忍び寄る影
只人の時間の流れは早い。シェリルは可愛らしい乳飲み子を抱えて微笑んだ。乳飲み子は彼女の横髪をぎゅっと握ってひっぱりながら「あー」だの「うー」だの言いながらきゃっきゃと笑っている。
「ああっシェリル様の御髪になんて事を!」
痛いが、束を持ってくれているおかげでまだ髪は抜けていない。目の前でわたわたと慌てるユリアに、シェリルは笑って答える。
「これくらい元気で好奇心がある方がきっとよく育つわ」
そう、この乳飲み子はユリアの子供である。顔見知りはしないのか、シェリルを見ても頭をこてんと傾けただけで泣きはしなかった。
こんなに大人しいのは初めてだとユリアは不思議がる。
しかし他の人間としてユリアが子供と顔合わせさせたのは、出産に立ち会った数人の他、双子のヨハンと悪魔二体だ。
アンドロマリウスはともかくアンドレアルフスに至っては大の大人でさえ死にたくなるような気配を持っている。
赤子が恐怖を覚えない訳がない。案の定、泣いた。
ぎゃんぎゃんと泣く赤子をすぐさま遠ざけ、泣きそうな表情を作って部屋の端に縮こまるアンドレアルフスは見物だった。
ここ何年かは施す機会がなかっためくらましの術をアンドレアルフスにかけてやり、今に至る。アンドレアルフスは商館にある自室で大人しくしているはずだ。
アンドロマリウスの方はそこまで恐ろしくは感じなかったようで、ただ淡々と彼を見つめていた。赤子の気が済むまで見つめさせた所、手を伸ばしてみせた。
アンドレアルフスはそれを覗き見て肩を落としたのは言うまでもない。
ヨハンは最近体調があまり芳しくないようで、この子が生まれてすぐに顔を合わせただけだとユリアが言っていた。
実の所、シェリルもアンドロマリウスも、ここ数ヶ月は彼の姿を見ていない。
体の不調、と聞けばシェリルやアンドロマリウスが思い浮かんだのは寿命という単語だった。魂を分割した双子の魂は、半分ではない。ユリアの方に重きを置いて分けられた。
魂が小さいという事はそれだけ弱い人間だという事である。分割した時も、アンドレアルフスはヨハンの持っている時間はそう長くはないと言っていた。
ユリアにそっくりの、つまりヨハンにも似ているこの赤子を見つめながら、シェリルは今ここにいない青年に思いを馳せる。
こんなに可愛らしい姪っ子の姿を見に行けない程、体調が悪いのだろうか。しかし身を隠すくらいだ。それなりの事情があるのだろう。
最近シェリルに関する悪い噂を耳にするようになったから、そういったくだらない事に彼が巻き込まれてはいないと良いが。
――どうにも暮らしにくい。シェリルがこの街をそう感じた事は今までない。
面と向かって罵倒されたり、訴えてきたりする人間がいないから実感が沸かないが、どうやらシェリルは避けられているらしい。
偶に耳にする噂もあまり気分の良いものではなかったし、それを鵜呑みにしているらしい街の人間からの視線も好きではなかった。
噂というものはあくまでもくだらないもので、シェリルが新しい悪魔に傾倒して召還術士としてふさわしくない、というものだ。
他には、悪魔との接点可愛さに皇をないがしろにしている、一時的な干ばつと降雨はやらせ――だとか。
面白いものでは、悪魔との契約のせいで世界の均衡が崩れてきている。だから、水が涸れたりしたのだ、というのもあった。
言い出したらきりがないくらいには変な噂が流れている。
ある意味その通りだとシェリルも頷いてしまいそうな噂まである所を考えれば、シェリルをよく知っている存在が噂の源なのではないかと勘ぐりたくなる。
シェリルと和睦した皇であるフロレンティウスが行っているのではないだろうが、この街から追い出したいと考えている何者かが潜んでいる事だけは確かだった。