形勢逆転
シェリルは悩み始めていた。ただ無言で彼を見ているのも疲れる。だからと言って仲良くする気もない。
そもそも聞きたい事は聞き終えた。
きっかけはくだらない事で、クリサントスの気まぐれに巻き込まれただけだった。
最後の作戦は真っ只中で、シェリルは気が抜けない状態だというのも理解した。
だが、どうやってこの状態を切り抜けてシェリルよりも優位に立つ事ができるのだろうか。
シェリルによって身動きが取れない状態になっているクリサントスは、どう考えても一人でこの状況を改善できるとは思えない。
「ねえ、どうやって私よりも優位に立つつもりなの?」
正直に聞いてみる。時間稼ぎをする気はあるが、会話だけで何かが起きる事はないだろう。
「実演してほしいのか?
俺がお前をものにするまでの時間稼ぎがしたいと思っていたのだが、違うのか?」
にやりと、獰猛な笑みを浮かべたクリサントスは皇族というよりも盗賊のようだった。瞬間、シェリルの背筋にひやりとしたものが通る。聞かない方が身のためだったのかもしれない。
しかし既に相手に聞こえてしまい、また返事までもらっている。シェリルとしては引き下がるわけにはいかなかった。
「そこまで自信がある素振りを見せれば、誰だって知りたくなると思うわ」
大して興味はないが、暇つぶしの一つだとでも言うように、ぞんざいな態度で言った。ついでに組んでいた足も組み替える。
クリサントスの視線が足の動きに合わせてゆっくりと移動した。
シェリルは得体の知れぬ気持ち悪さに顔が引きつりそうになるのをぐっとこらえる。
その代りに「やれるものならやってみなさいよ」とでも言うかのように顎を上げて微笑んだ。下に寝転がっているクリサントスから見れば、さぞかし憎たらしい顔になっている事だろう。
「私もこのまま寝転がっているつもりはないし、その時間が多少短くなろうと構わない。
驚いた顔を見せろよ」
クリサントスはそう言うとすぐさま行動に移した。とはいえ、派手な動きではない。
彼はぷっと赤い唾を飛ばしただけである。
クリサントスは口内の柔らかな部分を歯で噛み、傷を作ったのだろう。しっかりと傷つけたせいか、唇が血に濡れて赤く色づいていた。
「それだけ?」
「そうだ。でも、これで十分なのだ」
クリサントスのした事に対する答えはすぐに表れた。まず、彼の拘束が解けたのである。シェリルは咄嗟に立ち上がり、指輪を翳した。
対象を昏倒させるはずの指輪は、効果を見せることなく空気中へ解けていった。顔をしかめた彼女を見ながら、クリサントスが立ち上がる。
シェリルは今、何が起きていたのかをしっかり把握していた。
「――……結構手間のかかった事してくれるじゃない」
「仕組みの説明は不要のようだな」
シェリルは近接格闘の構えを取った。シェリルの術式は、もう展開しない。それを悟っての事である。
クリサントスを害する事のないよう、この部屋自体に術式を組み込んでいたのだ。彼の血液に反応し、術式が展開する仕組みになっているらしい。
どの程度の守りの力が働くかは分からないが、少なくともシェリルの作ったクリサントスへと仕掛ける用途の術式は使えない。
空に溶けていった指輪が証拠である。
まず、拘束が解けたという事は、彼を行動不能にしようとする動きに対して大きく作用する術式である事が分かる。
更に、術式を発動させようと展開した途端に消えた。これはクリサントス以外が術式も発動できなくなるように厳しい条件を課した結界と言える。
おそらく、シェリルが空に術式を描いたとしても発動までいかないだろう。可能性があるとすれば悪魔が使用できる術式を省略した即時発動型のものだ。
だが、それはこの部屋に仕込まれた術式が“術式の展開のみを解除する”ものである場合に限定される。
もし、これが“術式の展開から発動に至るすべての行程を解除する”といった高等なものであれば、話が変わる。この場合は、アンドレアルフスの“近くにいるだけで人間は恐怖を感じて死にたくなる”といったような、素養的能力だけが有効となる。
どちらにしろ、人間相手としてならば、屋内においてほぼ完璧な保護の術式である事は確かだった。
これからシェリルは、消極的防御でクリサントスに挑まなければならないのだ。