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俺の席は窓際の一番後ろとかいう主人公がよく座っている席だ。主人公が感情移入しやすいような平凡な人間に設定されているならばきっと真面目ではないのだろうな。なぜなら窓際一番後ろは勉強しないことに一番適しているからだ。ほらたとえば、吐息やちょっとした声にそれなりの声優を配した5分アニメとか。少し古いな。隣の席の一人遊びが異様にレベル高いやつな。
俺はいつも通り小説を開いている。ゴールデンウィーク明け二日目という気怠い雰囲気を味わいながら眠ったような頭で文章を読み進めていく。
佳奈と昴は同じクラスではあるが、俺が本を読んでいる時には気を使っているのかあまり話しかけてこない。気を使ってもらう必要こそないが特段人と話したいわけでもない。
二人とも俺よりも前の席であり遠くもない。二人はそれぞれ何か考えごとでもしているのか視線が宙を彷徨っている。
ホームルーム前の教室は騒がしい。だがあまり不快なうるささでもない。賑やかという表現がしっくりくる平和な教室だ。
そうこうしているうちに、すうっーと静けさが教室の入り口の辺りから広がった。教師の動向を警戒するように皆が見ている。まるで教師が生徒の敵であるかのようで面白い。
担任の由利さんは教卓の前というか向こう側に立ち生徒の顔を見回す。副担任の渡会先生は入り口の脇に立っている。
渡会先生は身長が2メートルにも届くような長身の男性教師である。いつも何かしら本を持っているのが特徴だ。がっしりとして体格がよく、格闘技でもやっていたのだろうと言われている。怒った時の目の冷たさから絶対に殺っていると噂される優しい教師だ。
きっと優しいのだろう。もし俺がそんな噂を流されたら絶対に殺るだろうから。だが由利さんの許可があればスタンガンを生徒に当てることもいとわない暴力教師でもある。
教室はまもなく静かになり、教師の時間が始まった。
「さて連絡事項だ。まずは授業の時間割の変更は後で黒板に書いておく。それからこちらが重要なのだが、午後から軍事演習をするということだ」
担任はそれだけ言って、渡会先生にパスをする。由利さんの右手の包帯がひらひらと生徒の目を奪う。何人かがそれを追っていたようだったが疑問を口に出すことはなかった。
「授業が終わった後の予定だ。速やかに帰宅するように。家ではなくシェルターに避難することが推奨されている」
シェルターはこの島の様々なところにある。金を持っている人々は地下にそういう部屋を作っていることもあるらしい。今まで特に必要になったこともないのだがこの玄武学園にもしっかりと完備されていた。訓練をするときには数年前まで使っていたらしいから一応有効には使われていたが、訓練が有効に活かされたことがないから微妙なところだ。
今まで授業が終わった後に軍が訓練をすることはあったが、わざわざシェルターへの避難を推奨することはなかった。騒つくクラスメイトたちも同じようなことを疑問に思ったのだろう。
まあきっとどこかのバカが軍に迷惑でもかけたのだろう。俺はさして気にすることなく本をぺらぺらと捲る。
「いつもよりも危険なことをするのですか?」
誰かがそう質問する。
「万全を期してのことだ。どうせショッピングモールなども訓練を想定して休むはずだ」
教室が騒めく。普段よりもどうやら大規模な訓練のようだ。そういえば美咲は買い物に行くと言っていたが予定が狂って気の毒だな。そういえばカレーとハンバーグと……エビフライの材料って家にあったかな……。
「吉田、安倍、話がある。来い」
渡会先生が生徒を呼ぶ。何の用があるのかと佳奈と昴が歩いていくのをぼうっと眺める。
「一限から変更がある。気をつけるように。ではホームルームは以上」
由利さんの一声で教室に心地良い無秩序さが蘇る。
しばらくして一限のチャイムが鳴り響く。
一限は歴史。歴史の中でここ最近の出来事に関する授業は退屈だ。幸いここ最近の新しい歴史とそれ以前の古い歴史は教科名こそ同じだが、曜日によってする授業は決まっている。週に4回の歴史の中で3回は楽しいのだ。
