09
俺は肩の辺りを押さえて歩いている。もう痛み自体は無いのだがどうにも嫌な感覚が拭えないのだ。俺の隣では美咲が殊勝な顔をしている。
そんな俺たちを苦笑いで見ているのは昴に佳奈。要するにいつも通りのメンバーで登校している途中だ。
「もう大丈夫っしょ? 恨みがましいなぁ」
「小さい男なんだよ。なっ彰」
「俺がそれに同意するとでも?」
肉体的な傷こそなけれ、精神にダメージはあるというのに。
心無い友人の言葉に俺は低い声で返事をする。
それとだ、美咲に恨みがましいなどと言われるのは納得がいかない。大体殊勝な表情からその発言はないと思う。大方佳奈と昴に大袈裟に伝わるのが嫌だったのだろうけど。
俺は肩にかけた袋を揺らす。先ほど俺の肉体を痛めつけた凶器が楽しげに跳ねた気がして気分が盛り下がる。特に夏でもなく暑くもないのに汗が出てきて気持ちが悪い。
俺の肩に食い込んだ木刀は見事に骨のあるべきところに侵入していた。骨が折れたわけだ。そして先ほどからしつこく主張しているがもうすでに治っている。
現在の時刻は時計を見れば八時。もちろん時計は合っている。二時間で見事に再生を果たした骨は確かに賞賛に値すると思うのだが、誰も賞賛しない。なぜなら治ったのは骨の治癒力だとかそういうものではないからだ。
ではどのようにして治ったのか、美咲が一時間程度かけて治療したのだ。
聖人というものは恐ろしいものだな、と俺は口に出すことはない。きっと美咲は悲しむだろう。美咲自身が自分の力に恐怖をしていることは知っている。
聖人にもさまざまな力がある。統計では一人として全く同じものはなく、十人十色の個性的なものらしい。俺の身近には数えるほどしかいないから全員が違うと言ってもよく分からない。新旧関わらず個体差があるのは当然だから当たり前なのかもしれない。
それに俺も知り合い全員の力を把握しているわけではない。
いくらこの島とその住人が新人類に寛容だとしてもあまり人に見せびらかしたいものではないのだ。十人十色の個性というのはそれについて相談することができないということだし、無意味に嫉妬など敵意を向けられることに違いない。だから俺の側には未だ隠れている新人類がいるかもしれない。べ、別にフラグじゃないんだからね。いや、本当に。
そんなまともに理解することなど俺には絶対にできない新人類の力。
仁などは電子機器を自由自在に操るなんてフィクションではありふれた力を持っている。とても無害とは言いきれない。フィクションであんな力が多用されるというのはバトルに使いやすく、弱点にも困らないという特徴があるからだ。つまりバトルに使える程度の危険性はある。昔から電気を発するネズミはピカピカ光りながらチュウチュウ鳴いているし、レベル5まで登りつめれば三位くらいの能力なのだろう。
美咲の力はサポート向けのヒロインが持っているイメージだ。基本的に無害だ。実際に無害だ。俺はそう信じているし有害だったことはないのだが、俺が仁の力と美咲の力を比べたとき俺がより恐怖するのは美咲の力だ。
美咲の力は怪我を治す力。本人曰くさまざまな制約があるらしいがよくは知らない。聖人の力と呼ぶのにふさわしい力。
人の骨折を完璧に治療するのは朝飯前らしい。
ちなみに今日の治療は、俺が気絶したあとにお腹が空いて力が出ないとか何とか言って二十分くらいかけ、飯を悠々と食べたあとに行ったらしい。できれば朝飯前に治療して欲しかった。せめて二十分の放置はやめて欲しかった。せめてパンでもくわえながらして欲しかった。
それとも登校する前に治療してくれたことに感謝するべきなのか?
