36.常夜の灯に溶けたもの
廊下の真ん中に倒れている未沙都を、抱き合うような距離で充孝と真唯は見ていた。
いきなり始まった非日常に呆然とする真唯に対し、充孝は事態を飲み込み始め、背中に強烈な悪寒が走っていた。
「由良木さ…… ぐっ……!」
「梢くん!?」
怒りと窮地に忘れていた強烈な痛みに、充孝はうずくまった。
「由良木さん……!」
未沙都は起き上がる気配を見せなかった。
見た目に大怪我をしている様子は無い。しかし、彼女の衝撃波を上回る衝撃波を放った充孝には、恐ろしい予感を否定出来なかった。
「ほさ……」
真唯に確認を頼もうと思って、言えなかった。
恐ろしい予感が、事実だったとしたら――
彼女にそんなことを確認させてしまうことになる。
「ぐっ……!」
充孝は自らの目で確認しようと歩み始める。
「……!?」
そして、強い力で肩を掴まれた。
「大丈夫だ、別に死んじゃいねぇよ」
「伊達…… さん……」
唐突に後ろから現れた伊達は、ひょこひょこと未沙都の傍にしゃがみこんだ。
「ふむ…… だが結構重症だな……」
「重症……!」
「落ち着け、魔力の方だ。こいつアホだからな、事情はわからんが見境なく衝撃波を撃ちまくったんだろ?」
伊達の緩い笑顔に、充孝はようやくと嵐が過ぎたことを理解した。
~~
それは去年の秋の出来事だった。
未沙都は人を探して放課後の校舎内を歩き回っていた。
前日の生徒会、未沙都が良く知る同学年の女生徒が無断で欠席していた。別段、無断で欠席などは未沙都だってたまにやることだ。会長としては問題があるのかもしれないが、そんなことを咎めるつもりなど毛頭無い。
ただ、その女生徒は才色兼備にして家柄も良い真面目な生徒であり、どう考えてもそのような行動をする人物ではなかったために、彼女にとってその理由は気がかりなものだった。
大雑把にしていい加減、アホの子だというのがそろそろと知れ渡っている彼女だが、人の機微には敏感なところがあり、周りの者に対しては意外なまでにも面倒見が良いことも多くの生徒が知っていた。
本人は否定するが、否定するその部分こそが彼女の人気の秘密でもあった。
「こちらにいらしたのですね」
「会長……」
斜陽差す、一つの教室を開ける。
生徒会に在籍している、眼鏡の女生徒が未沙都を振り返った。
その脇には長い黒髪を揺らす、制服よりも和服が似合いそうな清純を絵に描いたような少女が涙を堪えながら佇んでいた。
「何が、ありましたの……?」
未沙都が決めていた予定の言葉は「今日もお休みされるおつもりですの?」だった。しかし、優しく問い詰めようと用意していたその言葉は、しまわざるを得なかった。
人が秘密裏に泣いているところなどあまり見かけるものではない。正直、未沙都は気が動転してしまっていた。
「会長、彼女を責めないであげて――」
「そんなつもりはありません、ただ、どうしたのです?」
「……実は」
事情を語ろうと、彼女はちらりと泣いている女生徒をうかがう。未沙都だからだろうか、話すことを止めようとする意思は見られなかった。
「告白…… ですって……?」
その言葉はまだ、未沙都の辞書には遠いお話としてしか記載されていない部分だった。
親が激甘で過保護な分そういったことからは遠ざけられていたせいか、未沙都は恋愛関係というものに疎かった。
だが、歳相応に想いはするらしく、興味が無いわけではない。
「そ、それで…… 結果は……」
眼鏡の女生徒は首を振った。予想は出来たが衝撃的な話だった。
未沙都の目からすれば何もかもが完璧、まわりの男達はおろか、自分が男性であったとしても放ってはおけないだろうほどの女子が、こともなげに振られたという。
恋愛とはどれだけ難しいというのか、未沙都は自らの足元がぐらつく錯覚に襲われた。
「き、聞いてよろしいかしら? 相手は…… どなた?」
「それは……」
逆に興味が生まれてしまった。これだけの女性を蹴るというのはどれほど厚顔不遜な男なのだろう。すでに許婚でもいるのだろうか、それとも、相手の家柄や容姿などには目もくれぬ、硬派を地で行く益荒男なのだろうか。