そして今日の授業は退屈だった。
だから寝てしまうのも無理はない。正直寝るつもりで、目を閉じていた。誰にも起こされることがないというのはうれしいことなのだが、寂しいものでもある。
だから俺はまず授業を受けることを放棄して、誰にも起こされないのは周囲に誰もいないからだという状況を作った。
俺はよくありがちなシチュエーション、屋上で寝るというものをしていた。というわけではない。実際のところ屋上を生徒が自由に出入りできるように放置している、気の利いたあるいは杜撰な学校というのは滅多にないのだろう。
ここも一般的な高校というか学園であり、さらに彩華島の、つまりは国の運営する学園である。彩華島は島の出入りにパスポートが必要である程度には管理を徹底している。当然ながら学園の管理も徹底している。
よって俺は屋上ではなくその手前で挫折したのだ。屋上の扉には鍵が掛かっているのだがそこまでの階段は解放されている。わざわざ防火扉を閉めまでして封鎖はしない。そのなんともどこか煮え切らないような場所で俺は過ごしていた。一限をサボって。
開けた窓からは歴史教師の無味乾燥な声が届けられて俺の眠気を加速させる。教室はすぐそばだった。だからこの行為は、テスト前に勉強してないから、と言いふらすことに似ている。
授業の内容は頭の中で渦を巻いて溶け込んでいく。平坦な声になんの重みも感じられず、今日の朝ご飯についての雑談をしているのか、それとも三十年ほど前の何人もの人が死んだテロリズムについての授業なのかも分からない。もしかすると言っている教師の方からしても判断がついていないのかもしれない。
たしか教師はまだ三十代だったから子どもの時に見たアニメやドラマとニュースが記憶の中で混ざっていても気付かないだろう。
そんなふうに死んだ魚のような目で思考の波に溺れていると、階段の下の方から誰かの声が聞こえた。
「サボりなの? ダメだよ、授業はしっかり聞かないと」
一人壁当ての言葉のキャッチボールをしている物好きな佳奈がいた。階段の段差の一つ一つに佳奈の言葉が反響して、サボりのゲシュタルト崩壊が始まる。
「サボりだよ。佳奈もだろ。授業はしっかり受けないと」
見事なブーメランで自傷行為を行った佳奈があまりにも堂々としていて一瞬混乱した。混乱のあまりブーメランを投げ返してしまった。
「お互いに不真面目だね」
佳奈は階段に腰を下ろしながら言った。
佳奈が授業をサボるのは珍しいのだろうか、という疑問が浮かぶ。同じクラスの仲の良い友人相手でそんなことも知らないのか、とも思う。実際に知らなかったのだが。言い訳をすれば佳奈と昴はたまに生徒会の用事で授業を休むのだ。もしかしたらそのときにサボっているのかもしれない。
「生徒会って忙しいのか?」
「ん? 珍しいね。面倒そうだから興味ないって言ってなかったっけ?」
「面倒そうだからしたくはないけどな」
興味自体はある。この島の学園の生徒会にはそれなりの権力が与えられている。精力的に活動しているということは知っている。
「権力が与えられた背景は生徒の不満を爆発させないためだったらしいけど」
佳奈は俺の質問にそう答えた。
「この島の学生、大人でも対処に困るようなのがいるからね」
はにかみながら俺の方を意味ありげな目付きで見る佳奈。別に大人が対処に困るようなことをしたことはない。対処が面倒そうなことは起こしたけど。何人か病院に送ったし。
「何も特定の彰君みたいな生徒のことだけじゃないよ。今より新人類への理解が低かった時代にはここの大人たちも同じように理解していなかっただけ」
「知らないから怖い。怖いから近寄りたくなく、近寄らないから理解できない」
何かかっこいいこと言うね、と佳奈は楽しげに笑い、俺は少し恥ずかしくなった。
「佳奈は何か怖いものあるか?」
俺は特に意味もなく尋ねる。恥ずかしさの軽減を知らずに求めたのかもしれない。
「怖いものなんていくらでも。饅頭とかお茶とか?」
なんで疑問形なんだ。笑えるか聞いてるの?
