血の繋がりはチェイサーにも似て
「伊達君、ちょっといいかい?」
人気の少ないオフィスにて一人黙々とパソコンに向かっていた眼鏡の青年に、小柄な壮年の男が声をかけた。慣れ親しんできた体型に似合わぬその大声に、青年はキーボードから手を離す。
「はい? どうしました?」
振り返った青年に対し男は少し興奮気味に、持っていた数枚の紙を差し出した。
「君がB/Cの観点から怪しんでいた部分なんだが、どうやら途方も無く怪しいみたいだぞ」
「……これは」
受け取った彼は見覚えのある資料に目を通す。数日前に自分が作成したその資料は、鉛筆にて記されている数字の上から修正値や計算式、そこから導き出される疑問点などが読みづらいほどに走り書きされている。
走り書きを加えたのは筆跡からいってこの男、目の前の上司であることは聞かなくてもわかることだった。
「わかるか? これがここの水没と――」
とある高名な政治家の絡むダムの資料。国に要請されようと最後まで社外秘なそれを前に、二人はお互いの見解を確かめ合う。
「やはり、探ってみる必要がありますね…… 明日から詳しく調べてみます」
「明日から? 君にしては珍しいな」
出来る仕事は準備から何から即実行。そんな優秀な彼の今の物言いに、上司が怪訝な顔を返した。
「すみません、今日は急用なんです」
彼は鞄を持って立ち上がった。
時刻は五時半過ぎ。この会社にとってあるのかないのかわからない、定時を少し過ぎた時間だった。
~~
仕事場のあるオフィス街から電車に乗ること一駅。週末になると老若男女問わずでごった返す繁華街に彼は降り、歩き慣れたその街の盛り場を通って路地裏へと入る。
ピンクのネオンや看板が立ち並ぶ、通りの雑居ビルの三階にその場所はあった。
「いらっしゃい」
店のドアを開けると、相も変わらず愛想の無い、目つきの鋭いマスターが声をかけてきた。そして相も変わらず暗い店内には、いつものように閑古鳥が鳴いている。
「『奥』を借りたいんだけど、今かまわないかな?」
「……どうぞ」
『BARネクタル』。雑居ビルにかかる青い看板だけが目印のそのバーは知る人ぞ知る名店だった。
酒の種類が無駄に豊富でもなければ、格別にうまい肴や目を惹かれる調度品があるわけでもない。
ただ、この店は「秘匿性」。それのみにおいて特化された名店であり、彼はこの場所を大人物や社内の人間との外での会合の場として利用していた。
そして今日は、彼にとってのみの最大の『偉人』を迎える日だった。
「おかえり、兄ちゃん」
「おう、久しぶり…… で、いいんだよな?」
彼に遅れること数分、『偉人』にして『兄』であるその人物はそこにやってきた。
「ああ、合ってるよ」
店の一番奥の衝立の二人席、スーツ姿の彼とは不釣り合いな、黒いジャンパーの男が対面して座った。
「ちゃんと電話くれたね、助かるよ」
「ああ、まぁ…… 帰ったら連絡してくれってメールに書いてたからな……」
「今日はクモちゃんは?」
「あいつなら家に置いてきた、今は掃除させてる」
黒いジャンパーの一見して冴えない男は「伊達 良一」、眼鏡のよく似合う長身でスーツ姿の彼、「伊達 恭次」にとっては二つ離れた、それでいて『一つ年下の兄』だった。
「それで恭次、今日はどうした? ネタでも切れたか?」
「実はね、就職したんだ」
「え?」
そこまで話して、彼らの間にマスターが現れた。
恭次が「ベルギービール」、良一が「フィディック、ロック」と短く伝えると、彼は一礼を見せて下がっていく。
「就職? そりゃまぁ結構なことだが…… 急にどうした? お前結構ライターの仕事気に入ってたはずだろ?」
恭次はスーツの内ポケットに手を入れ、一枚の写真を取り出した。
テーブルの上に置かれたそれには恭次と、小さな赤ん坊を抱いた女性の姿が並んでいる。
「おまえ!? これ……!」
「僕も父親になったってことさ」
目の前の兄はその写真を手にとって、信じられないものでも目にしているかのようにまじまじと眺めていた。
恭次はなんとなく誇らしい気持ちでありながらも、この兄は「また異世界なのか」などと疑っているのではないかと思い、少し面白かった。
「そんなわけでね、今は知り合いのつてでシンクタンクで働いてる」
「シンク…… なんだ?」
「シンクタンク、研究機関ってやつだよ。国に求められた内容を調査したり、データを揃えてやったりする仕事。まぁうちはそれだけじゃないけどね」
「ほ、ほう…… さすが恭次だな、また兄ちゃんにはわからん仕事を……」
「まぁ稼ぎは低くなっちゃったけどね、仲間がいる分、フリーライターよりは安全なんだ」
