積もるはずがない。そもそも雪は降っていない。一面を覆う白さは空から降りてきた色ではなく、地面を下から覆うように這い寄るもの。冷気そのものが襲いかかったような氷なのだ。
普段なら人と車が行き交い、賑わっている大通り。目の前の静寂が信じられない。
見渡す限り何もかもが凍り付く世界。見馴れた信号機もショッピングモールも車に自転車、街路樹までも。静寂の銀世界、停滞した世界で色を持っているのは、激しく燃えて熱運動を続ける壊れた戦車、戦闘機。
そして血液の赤を纏い、意識すら失って停滞の世界の一部と同化しかかっている人。生死の淵を彷徨う人々。
俺は叫び声を出すことすらできない。まるで心まで凍り付いたかのようで、疑問や混乱が浮かべども、恐怖や向かう先を知らない怒りなど、何か熱い感情がほとばしるというようなことはなかった。
氷の舞台は美しかった。
炎と血の赤が純白の中によく映えている、とまで思った。現実感の乏しさが何か芸術作品でも見ているかのような感覚を呼び起こした。きっと題名は『理不尽』がふさわしいだろう。
明かりに寄っていき息絶える羽虫ではないが、俺は今なお激しい音が途切れずに続く方向に気付き、ふらふらと近寄っていった。
呆然と停止した思考を引きずりながらも交差点を曲がる。
氷に包まれた街で一組の男女が向かいあっていた。
かといって幻想的なラブストーリーが始まるというわけではなさそうだということは分かる。どことなく心地良さの欠けらもない緊張感が漂っている。俺は咄嗟に隠れた。
彼らは宙に浮き、氷の柱で地面に縛りつけられている。その生命は瞬き、世界で熱を持っているのがまるでその二人だけのようだ。
男は顔をフードで隠し、厚いコートを羽織っている黒人。身長は百八十くらい。コートには派手な幾何学模様が刻まれている。その手には刀。日本刀か青竜刀のようなものだろうか。
女は白いワンピースを着ている。身長は百五十くらい。長い黒髪が風も吹いていないのに揺れている。その手に握られているのは身の丈を遥かに越える大きな剣。刃は夜の闇のように黒い。二メートルはあるだろう。
彼らが体に力を入れたように見えた。ただそれだけのことで今までに味わったことのない恐怖が皮膚を撫でる。そして体の表面が寒気で震えるのとほぼ同時に熱が伝わって来る。歯の根が浮く。視線を反らすことが恐ろしい。
氷柱が溶けていく。
まるで封印が解けていくかのような神秘的な光景だった。
ただただ俺はそれを眺めていた。
圧倒的な距離を感じた。物理的なものではなく、彼らと対等になるには決定的に何かが足りないと感じさせるような心理的なものだ。
住む次元が違うのだ。
そう気付く。だがどこか懐かしさも感じていた。圧倒的ないわゆる神とでも呼ぶべき存在への畏怖の念。神への信仰心を理解できたような気がした。
F16が見えた。増援なのだろう。唐突だと感じた。猛スピードで突っ込んでくる機体は脈洛の欠けらも持たず、別世界の場違いなものに感じられる。ミサイルが放たれた。それのもたらすだろう大破壊はちっぽけな人二人を殺すには十分な破壊力を持っているはずだった。
だがやはり次元が違った。鉄と火薬の塊では神の領域には届かない。二人あるいは二柱は剣を振るう。剣はミサイルに掠りすらしない。熱と風が吹きあれる。ミサイルの爆炎、爆風はより大きな破壊に揉み消される。
俺は動けなかった。足が縫い留められているかと思うほどに硬直していた。思考は停止し、本能は生きることを放棄するという暴挙に至った。圧倒的な力を前にした人間が取ることのできる行動は限られている。なぜなら選択肢の列挙すらできないのだから。
氷のステージが蒸発していく。熱で赤く彩られた死が走り寄って来る音がした。熱された水が呼吸を邪魔する。
頭や理性ではなく心で俺は死ぬと判断した。だが死ぬわけにはいかない。俺はまだ死ねない。頭と理性は何とか復活する。
奇跡は起こらなかった。俺は生き残ったが、それは目の前に凛と立ち、俺を守った少女のおかげだ。彼女が必死で走った結果を奇跡と呼ぶのは失礼だろう。偶然、奇遇なことにあるいは奇跡的なことに、もしくは運命的なことに俺は彼女の名前を知っている。
「……佳奈」