「一年生です、二組の、梢くん……」
梢、という名前に心当たりがあった。珍しい苗字なのもあるが、自らと同じ念動力者だったために、おぼろげに記憶していた。
成長が早い生徒がいる、講師達がそう漏らしていたことは記憶にある。
「梢…… 充孝でしたか、確かにそんな生徒がいましたね……」
「か、会長!」
泣いていた彼女が突然に未沙都のもとへと走りより、未沙都はぎょっと体を強張らせた。
「梢くんは悪くありません! どうか! 手出しはなさらないでください!」
「ほぇっ……!?」
なんのこと? と未沙都はハニワみたいになった。
眼鏡の女生徒が後方で噴き出していた。
――そこから、始まった。
これだけの女子からの告白を断り、その上断った相手にフォローされる。それはいったいどんな男なんだろうと、最初はそれだけの興味で始まった。
後日、彼女は女生徒を泣かせた件から一発かましてやろうと(手出しするなうんぬんは早速忘れた)充孝を探してその容姿に真っ赤になって固まり撃沈し、また後日、なんとか話し掛ける手段をとやっぱり遠巻きに見ながらうかがっているうちに彼の能力の成長におののき、その数ヵ月後、知らず知らずのうちに、文句を言うことを前提としていたものが何か別のものにすり替わってしまっていた。
それを「初恋」と理解することは彼女には難しかった。
だが、彼女はいい意味でも、悪い意味でも「アホ」だった。
「そうですわ! 梢 充孝こそ! 我が宿敵だったのですわっ!」
理事長室でなんの前触れもなく、唐突にそう叫んだ三年の春。
そのとってもいい顔を、副会長の霧島が眩しそうに見ていた。
~~
シャンデリアに備えられた常夜灯の灯りが目に入った。
背中には妙に片側にバランスの悪い、柔らかい感触。
「……?」
目に映る光景が徐々に知っている場所を結んでいく。
未沙都は今自分が、理事長室のソファに寝かされていることに気がついた。
寝心地の悪さに姿勢を変えようと身じろぎして、体を激痛が走る。
「よう、起きたか」
対面のソファに男が座っていた。いじっている携帯の画面が顔を照らしている。
「師匠……」
「きついだろう、起き上がらなくていいぞ。無理なら声も出さなくていい」
伊達の声は普段より低く、優しかった。
横になったまま、寝起きに乾く口の中に舌を転がす。
「んっ……!」
舌の裏側から、何か刺激物のような辛味が感じられた。強いハーブの香りがする。
「どうした? 痛むか?」
「口の中が……」
「……魔力を回復する薬だ。魔力切れを起こしかけていたからな、一滴だけ舌に塗らせてもらった。それでも水で薄めたんだぞ?」
口の中が動いたおかげで吸収が促されたのか、少しだけ体から痛みがひいていったように感じた。どんな薬なのかはわからないが、今は興味は持てなかった。
「師匠…… 梢達は……」
「三時間程前になるか、もう帰った」
「帰った……? でも、梢は……」
帰れるわけがない。あれは多分、肋骨が折れている。
「俺にはヒーリングがある。多少時間はかかったが、体に問題は無いさ」
「そんな…… それでは……!」
意味が無い、そう叫ぼうとして彼女は鋭い痛みに身悶えした。
「おいおい、無理すんな」
「ですが……!」
「放っておくわけにもいかんだろ、肋骨折るって痛いなんてもんじゃないんだぞ? これは君と梢、お互いのためだ」
お互いのため、そう言われて何も言い返せなかった。
傷つけようと思って、傷つけた。だが、終わってみると自分のやったことが恐ろしかった。完全に犯罪であり、逮捕されようとも文句は言えない。
威勢よく昂ぶっていたくせに今更に保身を考えてしまう。そんな自分に未沙都は歯噛みした。
伊達の携帯から短く、古臭い電子音がした。未沙都は伊達の手の動きから、メールの送信なのだろうと、締まりのない頭で思った。
「すまなかったな、未沙都」
「え……?」
携帯を見つめたままの謝罪。未沙都には彼が謝る意味がわからなかった。咎められることなら山ほどある。
