02
ボーイング989という機体は一心に空を掻き分ける。
翼のエンジンで必死に燃料を燃やして、機械に巧妙に組み込まれた呪術は無心にエンジンをサポートする。
物理の分野を鼻であしらうオカルトが機体を浮かせる力を支援する。さらに呪術は素材の本来の強度を底上げしている。
それによってもたらされたのが、歪んだ形を、割合不恰好な形を備えたその機体だ。
呪術を用いない場合よりも翼の割合を小さく、収容量を多くすることに成功している。もっとも、この日それは完璧な仇となっていたが。
エコノミークラスとは一般席。世に聞くエコノミークラス症候群とは長時間窮屈な姿勢で固定され、血管に血栓ができることを言う。
エコノミークラスが窮屈で退屈であるか、それは乗客の主観によるが、少なくともこの機体のエコノミークラスの乗客は退屈そうにしていた。
旅の疲れで、眠っているともとれるだろう。だが全員というのはあまりにも現実味に欠ける状況だ。
かつてのスチュワーデス、キャビンアテンダント、客室乗務員が何をしているか。
職務を放棄して眠りに落ちている。手に金属の錠を付けたのは当然ながらファッションではない。
そこにいる人々はほとんど全員が安らかな寝息を立てている。
エコノミークラスの乗客は静かだが、ファーストクラスの乗客はまだ活気がある。
それはよいことでもなく、ファーストクラスの富裕層は現在進行形で精神的疲労を感じているようだ。
金持ちの特権である広い席やその他オプションを享受せず、窮屈そうに身を縮めている。理由はそうせざるをえないから。
二人組の男によって強制されているからである。
若い短い金髪の白人男性。白髪で年老いた男、これも白人だ。イスラエル製のサブマシンガン、UZIとハンドガン、コルトM1911A1ガバメント。それぞれの手で金属質な光を放ち、乗客を威圧する暴力の象徴。
彼らは犯罪者。テロリズムは変わらない。
有名な同時多発テロから長い年月が経ち、社会は変質し技術は変質し人類は変質し、歴史は同じように繰り返される。だがテロも手段の一つでしかない。何が変化しようとも人類の精神活動が活発である限り、暴力は途切れることはない。
日本に彩華島という一つの島がある。それが彼らの目的だ。
2088年現在、世界の人口の約1割を占める新人類、魔人と聖人の権利は制限され、各国が定めた政府の特別区内での活動が原則とされている。
静かな犯罪風景は由利がここへとやってきた理由だった。
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エコノミークラス座席後方に一人の乗客がいた。ほとんど安眠についた中の例外だ。
周りの眠りを妨げないように、あるいは自分も眠りに落ちないように緊張感を持って隠れている。そして何をしているかと言えばウェアラブル端末を弄っている。
腕時計に申し訳程度にウェアラブル端末としての機能を持たせたそれは入力端末だ。ポケットにでも入っている本体に接続されているのだろう。
そしてその目はしきりに宙を駆け巡っている。コンタクトレンズに画面を投射しているのだ。体内にあるナノマシンが上手くサポートしているのだろう。
コンタクトレンズ型の端末の優れたところは視線だけで基本的な操作が可能なこと。
例外的な機能の一つとして一般的に言われるものは映像を録画する機能。その機能だけは他の機器で操作し、録画中はコンタクトレンズ型の機能は著しく制限される。
設定次第では瞬きの長さや回数で操作ができるだが、この男はそこまで習熟できていない。
男はゆっくり目を閉じて、またゆっくりと開ける。手元の腕時計のボタンを一つ押す。赤い色で塗られたボタン。男の視界にRECと浮かんだ。
そんな男の視界の外、機体の外を紙片が舞っている。それらはゆっくりと機体に引き寄せられ、張りついていく。
視点となる紙を通して由利はその男を発見し、速やかに移動を開始した。
由利は、気怠そうに機内の様子を録画する男を観察し、ふと疑問を抱く。
なぜ同じ仕事をしていて、自分自身も機内に入る必要があるにも関わらず、私は外からのスタートなのだろう。どうにも今回の仕事はきな臭い。
もっとも仕事の四つに一つは日本最高の巫女による予言だというのだからどんな仕事でも怪しくはあるのだが。
結局のところ、無事生還できたならば上司を殴れば済むことだ。
この飛行機を上司の家に墜落させても楽しいことになる。などとテロリスト顔負けの思考を一通り巡った丁度その時、由利は男のほとんど上に到着した。
