強制的な召喚解除
クスエルのいた場所には、彼のいた気配の残渣であるかのように赤い煌めきが舞っていた。シェリルの胸元に描かれた術式は光を失い、赤くて細い複雑なひっかき傷へと変わる。
しばらく三人はその場に立ったまま、無言で赤い煌めきを見ていた。空を漂う残渣は舞っている内に少しずつ分散し、どこかへ散らばっていった。
静寂を破ったのはシェリルだった。彼女は手のひらにできたひっかき傷を見つめている。手のひらはぱっくりと裂けており、先ほどから新たな滴がぽたぽたと滴っていた。
「アンドレ、事前打ち合わせなしだったのに」
「あんたとは浅からぬ仲だからな」
「そんな事よりも手を出せ。治してやる」
シェリルはアンドロマリウスの方へ手だけを差し出し、アンドレアルフスとの会話に声を弾ませる。
アンドロマリウスの舌がシェリルの手のひらから溢れる液体をゆっくりと舐めとっていく。ぴり、とした小さな刺激は、傷口を舐める頃にはずきずきと疼くような気持ち悪い痛みへと変わっていった。
「……思いきり傷つけて悪かった」
「良いのよ。私が奥の手使いたいって気が付いてくれたんだもの」
とても痛いけど。という一言を飲み込んで彼女は笑いかける。強ばった笑みに、アンドレアルフスは苦笑するしかない。
彼女の奥の手。それは自分自身の血を用いた召喚術である。符等の媒体がない場合や術式に強い魔力を必要とする場合等に用いられる。
クスエルはシェリルが召喚したわけではない。だが、一定の条件を満たせば、同等の扱いをする事ができる。
条件とは、自分の力が相手を上回っていて、かつ相手を魅了しているというものである。はっきり言って、術式を扱う事よりも条件を満たす事の方が難易度は高い。
術式自体は子供だましのような簡単なものであるが、条件さえ満たせばある種最強の術と変わる。そんな召喚解除の術であった。
「あんた、術式を展開し始める前にクスエルを無の力で魅了したろ。
あれで何をしようとしているか正確に理解したんだ」
シェリルは余裕の笑みを浮かべて言うアンドレアルフスの頬を左手で撫でた。タイミングよくアンドロマリウスの歯が当たる。
彼女は無言でアンドロマリウスを睨むが、彼は無言で傷口を丁寧に舐めている。
この召喚解除で条件の方が重要であるのには、大きな理由があった。元々、召喚解除になる場合とは召喚した理由がなくなった場合や契約が終了した場合等がある。
だが例外として、その履行、不履行に関わらず召喚術士が召喚者を強く拒絶する事でも召喚解除が可能だったりする。
これが可能なのは、世界に何よりも愛されている召喚術士のアドバンテージであると言えるだろう。
つまり、召喚解除の術式は、召喚していない相手を弾きたい時、その能力の補助をするという意味合いが強いのだ。
強制的な召喚解除を行えるのは、召喚術士のいる世界より拒絶されたと錯覚を起こす為、とも一心同体となっている召喚者から拒絶される事による大きな衝撃がこの世界からの剥離を引き起こす為とも言われている。
シェリルは正確な事を知っているわけではないが、何としてもこれ以上関わり合いたくないという願いを叶えるのは、これ意外にはないと直感が働いたのだった。
「手は治った。
こちらを向け。そっちも治してやる」
「うん」
アンドロマリウスの合図でアンドレアルフスに背を向ける。彼はシェリルの背中にもたれかかった。
アンドレアルフスの甘え方をおかしく思い、シェリルは笑い出す。笑い声と一緒に上下する胸元をアンドロマリウスが舐め上げる。
やりにくいだろうに何も言わずに治癒を行使するアンドロマリウスの頭に両手を伸ばした。
わしゃわしゃと乱雑に遊ばれたアンドロマリウスの髪は、これから鳥の巣になるのだと言われてしまえば信じてしまいそうなほどに乱れている。
「ふふ、マリウスってば、埃でも被ったみたい。
綺麗な漆黒が勿体ない事になってごめんね」
もちろん髪の乱れを言っているのではない。天の力による圧からシェリルを楽にさせる為、アンドロマリウスが己の中の天の力を共鳴させたのだ。
そのせいで、漆黒の髪や羽は色が抜けてきてしまっていたのだ。
薄墨のような色になった己の毛先を見て彼は目元を緩める。
「大した事ではない。気にするな」
そう言ってシェリルの胸元でアンドロマリウスは小さく笑ったのだった。