「あっそ」
「ホラー映画に虫、犯罪者、バイク自転車、不良ヤクザ、それに魔人と聖人」
続けて佳奈は列挙する。最後の二つを強調して。
「新人類はやっぱり元々の人類とは異質で危険だよ。一つの種としてね」
「まるで新人類が人間じゃないみたいだ」
俺は特に感情を込めずにそう言った。脳裏には美咲の笑顔が浮かぶ。だが感情を込めれば恐怖が発露しそうでそれが少し怖かった。
「違うんだよ。ホモ・サピエンスとホモ・ネアンデルターレンシスが良く似た別物なのと一緒。ホモ・サピエンスまでは一緒でもその次のサピエンスとソムニウスが違うじゃない」
仁は新人類と人類の違いを肌の色が違うだけだと言った。血の繋がった親戚のはずの佳奈は違う種だと言った。どちらが正しいのだろうか。俺は自分でも驚くほど冷静に考えている。歴史の授業を受けていれば良かったと少し後悔して、窓から流れ込む情報に少し耳を傾けてみることにした。
歴史の授業はつつがなく進んでいた。五十年前からの社会制度の変遷など毒にも薬にもならないことを眠気を誘う声で述べている。十数年しか生きていない高校生にとって変化というのは馴染みのあるものではないのだ。三十年生きた大人とは感覚が違う。そもそもが変化自体の子どもが変化を客観的に見つめられるわけがない。
俺が生まれた時には社会が言うような差別は身近に存在していた。戦争で壊滅したグローバルなネットワークが回復するまではもっと露骨だったらしいが、それも二十年ほど前までの話。
文明のレベルは戦争が始まる少し前程度に落ちつき社会は安定している。インターネットやソーシャルネットワーキングサービスはかつてのような盛り上がりを見せている。
教師は社会が平和であることを強調している。テロリズムが最近再び流行り出しているということが気に入らないらしい。
「それにしてもいつも歴史の時ここにいるの?」
佳奈は俺の横に座り直して言う。
「そうだけど。佳奈も授業たまにはサボるのか」
俺は佳奈の横顔を盗み見る。少し近い気がするのは気のせいだろうか。
「そうだね。今日は真面目に授業受けるべきだとは思ったんだけど、彰君も一限はサボると思ったから。探したんだよ」
どこか責めるような調子の佳奈にごめんと謝る。
「悪いと思ってるなら……少し頼みたいことがあるの」
躊躇した様子で口を開く佳奈を見て少しびくつく。そんなに言いにくい頼みなのだろうか。というより近い。上目使いで覗き込むようにされると、無理難題のときに断れなさそうで怖い。
「ええっと一つは、わた、わたっ、ごめん。ケータイに着信」
佳奈は後ろを向いて、ポケットから取り出したスマホを何やらいじると、こちらに向き直す。
「それで今日は絶対に学校のシェルターにいて欲しいの。放課後も絶対に一人にはならないで」
それだけか? と尋ねた俺に佳奈は少し微笑んで「そう、それだけ」と答えた。何だか拍子抜けしてしまう。何を期待していたわけでもないのだが。
「何を期待してたの?」
まるで人の心を読んだかのように的確な質問をされ少し困る。
「まあいいか」
口を噤んで困っている俺を見て佳奈は諦めたように言った。
続けて「期待なんかしてないし」といった声が聞こえた気がしたが教室からの声だろうか。考え込んで目を閉じていた俺には判別ができなかった。もしくはそれは俺の声だったのかも分からない。
「何か言った?」
小首を傾げる佳奈に俺は首を振る。
眠いの、と佳奈は一言で簡潔に今の心情? を表したかと思うと俺の肩に体を預けて来る。
俺は佳奈の体が安定するのを確認して「授業が終わったら起こすよ」と伝えた。
「ありがとう」
眠気に引っ張られたようにこぼれ落ちたお礼が、何に対するものなのかは分からなかった。気になることはあったが考えるのも億劫で、俺は肩の柔らかな温もりを感じながら微睡みに浸ることにした。
数分が経った。佳奈が穏やかな寝息を立てている。授業をサボってこんなことをしていると思うと、特にサボった以外のことはしていないが、少し背徳感のような妙な感覚に襲われる。
邪な思いを振り払おうと思い、時間を確認するために耳をすます。依然としてつまらない授業が続いていて、まだ一限だと判断する。そんな授業が流石に耳障りになって手を窓に伸ばした。
窓のガラスに反射して見えた塔はいつもと変わらぬ様子で島を見つめている。毎日目にするセントラルタワーがどこか異質で不気味なものに感じて、肌に伝わる佳奈の温かさをより強く感じた。