滑るようにして窓の傍に寄る。手を窓に伸ばすと紙が窓の周囲に張りつく。白童子は新たな繭に変化して窓一つを覆った。
紙が窓を押す。ひたすらに圧力を掛け続け、けして強度の低くはないはずのガラスに亀裂が入った。最後の止めに窓を蹴破ると、そのまま吸い込まれるように機内に潜り込んだ。
窓一枚分の穴が真っ白な紙に塞がれ、余った紙が再び由利の白童子を形成する。
由利は一息つく。ハイジャックされた旅客機とはいえ、機外と機内では安定感が段違いなのだ。
「お久しぶりですね、由利先輩」
「ああ、健勝でなによりだ。名城裕介君」
名城は視線を動かさず、足元のバッグを由利に投げる。
「ありがとう、ところで君は何を録画しているのだね?」
名城はその言葉に視線をようやく動かして、手元の腕時計を弄る。録画を止めたらしい。それからその手を伸ばしてまっすぐと前方を指す。由利はその指先を追って、眉をひそめた。
少女、あるいは幼女がそこで目を閉じていた。
プラチナブロンドの髪は旅客機の揺れに合わせて震えている。口元は寝息を規則正しく行き来させ、時々気怠そうに声を漏らす。壁にもたれて床に座っているせいか、眠りが浅いのだろう。
「将来、美人になるだろうな」
由利は心持ち『将来』を強調する。すると名城は楽しそうに笑う。
「僕の夢は光源氏みたいになることなんですよ」
「古典を冒涜しているな。それに紛うことなき変態だ」
「そう褒めないでください」
名城は恥ずかしそうに頭の後ろを掻いた。それから、それにほら、と再び指差す。向かった先には少女の小さな手がある。手首に少女の身には合わないシンプルな腕輪がはまっている。
「手錠のようだな」
「ですね。中南米は差別が激しいですから」
「君も行けばいい」
「先輩からの当たりが激しいっ」
楽しそうに身もだえさせている変態に一瞥をくれる。
「それで?」
「うわーホント扱い雑。それで、って何ですか、全く。ああはいはいそう睨まないでください。あの子はテロリストの仲間みたいですから」
由利は目を瞬かせる。
年端もいかない少女がなぜテロリストと共にいるのだろうか。由利は考えてみるがあまり意味のある結論には至らなさそうだと中断する。
「あの色は聖人でしょうね」
腕輪は飾り気のない金属でできているが、模様として錆びやらの汚れ、そしてバツ印がテープで作られている。二本の交錯する線は白と黄色だ。世界共通の聖人のイメージカラー。
名城は自らの首に掛けたネックレスと見比べて眉をひそめた。白い鎖に黄色い鉱物がはまっているネックレスは簡素な腕輪と意味合いは似ている。違いは人権が尊重されているかいないか。
「僕のこれの方が豪勢ですね」
そんなことを言いながら名城は少女に歩み寄る。それから少女の前で中腰になり少女の閉じた目を見つめた。手がおもむろに少女の頭に乗せられる。
由利はその光景から目を離し、名城から回収したバッグを開く。中にはぎっしりと紙が詰まっていた。由利は想像した通りに自分の私物が入っていたことに少しの落胆を覚える。もしもこれがぎっしりと重い札束だったなら。
「先輩、一人来ます」
名城がそんなことを言って、座席の陰――丁度ドアから死角になった場所に滑り込んだとき、ドアが開いた。咄嗟に由利は持っていたバッグを闖入者に投げる。
焦ったような声。
由利はバッグに意識を集中させる。
やっとのことで拳銃を構えた男の目の前で、紙はバッグから飛び出した。
拳銃の引き金は指が入るスペースがないよう紙が覆い、銃口ならびに銃身は銃弾が通過できないように紙が潜り込む。
由利は男の判断力に感服した。銃を封じられた男がしたのは大声を上げ次の武器を手にすることだ。正確にはしようとしたのは、か。
男以上に冷静でかつ圧倒的な優位に立っている由利は男の反逆を許さない。
その証拠に、大きく息を吸った男はもう口から息を吐き出すことは適わないし、ナイフの入った足のホルスターごと男の片手は紙で固定されている。
男が次の行動を起こそうと考え始めた時には、背後から迫った紙の奔流が男を由利の足元に押し流していた。
「では情報の提供を頼みたいのだが……。なに、報酬は牢屋暮らしをお仲間と楽しむことだ。破格の報酬だろう?」
由利の言葉に男の表情筋が強張った。
「情報収集は僕の仕事ですね。これは報酬としてそこの女の子をもらわなければいけませんね。掛けあってくれません?」
名城が座席の後ろから這い出て嬉しそうな笑顔をつくり、由利と男は揃って不愉快な視線を送る。
「牢獄は無駄にはできないから天国にでも行くといい」
「辛辣っすね」
男は名城を歯痒そうな表情で見ていた。瞳に白と黄のネックレスが写る。