「それにしてもだ。妹のパンツを覗いてニヤニヤする兄っていうのはどうなんだい?」
「変態だろ」
ニヤニヤと気持ちの悪い質問をしてくる昴に返事をしたのは俺だ。変態だと答えたのは俺である。
「言っておくが俺はお前と違ってニヤニヤはしていない」
「いや、おれもしていないけれども。まず妹いないし」
「変態って自己紹介は斬新だね」
「人の話を聞こうか、佳奈。俺変態ではないから」
「「「えっ」」」
何なのだろうか、今の不穏なハモりは。
俺の視線に佳奈はいつもよりも慌てた優しい声で答える。正確には生暖かい声。優しさに偽装されたからかいだろう。
「いやほら見るからにかな」
何故か他の誰よりもダメージを受けそうだ。優しいからだろうか。
というか、どこら変が? 辺を変と間違えるところが? むしろ変態と変態を間違えているんじゃないの? 変態――七年くらい埋まった後、七日間くらい輝いていそうなイメージから転じて大器晩成を意味する――みたいな。そんなよくわからない意味があればいいのに。セミは不完全変態だけれど何事にも不という漢字がついていればあまりいい印象はしないものだからいっそのこと完全変態になるか変態をやめればいいのに。だがもし不完全な変態から完全な変態になってしまえばそれはもはやセミではなくセミと似た何かかセミとまったく異なる何かかそれともそれとも……。
「いや。ごめんごめん。冗談だよ」
佳奈は遠い目をする俺に言った。
冗談でも傷つくことはある。美咲でも精神的ダメージは治療できないのだ。
三人とも楽しそうに笑っているのが腹が立つ。特に美咲。まあ笑顔は嫌いではないので俺も笑っておくことにする。
そうやって心が少し晴れたような気がして一つ気になることを発見した。どうにもあの前後の記憶があやふやである。一種のトラウマにでもなってしまったのかもしれない。
「ところでカレーとハンバーグって何だっけ?」
こういうことは知っていそうな人に聞くのが一番だ。
「えっとそれにエビフライね。今日の夕食の献立。約束だよ」
なるほど機嫌をとったのか。いかにも俺のやりそうなことだ。多少の違和感が拭えないが気にするだけ無駄だろう。
「ところで何をどうしたら記憶が飛ぶまでなるの?」
佳奈の疑問ももっともだ。
「スカートを覗いたからだろ」
昴が決めつけるがそれもあながち間違いではない。
「その前から怒っていたらしいけど」
佳奈は昴の得意気な顔に無雑作に手の甲をぶつけて続ける。
今朝の顛末を美咲が佳奈に語っている間に昴は鼻の辺りを押さえながらふらふらと俺に近寄ってくる。
後ろの方を歩く二人の声が少しずつ遠ざかる。
「今日なんか佳奈機嫌悪いな。ところでさパンツを見るよりはスカートを覗くの方がなんかエロい感じがするよな」
なるほど俺も今日は機嫌が悪いようだ。足を俺から引っ掛けられ、地面に頭突きを繰り出した昴を眺めながら俺はそんなことを思った。
昴をそのまま無視して進む。
十歩程歩いてから振り向くと昴の額に美咲が手を当てているのが見えた。文字通りの手当だ。母親がするような仕草で少しばかり面白く感じる。
美咲の手が穏やかに発光して、昴の表情が穏やかになる。朝の爽やかな光に夕方のような暖かさの光が溶け込んでいる。そんな光は目に心地よく浸み入り俺の心は安らいでいく。
終わったよ、そう言ってそれでも心配そうに額を気にする美咲。その姿を見てその力に恐怖するということのバカらしさに気付いた。
しかしそれでも恐怖に値するとは思うのだ。異常な速度で再生したであろう肩の骨を気にしても、いつも通りの感覚しかなく、たとえ死んだとしても変わらないのではないか、と何とも言えない感情を持て余した。
そしてその感情も俺が明確な言葉にする前に不思議な光に溶かされて実感できなくなっていった。
佳奈と美咲は女子らしい姦しい調子で俺のような男には分からない話題で盛り上がっている。
どうにも肌の話題らしく隈について話している。二人とも寝不足らしい。
「まったく佳奈さんは何してたんですか?」
少なくともホラー映画の余韻を楽しみつつ徹夜というわけでも、家族を殺す算段をどうこうしていたわけではないだろう。
「いやー昨日はちょっとね」
口を濁す佳奈に一人戦慄する。まさか美咲のような夜を過ごしたのか? 会話に集中して足元がおろそかになった俺たちに痺れを切らしたのか、昴が急かしだす。
濁った言葉は澄むことなく、不思議な光もなくなった今ではどこに溶け込んで隠れればいいのか分からない、といった調子で俺の意識の中にしこりを作成した。