安全、その言葉に兄は言うべき言葉に詰まった。
良一はこれまでの恭次の仕事を心配していた。弟の仕事はいつ聞いても、こんなバーでなければ語ろうとはしないだろう、危険と隣り合わせなものばかりに思えていた。
何度そんなものはやめろと言ったかはわからない、だが、弟は何がしかの信念があるらしく、決してその道を引こうとはしなかった。
それがこんなに簡単に、彼の思う良い方向へと変わるとは思いもしない。
「ごめんね兄ちゃん。なんか驚かせたかったっていうか、気恥ずかしかったっていうか…… 報告が事後になっちゃって」
「ああ、いい、いい。そっか…… なんつっていいか…… とりあえず、おめでとう、かな?」
兄として、感無量だった。
見覚えのある程度、写真に写るそんな女性に対して、弟を自然とまともに安全な道へと導いてくれた彼女に対して、良一は感謝した。
兄の元へとマスターが酒を置き、弟の方へも置いて去っていった。
「おめでとうって言われても、引き合わせてくれた兄ちゃんのおかげだよ。ありがとう」
弟の言葉を聞きながら良一は酒を煽った。氷の溶けたシングルモルトの甘い香りが喉を熱く通っていった。
「月日の経つのは…… 俺が言っていいのかわからねぇけど早いな、あいつは元気か?」
「ああ、元気だよ。兄ちゃんに会いたがってた」
「俺に?」
恭次はビールを煽って、一息ついた後で言う。
「どっかで死んでるんじゃないかってさ、やっぱり気になるらしいよ?」
「……はいはい、いっそ死んだことにしといてくれていいよ。こっちでもあっちでもいつ野垂れ死んでもおかしくないからな」
「それは困る、悲しまれるだろ? うちのはもちろん、口ではなんのかんの言っても姉さんだって……」
姉という単語に対して、兄は無言で首を降った。
兄弟だけに、それで充分だった。恭次はこれ以上この話題を続けることを止めた。
「ああ、そうそう、兄ちゃん、お金のことだけど」
「ん? ああ、当面は大丈夫だぞ?」
「いやいや、結構いい稼ぎになってるよ? 口座見てびっくりしないようにね」
「はぁ?」
恭次は前職となった報道専門のライターであった頃から副業を持っていた。
兄である伊達 良一、彼の『異世界』での話をまとめて本にしていく作業だ。元はただの物書きの練習だと言い張って兄の反対を押し切った、学生時代からの手慰みの作業。それはいつしか恭次の趣味の一つとなり、今では出版社を通じて定期的に製本され、若年層に向けて発信されていた。
彼はその稼ぎの全てを、現実的な稼ぎを僅かにしかもたない兄の口座に放り込んでいる。
それは彼が何度兄からやめろと言われても止めない、譲らないものの一つでもあった。
「ライトノベルブームっていうのかな…… 人気作品が次々アニメになってるんだ。それに便乗して兄ちゃんの自叙伝も結構売れてるってさ、出版社から」
「ア、アニメ……!?」
「ん? まだオファーはないけど、どうする? いずれ来るかもしれないよ?」
「……元は俺の体験談だが、読んでる物好きを引っ張ってるのはお前の脚色と文才だ。書くだけで大変だろうに俺名義の印税にしてくれてるんだ、お前の好きにしてくれていい」
「アニメ化された兄ちゃんが僕の家のテレビで動き回るのか…… あいつは喜びそうだなぁ……」
良一は黙って酒を煽った。
その様子に、恭次はくすりと笑って眼前で手を振りながら話した。
「冗談、あったとしても断るよ。僕も今の仕事で結構忙しいんだ。それにそういう契約はゴーストライターの僕には無理だ。僕の顔も有名になってきちゃったしね。ほんとは僕が書いてるなんてバレたら国税庁に睨まれそうだよ」
「所得隠し、か?」
「そういうこと、あそこの人達厳しいからね…… 特に僕みたいに都合の悪いことを嗅ぎ回ってるやつには。最強だからね、あそこは」
「……苦労かけるな」
「政治だ経済だの泥臭い世界にいるんだ。気分転換にはいいよ」
「すまん……」
兄弟は同じタイミングで飲み物を煽った。
マスターが現れ、乾き物を置いていき、良一は金色の襟のついた箱を取り出して一本引き抜いた。
「ええと、はい、これ」
「おお、悪いな」
会話が止まった頃合いを見計らい、恭次は鞄から書類の束を出して兄に渡した。
「……ふ~ん、結構安定して続いてるんだな、今は」
「そうだね、近年希に見るって感じ? しばらく首相の交代はないかな?」
「ほほう…… おっ、なんだこれ、携帯機で出るのか?」
「ああ、結構最近は携帯機だね。兄ちゃんにはいいんじゃない?」
「いやいや、RPGってのはやっぱ家でどっしりやらないとな」
