08
俺――滝峰彰は頭をぼんやりと回転させている。
その脳内では昔からよく見る夢が再生されていた。
もちろんディティールは細かく違うような気もするのだがはっきりとした差はない。きっとおそらく何らかのベースとなるべき記憶があるのだろう。
声を知覚する。夢の中で聞くというのもおかしな話に思えるが誰かの声を聞いた。その声を聞くと不思議な安心感に包まれる。いつもと変わらない女性の声。勝手なことだが母親のものではないかといつも期待する。母親の声の記録などどこにもないし、思い出すことすらあやふやにしかできないから確かめることはできない。
その声と会話するもう一つの声と泣き声。泣き声のせいでその俺とよく似た低い声が何を言っているのかは分からない。
泣き声が小さくなっていく。どうやら美咲は父親である流也によって部屋から連れ出されたらしい。
俺はゆっくりと瞼を開く。目の前に広がる光景は見なれたものだ。夢の中でだけは。裏を返せば夢以外で見た記憶は全くといっていいほどない。
石で作られた広い部屋。入口からは荘厳な祭壇が見える。その祭壇の上には半透明の物体。何かの宝石の類なのだろうか。だがそれにしても大きい。人の何倍もの大きさのある不思議な物体だった。それは妖しく明滅している。
その光が強くなればなるほど俺の中で恐怖が高まっていくのを感じる。得体のしれないもの、未知のものへの不安が高まる。そのはずなのに俺はその光をどこか暖かく優しいものとして捉えている。恐怖と安心という明らかに矛盾したものを抱いている。
「さて、やるか」
父親、流也の声が部屋に響く。俺は頭をくしゃっと撫でられ、祭壇に連れて行かれる。
宝石は脈動しているかのように光る。その光る周期が自分自身の心臓の鼓動と重なったような錯覚がして気味が悪くなる。
耳元でまるで柏手を打つかのような音が響き、脳が揺さ振られる。ゆっくりと視界が回転して暗転していく。
遠くから声が聞こえる。もう誰の声かも分からない。
俺は幼い声で呟いた。
――約束だよ。
熱いものが頬を伝うのを感じた。
視界が明るくなるがもうなにも見ることはできない。白に包まれていく。
夢が途切れる。
物心付いた時から幾度となく繰り返した夢。いつかの幸せだったはずの幼少期で幸せだとは思えない夢。両親がいなくなった時に何があったのかも何もなかったのかも分からない。確証はないがこの夢は両親がいなくなる少し前くらいの出来事を下敷きにしているのだろう。
声が聞こえる。
俺の言葉に答えたのか、頭の上に小さな手が置かれる。その優しさも温かさも今はもう夢の中でしか思い出すことのできないものとなっている。
「早く起きたほうがいいよ」
妹の声が頭上から降ってくる。
眠い。ただひたすらに眠い。夢のせいで。あと少しだけ。
「早く起きたほうが身のためだよ」
どこか妹の声に冷たいものが混ざっているような心地がして布団を頭まで引きあげる。肩を揺さ振られる。頬を叩かれる。俺は仕方無く目を開く。
妹が俺の上に座って木刀を振りあげている。中学の見なれた制服姿に木刀。機関銃ならば映画のタイトルにでもありそうな格好だ。セーラー服とというやつだ。これは初めて見るタイプの夢だな。あれが落ちてきたなら目が覚めるのだろうか。どちらかというか永遠に寝続けることになるか特殊な癖に目覚めることになりそうだな、と俺は寝起きのぼうっとした頭で考える。
「ろーく、ごーお、よー――」
そう俺は寝起きの頭で考えていたわけだ。美咲がカウントをしている間に。寝起きということは目の前の光景は夢ではないわけだ。
「さーん、にーい」
美咲は目を閉じて数えている。俺は目を見開いた。
「ちょっストップ待って」
俺の制止を聞いた美咲の目がぎらっと光ったような気がした。が気のせいだと思いたい。妹が本気で兄を殺そうとするなど誰も得しないからだ。そして誰よりも得しないのは俺だ。
カウント関係なしに容赦なく振り降ろされる木刀。何かが折れたような音が聞こえた。俺の持ち上げた腕の辺りから。寝起きに全くもって優しくない刺激で脳が覚醒する。それとも麻痺したのだろうか。何どちらにせよ眠気は嘘のように消え去り、腕の正常な感覚が消えていることを神経が脳に教えてくれている。教えて欲しくなかった。
「美咲ちゃん、もう起きてるから」
「もう一生分くらい寝とく?」
小首を傾げて尋ねてくる美咲の手に木刀という凶器が握られているという違和感。というか寝ている兄を撲殺しようとするような狂気に満ち溢れた妹なんかいらない。
目覚まし時計がやかましく時刻を告げる。俺が冷汗をかきながら、恐る恐る伸ばした手に当たったのは、時計の憐れな末路だった。そして時計に減り込んだ木の刀が指先に触れた。こんな状況じゃなければ説教するのだが。目覚まし時計は木刀を振り降ろして止めるものではない。何年間現代社会で暮らしていれば目覚ましの止め方で破壊という選択肢が生まれるのだろうか。
危うくミンチになりかけた手をさすりながら俺はとりあえず笑っておくことにする。
笑顔というのは敵意がないことを示す重要な要因らしい。ほら美咲の顔にも冷え冷えとしたきれいな笑顔が張りつけてある。確かに敵意は感じない。どうしよう純度百%の殺意しか感じられない。確かにこの状況の俺は対等な敵というよりは、まな板の鯉のように死を待つしかできない被害者のようなものだ。
「痛みはそんなにないから大丈夫」
ニコッと言う割に大丈夫な要素が見当たらない。ちなみに一番大丈夫でないのは妹の脳内だ。心配過ぎて化けて出てしまいそうである。それ以前に死ぬつもりはないけれど。
「死にたくはないからやめて」
それから痛みがそんなにないとはどういうこと。どうせなら全くないのがいい。
「わがままなお兄ちゃんには優しい妹からの半殺しというプレゼントがあります」
いやそんなわがままとか言われても困る。しかも半殺しってこの状況から妙なリアルさが見えて怖い。現に片腕はもう壊されてるし。
「ああ、なるほど分かった」
「何がなるほどなの? まぁなるようになるか、ほどほどにしてねの略?」
そんなに諦めに満ちたなるほどはいらない。それとほどほどは半殺しなのか?
