07
呪術師たちの会合と同じころ、北区にあるとある家。豪邸あるいは邸宅という表現がしっくりくる高級感漂う館に少年がいる。
その家の一室、広々とした部屋で黒ずくめの少年が電話している。勉強机の上にはコンピューター。これもどこぞの生徒会長と同じく個人用にしては大きすぎる。何せ勉強机のはずが勉強するスペースがまったくといっていいほど存在しないからだ。
「姉ちゃん、とりあえず頼まれたことはやっておいたよ。明日は何かやることはあんの? 無いんならオレ家にこもっておきたいんだけど」
耳に当てたスマートフォンに向けて仁は話す。仕事云々の前に従姉弟の関係だからなせる要望だ。
『明日は危ないから家には居れないよ。それにちゃんとやらなきゃいけないこと残ってるよ』
優しそうな声が聞こえる。仁はその言葉を聞いて呻き声を上げる。てっきりこれで終わりだと思っていた。
『明日は実験する。いつものところに来いって伝言があったから』
再び聞こえてきた言葉に今度は目を輝かせる。もちろん慣用的な意味で物理的に目を輝かせたわけではない。
『危ないことはしないでね』
佳奈の優しい声が響く。自分のことは棚に上げて。本当に危ないのは自分の方なのに。そう仁は従姉の身を案じる。
「いくら好きな人を守るためとはいえ、よく命かけられるよね。映画みたいでかっこいいなぁ」
『なっそっそんなんじゃないよ。ただの仕事だって。それにほら友達だしね』
仁が少しからかうと慌てた声が返ってくる。真っ赤になった顔が目に浮かぶようだ。
『というか、今は仕事ちゃんとしてよ。追加で調べてほしいことがあるの』
仁は追加の指示に従い、コンピューターに手を触れる。入力機器ではない、タッチパネルでもなんでもないディスプレイにだ。コンピューターが唸りを上げる。少年の目は黄金に妖しく輝いている。今度はもちろん慣用的な意味ではない。
ディスプレイに映っている意味の分からない記号の羅列が少しずつ整理されていく。画面が切り替わる。
その画面を簡単に説明するならばデータベース。その内容を簡潔に説明するならば世界各国の政府の機密情報。
仁は頼まれた内容を探す。どこから漏れたのだろうか。剣が日本に襲いかかることは様々なところに書いてあった。一応は機密情報なのに、と仁は少し苦々しく思う。自分が平然と他国の機密を漁っていることを棚に上げて。
気にしなければならないのは剣の情報を受けての他国の対応。
2088年現在もそれなりの地位を保っている日本。正確には地位を持ち直したが正しいが。そんな日本の一大事にどのような外交をしようとするかが問題だ。どさくさに紛れて文字通り戦争が起こってもおかしくない。
少年は意味の分からない暗号のような情報を伝える。こういう情報収集は本来ゲーム好きの生徒会長の仕事だ。世界情勢や軍事バランスには仁は興味がない。
眠い目を擦り、あくびをしながら他国のハッカーを弄び、データを閉じると尋ねる。
「明日、姉ちゃんはどんな仕事やんの?」
『明日はいつも通りだよ。監視して護衛するだけ。でも明日の朝までに結界を張らなきゃいけないの』
「姉ちゃんの得意分野だな。実際マンガみたいに簡単にできるもんなのか?」
『おじさんに聞きなさい。呪術師になるつもりがあるんだったら知ってたほうがいいよ。じゃあね』
優しい声音で答えを濁す従姉の言葉を聞いて苦い顔になる。
仕事で家に帰ってくるのが少ない父親とはあまりまともに話す機会がない。仲があまりいいわけでもない。
とりあえず家の本でも漁ろうと思いながらコンピューターから手を離す。コンピューターは電源が切れていることを今更ながらに思い出したのかディスプレイから光を失わせていく。ファンが力を無くしていく。仁はそれから目を放し眠気に身を委ねる。コンピューターが力を失えば、自分は無力だということを仁は誰よりもよく知っている。
少女はあたりを見回している。
つい数分前まで従弟と電話をしていた少女、つまり吉田佳奈だ。
場所は北区の公園。時刻は八時半を回っている。
少しの街灯と月の明かりに照らされた公園はお世辞にも明るいとは言えない。
遊具の無い中央の辺りまで佳奈は一歩一歩踏みしめるようにして歩く。そして周囲を見回し誰もいないことを確認すると、肩からバッグを下ろした。
