ようこそ、魔界へ
アンドロマリウスが溜まっていた仕事を着々と片付けていく中、シェリルは眠り続けていた。
膠着状態だったあの戦争は、膠着している内にどんどん思惑が絡まり合ってややこしくなっていた。
結局全てを解決するまでに五十年弱の時間がかかってしまったが、きっとあと少しすれば笑い話になるだろう。
シェリルが目を覚ましたら、娯楽話として話してやろう。
アンドロマリウスは屋敷に戻ったらまずシェリルの様子を見に行き、屋敷の中で仕事ができる日は彼女の隣で仕事をしている。
シェリルが魔界にくる決意をしてくれた理由の一つに“アンドロマリウスの仕事が溜まっていた”というのがある。
これをシェリルが心配だからと無視してしまえば彼女の意志を無視した事になってしまう。
シェリルが目覚めるまでに溜まっていた仕事を片付け、堂々としていたい。今までシェリルが一人で生きていけるように、ある程度厳しく接していた。
これからは思いきり甘やかせてやりたい。それには自分が仕事に追われるような生活をしていてはいけない。
シェリルの髪を梳き、頬を撫でた。目の前で眠る彼女は、どことなく穏やかな表情に見える。
ゆっくりとした時間を設けるのは夜だけに限定し、それ以外は仕事に集中するという生活を数百年続けているが、目覚める兆しはなかった。
簡単に目覚めるとは思っていないアンドロマリウスはもちろん焦ってはいない。年々シェリルの魂は戻ってきている。
それが彼女の命が続いている証だ。
早く目覚めて欲しい。そう願いながらアンドロマリウスはシェリルのそばで眠りについた。
どれだけの月日が経ったのか。目を覚ましたシェリルはふと周囲を見回そうとした。うまくいかないようだ。心の中でそっと溜息を吐いて目を閉じる。
魂が馴染んだらすぐに目覚めると思っていたが、そうではなかった。
アンドロマリウスの力を全て魂に取り込み、もとの魂の大きさまで戻っても、シェリルは目を覚ませなかった。
理由はもちろん分かっている。
単に混ざりものになった魂と肉体がうまく繋がらなかったのである。
幸いにして、アンドロマリウスがシェリルの肉体から魂が出ない術式を肉体の方に刻んでいてくれた。
肉体との不一致で魂が追い出されるような事態は避けられていた。
あとは肉体が魂を認識してくれさえすれば良い。
とはいえ、ある意味これが一番難しかったのだ。シェリルは力の吸収を終えてユリアとヨハンを完全に取り込んだ為、ひとりぼっちだった。
話し相手の重要さを噛みしめながら必死で体を動かそうとし、そしてようやく肉体を動かすことに成功したのである。
動かせたのは瞼だった。確かめるように瞬きを繰り返し、閉じた瞼の下で瞳を動かそうとする。ぎこちないながらも段々と思い通りに動くようになった。
再び目を開いて今度こそ周囲を見回す。その視界の端に、見慣れた後ろ姿があった。
「…………」
辛抱強く、時間をかけて口を開いて声を出そうとした。上手く喉を震わせる事ができず、ただ息を吐いただけで終わる。
視線の先にいる、その背中に物を投げつけたくなった。首から下は重しでも乗っかっているかのように重く、ビクともしない。まるで死体にでもなったかのようだ。
早く気がつけば良いのに。そう思いながら睨んだ瞬間、アンドロマリウスが振り向いた。
「――目覚めたのか?」
掠れた声に、アンドロマリウスの緊張を感じた。シェリルは声を出すのを諦めて、瞬きを繰り返す事で返事をした。
ゆっくりとした足音がする。近付いてくる足音に、シェリルの胸は早鐘のようになり始めた。何年待っていてくれたのだろうか。聞きたい事は沢山ある。
――話したい事も、伝いたい事も。
アンドロマリウスがシェリルの視界を占めるまで、十歩あるかどうかというくらいであった。近くにいたのに、その音はシェリルを激しく緊張させた。
それはアンドロマリウスの声を聞いて緊張が伝染しただけかもしれないし、シェリルが彼との会話を激しく望んでいたからかもしれない。
「……ようこそ、魔界へ」
胸を騒がせているシェリルの耳に入ってきたのは、暖かな熱情の込められた声だった。