「お前が怒っている理由が分かったってことだよ」
俺が自信万々に言い放っても、特に美咲の冷たい笑顔が温まるわけではない。スマイル0円とは言うがせめて温めてもらわないとクレームがつく。それどころか慰謝料を払ってもらいたいところである。悲しいことに妹から金をせしめても家計が燃え上がるだけでとことん生産性がないのだが。
「だから?」
そしてクレームも慰謝料も生きることが前提条件であるから、俺の発言は一種類に固定される。
「すいませんでした。ごめんなさい。反省しています。二度としません」
流れで謝罪のオンパレードの中に『生きててすいません』だとかとことん自己卑下した言葉を混ぜそうになり自制する。本当に生きていることをやめさせられそうだ。
「私ね、昨日お兄ちゃんに勧められた映画見てみたんだよ」
はい、覚えています。DVDの表面のタイトルと中身が全く一致していないというお茶目ないたずらの産物だ。
「質悪いよね。あんだけ見たいって頼んでた映画のタイトルでまさかのホラー映画なんだもん。嫌がらせと悪意の産物としか思えないよね」
見解の相違ですね。よくあることです。その場合必要なのは木と肉をぶつけることではなく、意見をぶつけ合うことだ。冗談でなく本当に。
俺の心からの叫びをもちろん美咲は気にかけることなく話を続ける。なぜなら心からというだけで口には出してないから。
美咲は映画好きである。程度はどれくらいかというと、自称マンガ好きが王道漫画雑誌の数億冊売れているマンガしか読んでいないくらいの程度だ。というようなことではなく、一週間に一度は映画館に足を運ぶくらいである。もっとも金銭的、時間的余裕があればこその話だが。
余裕がない時にはレンタルで借りたり、テレビのプログラムを睨みつけてチャンネルを数時間独占したりする。そしてたまには友人や俺からDVDなどを借りることもある。
今の言動を見ればわかるように嫌いなジャンルはホラー。和製のじわりとくるホラーは大嫌いらしい。
もし木刀を俺に突きたてるような反応が、大好きなホラーを見てテンションが上がって、とかならばそれこそホラーだ。夢に出てきそうだ。むしろ夢だけで出てきて欲しかった。
はぁぁ、と俺はゆっくりと深呼吸をする。末期の呼吸かもしれないと思えば自然と深くもなるものだ。
改めて見れば美咲の目の下にはうっすらと隈ができている。俺は昨日よりはまともな睡眠を取ったおかげか美咲より顔色はいい。
ともかく怖がらせてしまったのは事実。代償として腕の一本というのは納得がいかないし、腹が立つことこの上ないが、どこかで妥協してもらわねばどこを壊されるか分かったものではない。
「悪かった。今日の夕飯はお前の好きなものにするから」
俺の提案に美咲は笑みを浮かべたかと思うと、焦りと申し訳無さが入り混じったような表情を浮かべる。
「ごめん、やりすぎた」
いささか遅すぎるような謝罪だが、俺たちの間ならば大した問題じゃない。腕の骨がきれいに折れたくらいならば問題ない。大事なことだから強調してみた。もっともこのまま放置プレイされたら死にたくなるだろうが。
「あとでしっかり治してくれよ。それで何か食べたいものは?」
「カレーとハンバーグで」
俺は買わなければいけない食材を考える。腕を折られたのは貸しにできるから、少しくらいなら金も借りることができるだろう。問題なく用意できる。
「そろそろどいてくれ」
俺の要求に美咲は素直に従い、立ち上がる。
「あっそれと今日は友達と買い物に行くから帰りが遅くなるかもしれないからね」
「気をつけてな。ところで何買いに行くんだ?」
「服とか下着だよ」
服とか下着ね。俺は立っている美咲をぼんやりと見つめながら思った。スカート短いんじゃないかな。視線を動かすこともなくぼんやりと取りとめのない思索にふけっていると頭上からため息が降ってきた。
意識が収束する。目が捉えるのは美咲のスカートの中で……ため息の意味とその冷たさに気付いた瞬間に、俺の肩に何か固いものがめり込み、俺の意識は飛散した。
俺別に興味ないのに。
残念ながら見てないとは表現できなかった。