ポケットの中から一枚の紙切れを取り出すとひらりと手から離す。紙切れは地面に落ちると、風の動きに流されることもなく固定される。じんわりと公園に波のようなざわめきが広がる。
それを確認すると佳奈は手探りでバッグの中からL字形の金属棒を2本見つけだす。それを両手に構えるとゆっくりと歩き始めた。いわゆるダウジングだ。こんな時間に一人で歩く少女は傍から見ると明らかな不審者。だがそんな心配はする必要はない。あらかじめ簡単な人払いの結界を張っている。先程ポケットから落とした紙切れはそのためだ。
結界にも種類がある。公園から人を遠ざける程度の結界なら呪文や呪符を一つ使えばできる。今から彼女が作り始める結界はそう簡単にはいかない。島全域に張る、侵入を拒む結界。そして侵入されればどこからか探知する結界。到底呪符や呪文ひとつでできることではない。
現在佳奈がしているのは公園に埋まっている呪具の捜索。
彩華島には緊急用に呪具が埋められている。呪術を行使するためのしるべとして島中に一般人には気付かれないように。
しっかりとした足取りで歩む佳奈の頭はぼうっと仁との会話が思い起こされている。
「まったく、あんなくだらないこと言うぐらいならまじめに勉強すればいいのに」
会話の内容と同時に、友人の一人のことが頭をよぎる。彼を守る。もちろん彼だけではなく、島中の人々を守らなければならないのだが、佳奈の思考からはそれが抜けている。それは恋愛感情に身を委ねていられる十代の特権ではあったが、公務員である佳奈にとってあってはならないことだ。公務員とはまず国家の奴隷であり、人民の奴隷なのだ。
ぴぴっぴくっ、ぴくっ。金属棒が急に交差する。
「きゃっ」
小さな悲鳴とともに思考が停止される。一瞬佳奈自身何をしているのか分からなくなり混乱する。
赤く染まる頬を撫でて気を取り直すと何度かそこを行き来し、正確な位置を調べる。そして調べ終わると地面に靴でバツ印をつける。
「よしっ」
佳奈は満足げな声を上げ、バッグの中から様々な道具を取り出し始める。
そしてその一つの大きな紙を広げバツ印の上に置いた。コンパスを見ながら方向を調整する。紙に書いてある幾何学模様に文字や線をさらに書き込み、力をじんわりと注ぎこむ。陣が赤く輝く。その反応を見てさらに書き込む。
出来上がったのは大きな三角形の中に眼が描かれた図形をベースとした模様。
「プロビデンスの目、すべてを見通せ――」
少女の声が響くと同時に変化が始まる。
透明な膜ができ、少しずつ広がる。陣に書いてある目がぎょろりと動き始める。何もかもを見通そうと貪欲に目を見開いた。
呪術に携わることや才能が無くとも、ほとんどのものは無意識に離れたがるだろう不快感が広がっていく。誰だって見られているという感覚にあまりいい気分はしない。
少女は自分の術が予定通りに作用していることを確認する。だが予定通りの作用では敵を食い止めることなど出来ず、牽制程度になるかも微妙だとも知っている。権限というのは大きな問題で、先人の知恵を有効に扱えるかどうかは上司の指示次第だ。今用いている呪具は緊急の間に合わせるためのものに過ぎない。それがこの場合の最善ではあったが。
暗い公園が佳奈の視覚では正確に隅々まであらわになる。そして公園の外、膜に触れたものが一瞬だけ佳奈の知覚に引っ掛かる。
頭の中から無駄な雑念は消えている。従弟との会話も友人のことも消える。黙々と作業を進める彼女の様子はまぎれもなくプロのものだった。それもかなりの練度を持ったプロ。
佳奈自身この呪術を行使することは呪具の準備さえあれば簡単だと思っている。だがそれは勘違いだ。佳奈は少なくともこの島において最強の結界術師であることは間違いなく、この分野において世界でも有数の才能の持ち主である。何せ自分の技術に溺れることなく純粋に上を目指すのだから。
数時間後、1日が終わる。そして歴史に残るべき数日が始まる。多くの人に知られることのない静かな戦争が始まる。多くの人が望むことのない戦争は始まってしまう。
島の中央セントラルタワーと東西南北の公園など5か所からできた結界が一つにまとまった。モノリスはその中心でいつもと変わらず人間を馬鹿にでもするように輝き続ける。人工の光と競うように光を発する。セントラルタワーはイルミネーションを一層と輝かせる。どこか愉快そうに。
呪術師たちの静かな闘争が始まったそんな時でも街はいつもと変わらず平和だった。