初めての大喧嘩
シェリルは酷く動揺していた。混乱といっても過言ではない。思い返せば、アンドロマリウスに罵倒された事は今までなかったのだ。どれほどまでに気を使われていたのか、それで知れるという訳だ。
一人きりになった召還術士の塔は、しんと静まりかえっている。つい数分前に起きた悪魔との大喧嘩の空気も消えている。
完全な一人きり、とはどれほど昔だったろうか。シェリルは回らない頭でぼんやりと考えた。アンドロマリウスに出会う前はロネヴェが一緒にいた。彼とは数百年の付き合いだったか。
そう考えれば千年近く前になるはずだ。
なぜ、これほどまでに大きな喧嘩となったのか、初めは分からなかった。
シェリルはただ、離れていこうとする悪魔を引き留めただけのはずだったのだ。
「しばらくここを離れる」
「え?」
「もちろん俺だけだ。お前はここで普段通りに生活して良い」
突然だった。アンドロマリウスはこれまでべったりとシェリルを守るようにして生活していたが、それを一時的とはいえやめると言ったのだ。
「どこに行くの?」
シェリルの問いはもっともだ。突然同居人からそう言われて「はいそうですか。いってらっしゃい」とはならないだろう。
だが、そんなシェリルの質問には答える気がないらしい。
「遠い所だ」
曖昧な言葉に、シェリルはきっとアンドロマリウスを見上げて睨みつけた。
「目的は?」
「さぁな」
「さぁなって――っ!」
かなり適当なごまかし方にシェリルは声を荒げた。だが、それでもアンドロマリウスは普段と同じ態度であった。
「シェリル、お前は俺がどこにいようと構わぬだろう。
魔界に還るわけでもないし、ここに戻らないとも言っていない」
どうして気にするのか分からないといった風に溜息を吐かれ、シェリルの眉間にしわが寄った。シェリルの相手をしているのも面倒そうな態度もしゃくに障る。
「距離の制約してないのが徒になったかしら。
私から離れるならそれなりの事情があるんでしょうね?」
「別に俺はしたい事をしているだけで、本来お前の従者ではない。
お前に封じられたから一緒にいるだけだ。
お前だって、元々俺が居座っている事をよく思っていないだろう」
封じられた直後、下僕だと思っておけばいいとか言っていなかっただろうか。いや、基本的にとも言っていたはずだ。悪魔と契約して人間の枠からはずれたシェリルは、数百年以上昔の事もしっかり記憶に残っている。
基本的に下僕とはなんだ。これから下僕じゃないとでも言うのか。意味が分からない。
下僕だとは思っていなかったが、シェリルは言質を使う事にした。
「あなたは私の下僕じゃないの?」
「言葉の綾だ。そんな事も分からぬのか。
ロネヴェもこんな女のどこが良かったのやら」
ロネヴェの名を出され、シェリルは困惑から怒りへと気が変わる。
「……ロネヴェを殺したくせに」
「俺は責任をとっただけだ。
お前がもっとよく立ち回るだけで、あいつは死なずに済んだはずだ」
つい、口から出た恨み節に淡々とアンドロマリウスは答える。室温が少しばかり下がった気がした。シェリルは思い返せば、先ほどの一言がきっかけだったのだと気が付いた。
だが、既に言ってしまい、彼も去っていった今、言い直す機会はない。
「私はロネヴェと二人で、ここで静かに暮らしていただけなのよ!」
「そのささやかな願いを叶える為にロネヴェのした事は、同胞殺しだ。
許される罪ではない」
アンドロマリウスの眼光がシェリルの心の奥底にある後悔を見つけだしたかのようだった。
「お前は自分の望みを叶えようとしたが為に、結果として望んだ未来を失った。
お前がロネヴェに多くを望まず、人間として生きる道を選んでいたらこうはならなかった。
お前の欲が、ロネヴェを殺したのだ!」