「梢から聞いた。君は昨日、俺と二月が部室で話していた内容を聞いていたそうだな。黙っていたことは謝る。気配を察せずに聞かせてしまったことも謝る」
「……師匠は、どうして黙っていたんですの……?」
先ほどとは違う短い電子音がした。返された文面を確認する仕草を挟んで、彼は二つ折りの携帯を閉じた。
「理由は色々だが、君は昨日話を聞いてしまった後、今日に至るまで山と理由を考えたろう? 多分それ全部が正解だ。ただ一つ、除外させてもらうとすれば梢の未来を諦めた、そんなことは断じて無い。それだけは言わせてくれ」
彼が強調した部分、「知っていて見過ごす気なのではないか」、その疑いこそが彼女を動かしたものの一つ。未沙都は己の愚かさを悔やみつつ、どうしても問いたい一点を聞いた。
「師匠は…… 何か考えがお有りですの……?」
彼女の師は、少し口の端を上げた。
「俺を誰だと思っているんだ? 君の、いや…… 『魔法クラブ』の顧問だぞ」
未沙都は目を閉じソファに身を委ねた。知らず、笑顔になっていた。彼の微笑みにはとても力強い、人を安心させる何かがあった。
「申し訳ありませんでした…… 余計なことをしてしまったようですわね……」
「ああ、そればっかりは擁護出来んな。後でクモにお礼言っとけよ」
「クモさん……?」
「そろそろ終わるだろうが――」
ひょろんっと、開いていた窓から金色の光が飛び込んできた。
「たいっしょー! 校舎全て元通り! 仕事完了っスー! って、ああ……! 未沙都ちゃんが寝て…… ってあれ? 起きてる?」
大声で飛び込んで来てころころ表情を変えるクモを、未沙都は逆さまに見上げていた。
「こいつは物を直すのが得意なんだ。大抵の物はあっという間に直してしまえる。この程度の建物の被害くらいわけないさ」
「ふふん! 精巧なマジックウェポンすら直せる私にかかればただのガラス細工や石材の補修など敵ではありませんでしたっ!」
未沙都は呆然と、わけのわからない会話を聞いていた。夢なのだろうか、ひどく都合のいい。
「よかったな未沙都、これで君へのお咎めは寮の門限破りと無断外泊くらいだ。安心してゆっくり休んで、明日の言い訳でも考えるといい」
充孝は治り、校舎は直った。未沙都は知らないうちに、自分の犯罪がなくなってしまったことを知った。
だが、そんなことを喜んでいる場合ではない。喜んでいい立場でもない。
自分がやったことで、変わってしまったこともある。
「師匠、梢は…… 彼には私のせいで明日のことが知られて……!」
「未沙都」
伊達は名前を呼んで、彼女の言葉を遮った。
「君の師匠は、君達が漫画やゲームで見るような化け物でも、化け物みたいなやつでも倒してしまえる。なんでもアリみたいなやつだ。そんなやつに、記憶をいじるくらいのことが出来無いとでも思っているのか?」
そう言って彼は、再び笑顔で未沙都を見つめていた。
「未沙都ちゃん。大将はミッチーとマユマユの記憶を無かったことにしたっスよ。これは未沙都ちゃんのためではないっス。ミッチー達にふらふらと勝手に動かれちゃ守りきれないっスから、知らないところへ行かないように忘れてもらうことにしたっス。容赦してください」
「では……」
全てが元通り、全てが無かったことになった。
後に残ったのは、体の痛みと――
「まぁ、君が勝手した今回のペナルティはそういうことだな。魔力が勿体ないし、俺は君の記憶を消してはやらん。悶々と、今日やってしまったことを一人で抱えて寝てな」
自分だけが憶えている、罪への後悔と、必死だった恋慕の記憶――
言いながら伊達は部屋の隅へと歩いて頼りなく灯っていた常夜灯を切った。光源はおぼろげに光る妖精だけになる。
「随分と…… ひどい仕打ちですのね……」
薄く笑い、目を閉じ、暗闇の中に体を沈めていく。
「ああ、俺はひどい男だからな。じゃあ月曜日、充孝達の無事を喜ぶといい。じゃあな」
穏やかな声に耳を傾けながら、彼女の意識は溶けていった。
そして、最期の日がやってくる――