「んなこと言って、家なんてほとんどいれないじゃない」
恭次が定期的に彼に渡してやっている書類の束、それは近年のニュースを簡単にまとめた彼のスクラップブックのようなものだった。それは彼が仕事上情報として集めているものでありながら、時折兄が好きそうな話題をも挟んでいる。良一にとっては『現実世界』を知るための貴重な情報源となっていた。
「よし、ありがとう、こいつは帰ってからまた読ませてもらうよ」
「今回のキモは芸能面だね。結構な有名人の話が多いから興味なくても抑えておいた方がいいよ」
「おう、健全な社会生活を送ってみせるさ。仕事場で「えー? 知らないのー?」とか言われるとちょっと傷つくからな」
「いつも大変だね……」
彼らはマスターを呼び、二杯目を頼んだ。恭次はソルティードッグ、兄は一杯目と同じものだった。
「そういや、お前…… ガキが出来たって言ってたが、母さん達にはどう言ってるんだ?」
「ん? ああ、そりゃあね、普通に言ってるよ」
「でも…… お前…… 相手が普通じゃ……」
「まぁ、コネっていうか蛇の道はって言うか、結婚の時と同様うまくやったつもりだよ」
「おいおい……」
それがいかなる手段なのか、詳細までは良一には予想もつかない。だが、普通ではない手段だったのだろう。相手が相手だけに。
「幸いにして我が子は僕似ですから、クリアするのは簡単だったかな?」
「そりゃほんとに幸いだが…… また黒い所に借り作っちまったんじゃないか?」
「そこは痛いね…… でも、我が家庭のためです。多少の危険があろうとも、我が子を立派な日本国民として育てあげてみせますとも」
「父だなぁ……」
「父ですとも」
詳細まではわからずとも、兄として恭次という人間は理解しているし、途方もない男だとも理解していた。
恭次は兄のような『ライトノベルみたい』な力は持たない。だがそれでも、一般には不可能と思われるような法律を逸脱した行為すら可能にしてきた。兄の力を借りることなく、自分の持つ知恵と心のみで。
兄はいつも思う。本当に頼ってきた時は、自らの持つ超常の力をいつでも差し出してやろうと。だが、彼の知る優秀が過ぎる弟にはそんなものは一切必要ないのかもしれない。
それが頼もしく、兄としては歯がゆかった。
「さて、じゃあ俺は帰るわ」
二杯目をくいと煽って空にし、兄はそう言った。
「あれ? もう?」
「兄ちゃんは立派な姉や弟と違ってただの日雇い肉体労働者なんです、明日からまた得意先回りしないと」
「さっきも言ったけど、今回の印税はほんとに大きいよ? 別にそんなことしなくても……」
「それはそれ、これはこれ、現実に触れないと落ち着かない年頃なんです」
「ははっ、なるほど……」
「じゃ、冒険譚の方は今夜にでもメールで送るよ。つまんなかったらお前の方で脚色してくれ」
「はいはい、また徹夜の日々が始まるんですね」
「ははっ、無理すんなよ。じゃ、生きてたらまた」
言い残して、良一は店を出て行った。
残っていた乾き物とソルティードッグを口に放り込み、恭次は鞄を手に取る。
「さて、僕も帰るか……」
バーの外、繁華街を恭次は一人歩く。
街には派手なイルミネーションがかかり、ちらちらと雪の舞う通りには多くの若い男女が群れをなしている。
暦は神の子の降誕の日。
夫として父として、ケーキの一つも持つべきかと思う手に、今は携帯を持つ。
『はい、伊達です』
「ああ、僕だよ。今兄ちゃんに会った」
「ああ、ああ、元気元気、そりゃあ兄ちゃんだもん、簡単に死んだら読者が暴動起こすよ」
「うん、今日はもう帰る。ちょっと飲みたりないかな…… お酒用意しといてくれる?」
「うん、それじゃあ」
――『じゃ、生きてたらまた』
――兄ちゃんは、また、帰ってくるのだろうか?
この世界は、兄ちゃんには優しくない。
だが、あちらの世界も決して。異分子には優しくないのだと思う。
待つ者の想いは複雑だ。
人と違う道を歩む人、その道はスリルと地獄。
多くの書き物は時に過激に、残酷にそれを記す。
大人の僕には、そんな書き物を否定出来るような純粋さは最早無い。
だが、当の本人にとっては、兄ちゃんにとっては、シンプルなことなのかもしれない。
全てはただの仕事――
呑気に、真剣に、兄ちゃんはこなしていくのだろう。
僕達「大人」がこなす、それと等しい、社会的な役割を。
恭次は街頭に、家族のためにケーキを求めて歩み始めた。
今回は幕間として、少しばかり伊達家の人々に触れてみました。
いつか、良一の家族関係についても明らかにできる機会があれば……
そう思っています。




