01
結城由利は黄昏れる。上空一万メートルの非日常。ただその場に立つだけでそれまでの平凡とは言えない人生が走馬灯のように思い返された。小学校、中学校、高校、大学、社会。そのどこかに初恋というイベントや失恋というイベントもあり、子どもとの思い出もある。
由利は現実から逃げようとする思考回路を遮って、現状を直視しようとした。
日本本土と南国の土地、昔から変わらずの観光地を繋ぐ航路。一機の旅客機がエンジンを唸らせて空を泳いでいく。
天気は雲一つない快晴。天気予報が外れてこれほどの歓喜を感じるのは初めてだ。由利は素直に喜んでいた。裏を返せば喜ぶべきことはそれだけだった。
時は5月の上旬。世にゴールデンウィークなどと呼ばれる期間も終わりに向かう頃。休暇を取って疲れを癒してきた人々とは異なり、由利は疲れを噛みしめている。
時機が時機ゆえにファーストクラスもエコノミークラスも関係なく人々で埋まり、結果として由利の席はなかった。由利はどうにかして機内に入らなければ、と考える。
上手いこと休暇を取れたのはよかった。滞在自体も楽しかった。
だが最後にケチがついたものだ。仕事を押しつけられる。唐突なことだ。いつも通りの理不尽。文句の一つも言えはしない。考えるだけだ。
由利は飛行機の外で独り絶望する。
外を見て絶望するではない。
思考を際限なく巡るのはせめて席の一つぐらいは用意できないのか、という疑問。せめて貨物扱いでも構わないから機内に入っていたかったという願望。
機外は暴風が吹き荒れている。当然ながら生身で堪えることができる風の強さでも気温でもない。高空一万メートルの世界は空の王者たる鳥類さえ見下ろすことのできる世界なのだ。
それは当たり前のことだが、空の開拓者たる人類はまだ適応していない世界だということを意味する。少しでも気を抜けば、もう故郷の土を踏むことが無いことを予見できる世界だ。
人間が様々な環境に適応しうる原因といえば、文明の利器だ。その例に漏れず、由利も荒れ狂う世界に生身で突貫したわけではなかった。
由利だけが扱える個人技能の一部として本人には文明に頼っているという感覚はなかったが。
由利は自分以外の同僚がこの無茶な仕事に駆り立てられなかったことに安心し、自分に面倒極まりない仕事が回ってきたことを悲しみ、そしてその仕事を生み出してきた犯人たちを恨んだ。
心の中で不運だ、とぼやく。自己の人生を思い返し、それまでの選択肢を吟味し直し、選択を選び直したところで、同じような事態になっていただろう。そして今考えたところで現状が覆されることはないのだ。由利は二重の意味で憂鬱におちいった。
由利は旅客機の大きな体にしがみつき、まるで寄生しているようにも見える。大型の魚と共生するコバンザメのように。
だが由利は寄生しても何も恩恵を受けとれていない。重力にしたがって落ちていったほうがよほど楽に思えた。
見ようによれば真っ白な機体に真っ白な塊が繭のようにくっ付いているようにも見える。
由利の体の周りには真っ白な風避けがある。ラミネート加工された紙製の膜。それが白い繭だ。
だから厳密に言えば由利は旅客機にしがみ付いているわけでは決してない。白い繭の中で丸まることなどなく手を広げ意識はまさにしがみ付いているという様子だが、それも由利の意思で紙が動いているというだけのこと。
手を広げたその延長線上に、紙の命綱があたかも腕のように連なっている。
由利は腕時計を見る。離陸してそれなりの時間が経っている。
そろそろ仕事の時間だろうか、そんなことを思って時計の針を見つめる。後数十秒で始めよう、と誰と打ち合わせをしているわけでもないが決意する。
秒針が六十を回ると繭が少しずつ小さくなった。そして繭が羽化して蝶を吐き出すように真っ白な紙の人形が吐き出された。
白い人影は腰の辺りから命綱を伸ばしている。機体の胴体に綱を回し、幾度か綱を手先で手繰ると静かに登り出した。
由利の体には隙間なく装甲が纏わりついている。ミイラのように頭の頂点から爪先まできっちりと。実態により近いイメージは宇宙服。冷たい外気に対応して、水に対応して、三層の構造、さらにラミネート加工の外側。
由利は緊張から荒い呼吸を繰り返す。顔の前の白い壁を見ていつも思うのは閉所恐怖症でなくて良かったということ。
紛れもない自分自身の能力で自分は守られている。そう簡単なことを確認すると緊張も収まってくる。由利は意識してゆっくりと呼吸する。酸素は十分。酸素は自分の能力でまかなえている。
呪術。魔法、魔術、錬金術、外法、陰陽術、邪術、妖術、秘術、呪い、奇跡、神の御技などなどなど。
技術の名称は多様だ。
総じて言うならば、科学ではないオカルト。
つまりはそういうものが、今の世界ではある程度幅を利かせ技術として活用されている。
特徴としては扱える人が限られるということがある。そしてそれがもっとも劣る点でもある。
例えばライターで火を着けるのと呪術で同じ程度の火を着けるのならばライターに軍配が上がる。
指先一つ大した労力もいらず扱えるライターとそれなりの集中力を要する呪術。明らかな話だ。
では家一つを燃やす程度の炎を起こす時どちらが有用か。それは呪術に軍配が上がる。ライター程度の火を起こすことと家を燃やす程度の炎を起こすことについて呪術は何ら差を持たない。もちろん限度と個人差はあるが。
由利の十八番、白童子。
強度に優れ、直感的に動かすことのできる、端的に言えば紙製の鎧。欠点は顔まで覆われていることでコミュニケーションが取り辛いことと腕時計を確認できないことだ。
由利は機体の上に辿り着くと、ゆっくり慎重に主翼に這い寄っていく。上を見ればいつもよりも太陽が近い。いつもより地面が遠く、海面も遠い。そしていつもより格段に死が近い。
真っ白な鎧に身を包み、ブルーな気持ちで思考する。そうしていると青白い顔に少しずつ血の気が戻っていく。冷たい汗を紙が吸収した。
由利は遠くを見る。真っ白な装甲を左右に振る。傍から見ても目がどこにあるのかも分からない。だが由利には見えている。雲のような装甲だけが。純白の裏にある模様。
由利は白童子から紙を切り離していく。凄まじい風の中を白い紙片が舞っていく。由利の意志に従って縦横無尽に風に逆らって飛ぶ。舞い踊る視点の中を由利の意識は浮遊して、由利は敵状を冷静に視察する。