41.恩師
海水でびしょ濡れになった充孝はぜいぜいと息を吐きながら道路に座り込んでいた。
「あー、死ぬかと思った」
「だ、大丈夫?」
心配そうに差し出された真唯のハンカチを受け取り、充孝が心許ないそれで顔や髪を拭っていく。
「はー、なんで生きてんだろ俺、いやほんとに…… 充孝の友達やっててほんとによかったぜ……」
落ち着かない様子でトラックを見ながら、栄作が誰に言うでもなしに呟いていた。
「本当に、どこも怪我は無いのか梢?」
「え、ええ…… 海に落ちるまで気を失ってしまったのでよく憶えてないですが、どこも打った感じは……」
一息吐いて、伊達の肩が少し下がる。彼は今更ながらに、この騒ぎが終わったことを実感した。
「大将! たいっしょー!」
「おう、お前姿丸見えだぞ」
「んなことはどうでもいいっスよー! あははー!」
がばっと、クモは伊達の顔面に張り付いた。伊達の首がコキッと鳴った。
「ぶはっ! 殺す気かてめぇ!」
引き剥がし、首根っこを掴んで文句を言う。
「ははは…… すまんっス。それより大将、フタッキー置き去りっス。お礼言っといてって言われたっス」
クモの言葉に、伊達の表情がにわかに真面目な色を帯びる。
「ああ、わかっている…… クモ、すまんがトラックを直してくれ」
「あ…… あい!」
ひょろろろんっと謎な効果音を発しながら、クモが衝撃波によって凹まされたトラックの荷台へと飛んでいった。
「直す? トラック直せるんすか?」
「ああ、早いぞ」
不思議そうに妖精が張り付いた荷台を見つめる栄作。ほどなく、クモが振り返った。
「たいしょー! なおりましたー!」
「早っ!?」
「な?」
ほんとに一瞬だった。
「でも大将、中の荷物は難しいっス、さすがに中身を確認しないと…… 電子部品なんかもありますし……」
「そこまではいい、よくやった」
そう言って伊達はトラックに近寄ると、運転席を覗きこんだ。若い運転手は気を失っていた。
「あんたも…… 災難だったな」
開いていた窓から腕を伸ばし、運転手の頭に手をかざす。彼の手が紫色に発光した。
「ふぅ…… おい、すまんが起きろ!」
「ん…… あ、あれ?」
怒鳴り声を受け、運転手が目を開けた。運転手は二、三首を目をしばたかせ、窓から覗き込んでくる伊達に気づいて呆然とその顔を見つめ返した。
「兄ちゃん、こんなとこで居眠りしちゃダメじゃないか。警察来ちゃうよ?」
「え? え? あ、す、すいません!」
「気をつけてな、お仕事がんばってね」
「は、はい……」
手を振って車体に背を向ける伊達。運転手は首を捻りながらトラックを発進させた。ディーゼルの音高く、前後に切り返し、カーブを下り、商店街の方へと消えていく。
「ちょ、ちょっと伊達さん! 逃がしちゃうんすか!?」
危険運転で殺されかけた側とすれば当然に、栄作が怒鳴った。
「うん? まぁ、かわいそうだしなぁ。車が必要な仕事で免許取り消しされたら一発で無職だろうし……」
「でも……!」
「いいんだ、栄作」
いつの間にか立ち上がっていた充孝が栄作をいさめた。
「オレ達は無事だ。それならいいだろ?」
「お前マジで言ってんのか……? お前が殺されかけたん――」
「木林くん抑えて、わたし達って梢くんの『超能力で』助かったんだよ?」
言われて栄作が「あっ」と呟いた。
「おー、確かにあぶねー、一歩間違えりゃ俺達が逮捕じゃねぇか……」
「な? 騒ぎにならない方がいいだろ?」
「で、ですね…… くそぅ……」
栄作はまだ納得いっていないようだったが、しぶしぶと黙った。
「あっ、その服……」
充孝が伊達を指差した。
「ん? 服……?」
今日は学校には行っていない伊達は、作業服ではなく黒いジャンパーを羽織っていた。
「あの時の人って…… ひょっとして伊達さんだったんですか……?」
「あの時……?」
唐突な話題に不思議そうに真唯が尋ねる。
「一週間前に商店街で、オレが念動使った人……」
「えっ?」
確認をとるように、真唯の顔が伊達を向いた。
「バッカか充孝、伊達さんがお前に助けられるような人かよ! 伊達さんだったらバイクなんて体に触れる前に焼き尽くしちまうだろ!」
