力の属性
色気のない、ただ唇を押しつけ合うだけの口付けはそれほど長い時間ではなかった。アンドレアルフスの身体が空に溶け、この世界から消え去るまでの短い時間である。
シェリルは最後の一瞬、目を見開いた。
アンドレアルフスは一旦シェリルから唇を離し、改めてついばむようにして彼女の唇をはんだのだ。名残惜しそうにゆっくりと顔を離し、穏やかに微笑むとアンドレアルフスは今度こそ消えた。
シェリルは長く息を吐いた。それはアンドレアルフスを何とか魔界へ戻せたからか、突然彼にからかわれるようにして唇を奪われたからか。長く息を吐く事で落ち着きを取り戻した彼女は振り返った。
シェリルの瞳に黒髪の悪魔が映り込む。
腕が伸びた。シェリルはアンドロマリウスに引っ張られて肘をついた。彼女の目の前には喉仏が見え、鼻に彼の顎が押しつけられた。
何度かアンドロマリウスに口をついばまれ、最後に唇をぺろりと舐められたシェリルは何が起きたのか分からなかった。
「……」
「……」
逆さになったアンドロマリウスが見えたが、そこに表情はなく、普段と変わらぬ様子だった。
まばたきを繰り返せば、彼は思い出したかのように言う。
「魔力を消耗しすぎていた。
そのままではリリアンヌの対応はまだしも転移の術式は使えない」
「あ、そう……」
床に伸びる髪を見ると、確かに彼から力を渡されていたらしく黒髪になっていた。力がなじむか消耗されればこの色は元に戻る。シェリルはそんな事をぼんやり考えながら体勢を戻した。
立つのも面倒になり、四肢を使ってリリアンヌの側に寄る。
彼女の口元に手を当てれば、微かに息が当たった。一応死んではいない。足首の飾りもまだ美しい姿を保っている。
自らの術がきちんとリリアンヌの命を繋ぎ止めている事を確認して小さく息を吐いた。
「さて」
呟いて意気込むと、シェリルは飾りに手を当てた。空いている方の手を彼女の額に添える。
額に添えた手に、ぴりぴりとした嫌な感触が伝わりシェリルは顔をしかめた。
「禍々しいわね。
天使の所業とは思えないくらい……」
足首の飾りがじんわりと熱をもち始め、シェリルの作った術式が悲鳴を上げて始めているのが分かる。
押さえ込む分には問題なかったようだが、それを全て肩代わりさせるのには、この様子では難しいかもしれない。
「……シェリル、やめろ」
「え?」
「――天界の力と魔界の力が喧嘩している」
シェリルはそれを聞いた瞬間、手を離した。アンドロマリウスはシェリルの反対側に膝を突いてリリアンヌの足飾りに触れた。
「無理矢理やろうとするな。
お前の魔界寄りの力で引こうとするから反発する。
こういう場合、お前がやるなら術式を天界のものに近づける必要がある」
シェリルはアンドロマリウスが術式を書き換えるのだと思い、それを見ようと身体を傾ける。
「今回は俺が天界の力で引っ張る。
術式は変えなくても良い」
「そう」
リリアンヌの足首を見ていたシェリルは体勢を戻す。シェリルがアンドロマリウスを見れば、彼は先ほどのシェリルと同じようにリリアンヌの額に手を添えていた。
「堕天使の俺は天の加護こそ失われたが、呼び水程度に天界の力を行使する事はできる。
他の悪魔全てが同じような事ができるとは限らない。
――間違っても、他の奴には頼むなよ」
「わかったわ」
アンドロマリウスは目を閉じて集中し始めた。声こそ出さなかったが、シェリルは目を見張る。彼の漆黒の髪、その翼の色が変化し始めたのだ。
漆黒だった髪は明るくなり黒鳶のように見える。翼の方は色ぬけしたかのように暗い灰色である。
シェリルは、もしかしたら瞳の色も変わっているのではないかと好奇心が沸いてくるのを隠してじっと見守った。少しするとまた髪も翼も色が濃くなり漆黒へと染まっていく。
普段と変わらぬ姿に戻る頃、アンドロマリウスの瞳が開かれた。