聖痕の呪い
咥内から気管を通って気管支を覗き、それから食道を下って胃へと侵入する。気管支の方は全体的に涅色の血管が複雑な編み目模様を描いていた。
所々、不自然に焼け爛れたようにどろりとした部分があり、それは食道も同じだった。恐らく自己融解の一種だろうと見当をつける。
胃には内容物がほとんどなく、小さな池があるだけだ。晩年は飲み食いも碌にできない状態だったに違いない。
周囲を嗅げばシェリルの作った薬の匂いがした。シェリルの薬は、ここにある。
死ぬか、死ぬ直前に摂取したようだ。
もう少し進めばこの体に何が起きていたかが分かるかもしれない。
そう考えたアンドロマリウスだが、胃を通り過ぎて少しも進まない内にこの躯から外へ出て行く事を決めた。
十二指腸に入ってすぐ、異変に気が付いた。不思議な事に、十二指腸は溶け始めていた。だがこれは自己融解ではない。
死後数日であるはずにも関わらず、腐敗の度合いが進んでいる。
飲食をほとんどできなかったと思われるこの躯は、水分が少ないはずだ。若者や通常の老人よりも腐敗は遅くなると考えられる。
血管の変色も通常より早かったが、それは病気のせいだと思っていた。しかし、この内蔵の様子を見るに、違和感は多少あれど胃までは普通の腐敗速度だ。
通常とは異なる反応がこの体で起きていた可能性がある。ここ数日は涼しいし、アンドロマリウスの想定以上に腐敗が進むとは思えない。
そこまで考え、これ以上中を見ていても無駄だろうと判断したのだった。
口から這い出た眷属を使って躯の体に異変がないか、念入りに確認していく。見える部分には、何もなかった。残るは床に接している背中だけだ。
眷属に躯の表面を見てもらう間にアンドロマリウスはさっと依頼人の場所を調べた。
すぐに戻ってこないと思ったら、今は市場にいるらしい。もう少し時間が取れる。彼は周囲に気を配りながら家に入っていった。
あっという間に躯の安置されている部屋へとやってきたアンドロマリウスは、ゆっくりと丁寧に躯をひっくり返した。
「――これは」
思わず口から独り言がこぼれる。躯の背中には、死斑に紛れるようにして流れる線が刻まれていた。
天使の祝福による術式であった。
天使は、聖痕と呼ばれる傷を人間に与える事ができる。それが祝福の術式だ。アンドロマリウスが天使だった時、数回だけ人間に与えた事がある。
これは人間に負担をかけずに発動する代物で、困難な試練が与えられた人間を助ける意味で与える事が多い。
大体は体調不良になりにくくなる、とか怪我が早く治りやすくなる、とかそういった軽いものだ。
しかし、この躯に描かれている聖痕は違う。祝福というよりは、呪いだと言っても良いような内容の術式が描かれているのだ。
内容はそんなに難しいものではない。むしろ単純なものだ。だが、とても質が悪い。
私だけがあなたを祝福する、という意味の術式であった。この術式には、その他にあなたは私の祝福だけを受ける、とも描かれている。
つまり「私以外の者に加護を求めてはいけませんよ」という事だ。
聖痕は勝手に発動する術式だ。本人の意志とは関係ない。この聖痕を与えた天使以外の加護を与えられた場合、聖痕を刻まれた本人が罰せられてしまう可能性がある。
重篤な病に冒されている、体力も少なく、ただ死を待つだけの状態で、精霊の祝福が込められた薬を摂取したらどうなるか。
薬と精霊の祝福、両方が反作用するか変質してしまうだろう。そしてそれは彼女の命を奪うには十分すぎる。
急いで躯を元通りにし、眷属と一緒に家から立ち去る事にする。
少しして、アンドロマリウスが出て行った家へと入っていく気配がある。市場から帰ってきた依頼人だ。
彼に気が付かれずに確認を終えられた事に安堵の溜息を吐いた。
アンドロマリウスは、明らかな悪意を持った天使が背後に存在していると確信した。シェリルに知らせて、警戒を強めるか街を一度出て行くか、今後の事を相談しなければ。
少年の姿をした彼は、年に似合わぬ渋い表情をしていた。
2019.10.12 誤字修正