「ん、それもそうか……」
「いやいや梢くん、それバイク乗ってる人死んじゃうから……」
「ん? そうだ、死んじゃうじゃないか栄作、伊達さんはそんなことしないぞ」
「おま…… そりゃねぇだろ、相変わらずお前は自分で考えないというか――」
栄作の軽口を皮切りに、彼らのいつものやりとりが始まる。つい先ほどまで死中にいたはずの三人は、海に落ちてずぶ濡れの主人公を中心に楽しそうにしていた。
今からも、この先も続いていく彼らの日々。
羨ましくもあり、守れた今日が嬉しくて、伊達はつい微笑んでいた。
「あれ? 何笑ってるんすか伊達さん」
「あ、それで結局どうなんです? 一週間前商店街いました?」
「オレは絶対伊達さんだったと思うんだけど……」
問いかけてくる弟子達を見回して、一息、仕方ないなとため息を吐く。
「ほら、いつまでもこんな場所にいるな、もう一回轢かれるぞ。梢もズブ濡れなんだ、出直すにしろ一回帰れ」
「あっと! ほんとだヤベっ!」
「迷惑になっちゃうよね。梢くんも、風邪ひくよ」
「ああ」
行った行ったとばかりに手を叩きだす伊達。三人は急かされるように道を戻り、点滅中だった交差点の青信号、地面に走った白い縞の上を走り抜けた。
「はーっ! キツ!」
「ちょっと、別に渡らなくても……」
「栄作、勘弁してくれよ……」
点滅を見て走り出した栄作を見て、ついつい走ってしまった充孝達。栄作は清々しそうだが、他の二人は非難の声を上げていた。
「だらしねぇなぁ二人とも、ほら、とっとと帰るぞ。出直しだ」
「出直し……? 栄作、お前マジか?」
「わ、わたしは…… いいけど」
充孝は嫌そうだが、真唯は乗り気だった。栄作は二対一なら充孝の意見は無視出来ると、勝手に話を進めることにした。
「ってわけで、俺達これから神社に行くんすけどよかったら伊達さんも――」
栄作が後ろを振り返ると、そこに伊達の姿は無かった。
「あ、伊達さん……」
充孝が見た先、赤信号の向こうに彼は立っていた。
「なんだよあの人…… ついて来てないじゃん……」
「そりゃ大人だもん、わたし達みたいに街中じゃ走らないよ」
「あの人なら走りそうだけどな」
肩に乗せた妖精とともに笑顔で、三人を見ながら手を振っている伊達。
何かの予感に弾かれるままに、充孝は思わず横断歩道ぎりぎりまで踏み出していた。
「伊達さん!」
「充孝?」
「……?」
唐突に、血相を変えて叫んだ充孝を不思議そうに二人が見た。
だがその二人もすぐに、同じ予感に襲われる。
――伊達の後ろに、光の扉が現れていた。
「えっ、あれって…… なんだ?」
「まさか……」
伊達が、大声を張り上げた。
「じゃあな! 三人とも! 楽しかったぜ!」
彼らのその予感は、見事に的中した。
「伊達さん! どういうことっすか!」
「伊達さん!」
三人に向かって腕を突き出し、伊達が親指を立てた。
「ちょっと伊達さん! 悪い冗談っすよね!?」
「嘘……」
別れ―― 彼らは感覚としてわかった。
伊達の後ろに光る扉。その扉の先は彼のためにあるものだと。その先は彼らには踏み込めず、その先に行った彼に会うことは二度と無いのだと。
――この世にいるのは超能力者。妖精や魔法使いなどいないのだから。
栄作が感情的になり、真唯は涙目になっていた。
そんな中、充孝は――
「ありがとう、ございました」
一歩下がって姿勢を整え、直立し、深く一礼した。
どうしてそうしたのかは彼にもわからない。
ただ、今はそうするべき、しなければならないと彼は思った。
『ありがとうございました』
彼の両脇に立ち、二人もそれに習った。
彼らにしてもどうしてそうしたのかはわからなかった。
ただ、今はそうするべきだと思った。
自分達が大切に想う人の、部活の恩師の門出だったから。
暴風とエンジンの音を撒き散らして大きなトラックが横切り、彼らの前を過ぎていった。
頭を上げたその先に彼の姿は無く、光る扉が一枚佇んでいた。
信号が変わり、青になり、やがて扉も光の柱を上げて消えていった。
三人はその後も長く、動き出せないままそこに立っていた。




