8.運び込んでしまった餌
グラウンドを離れ逃げ出していく者、生徒や教師にその場で地に伏せられる者。過激派達の無力化に伴い、喧騒は徐々に収まりを見せつつあった。
いつ誰に危険が及んでもいいようにと、静かに見守っていたシュンのもとへと老人が歩み寄る。
「キノムラ君だったね」
「校長……」
朝礼や行事などでは遠くに見かける、シュンにとって面識の薄い顔。まともに言葉をかわすのは入学したその日以来だった。
「危ないところだった…… お礼を言わせてもらいたい」
「い、いえ…… 友達を助けたかったんで、それだけです。それよりすいません、俺の…… 僕の友達がはっぱをかけたせいで、なんかすごい騒ぎに……」
数の暴力が場の沈静化を急速に促すも、見るにひやひやする現状が続く。
「ははっ…… たしかに危ないが、我々教育者も伊達や酔狂で訓練の科目を行っているわけではない。有事の際に自治を発揮しようという、君の友人を責めるつもりはないよ」
「そう…… ですか……」
はたと、安心と同時、シュンは自らの左手に抱えた本を思い出した。
「あ、あの! すいません! これ……!」
シュンは『ガラの書』を両手に持ち、校長へと差し出す。だが、細い老人の手のひらはそれを押しとどめ、拒否を示した。
「受け取れん。触れてはならぬのだよ、今の君にならわかるだろう?」
「あ……」
「キノムラ君…… 君はこれをどのようにして手に入れた? 今のこのタイミングだ、偶然見つけ出したというわけではないのだろう?」
シュンは、はっと周囲を見渡した。
いない。あの時の用務員は、今のこの場のどこにも見当たらなかった。
「どうした?」
「い、いえ……」
今更ながらに、シュンはあの人物に違和感を感じた。
襲撃のその日に出会い、強引に屋上に連れられ、難を逃れることが出来た。戦うために逃げろと言われ、逃げた先にはこの本があった。
すべて仕組まれた『誘導』だったのではないか。
そんな思いに、背筋が薄ら寒くなる。
「こ、校長…… 用務員さんは……」
「用務員? 用務員がどうかしたかね?」
眉を潜める校長の後ろ、体格のいい体育教師と生活指導員が両脇を抱え、レラオンを立ち上がらせていた。
「クッ…… 離せ……! 無礼者!」
抵抗を見せるレラオン。だが高いレラオンの上背を更に上回る体格の二人組は、わずかに揺れる程度だった。
「大人しくしろクソガキ」
「四年経ってもまだ指導がいるのかお前は」
やれやれといった体で大人二人は魔力を失い、ただの青年と化したレラオンを引きずりにかかる。
「……!?」
その時、シュンは見た。レラオンの不敵な笑みと、彼の足下を――
「離れろ! 危ない!」
鋭く後方から発せられたシュンの声に、教師達が彼を振り返る。
レラオンの足下、靴のかかとから、ナイフ状の鋭利な刃物が飛び出していた。
時すでに遅く、レラオンの左脇を抱えていた生徒指導員のスネへと、深々と刃物が突き刺さる。
「ぐあっ……!」「なっ……!」
鮮血とともに呻き声を上げ、足を押さえて指導員が転がる。
「はっ! 無礼だと言っただろう! クズが!」
レラオンは容赦無くかかとをその背中へと振り落とし、突き刺した上で真横へとかぎ裂いた。
「お前……!」
凄惨な事態にも気を削がれることなく、体育教師が挑みかかる。
「笑止! 小者はすっこんでいろ!」
素早くレラオンがかかとを地に打つと、ナイフは靴の前方へと飛び出す。
レラオンの足が鋭く、孤月を描いて跳ね上がった。
飛び散る血しぶき。その足先が、つかみかかった体育教師の手首を深く切り裂いていた。
「うあ……」
シュンは絶句した。
脳裏に刻まれる血液の色と、その中心で笑みを浮かべる紫の瞳に。
「レラオン! まだ罪を重ねるか……!」
「罪……? 私に刃向かう、これ以上の罪などどこにある!」
校長は素早く両手をかかげ、レラオンに向けて魔法の詠唱をし―― シュンに振り返った。
「キノムラ君! やつを!」
「……!」
呼びかけられ、シュンの意識が目覚めた。
今、魔法の力を行使出来るのは自分のみ、迅速にレラオンを捕らえられるのは自分だけ。
「くっ……!」
シュンは左手の本を握り、右手をレラオンに伸ばし、真魔法を『開く』。
『フレイムボルト』、『ファイアストーム』、『バーンウィップ』――
今のこの場に見合う、様々な攻撃魔法が次々と頭を掠めた。
「面白い……! さぁやってみせろ! 貴様が勝つか私が勝つか! 世界に…… 委ねようではないか!」
言い終わらぬうちに、レラオンが全力を持ってシュンに向けて走り出した。
魔力を持たない、身体強化すらもない、ただの青年の猛進。どの魔法であろうとも、それが例え真魔法でなかろうとも、倒してしまうことは容易だった。
しかし――
狙いを定めていたシュンは、動くことが出来なかった。
走り込むレラオン。全てを捨てて立ち向かうレラオンは頭を前に、一切の防御を見せずに突進してくる。
――ダメだ……! 何を仕掛けても、こいつが死ぬ……!
その直前に見た血の光景が、シュンの判断を鈍らせていた。
真正面から向かう相手への咄嗟の『真魔法』。頭に浮かぶそれらはどれも強力で、簡単に相手を死に至らしめるだろうと確信できた。
――俺が殺す……? 人を……?
魔法とは道具、結果は担い手の使い方次第。いくら強力な魔法であれ力の制御は可能で、相手を死なせずに済む『真魔法』も、この時の彼の手の中にはあった。
だがそこに、彼の考えが至る前に――
「ふははっ! もらったぁ!」
振るわれたレラオンの手が、シュンへと肉薄する。
シュンに出来たことは――
「うああああっ!」
目の前の男に対して、力いっぱい殴りつける。それだけだった。
レラオンの肩口、左胸上部に突き立った拳が大砲を撃ったような振動音をシュンに体感させ、その目に白髪の白い巨躯が遠ざかっていく光景を映す。
スローに流れたその光景は、レラオンが地面に落ち、砂煙を巻き上げるとともに現実感を帯びた。
一瞬にしての精神的な疲労に息を吐くシュン。レラオンは――
「ふ…… ははは…… やった、やってやったぞ……」
大空を仰ぎながら、笑っていた。
「っ……?」
訝しげに、倒れたレラオンを見るシュン。その隣で、事態を把握した校長が表情を強ばらせていた。
「くくく…… 触れた……!」
ぐっと、身を起こすレラオン。そのままゆらりと、左胸を押さえ幽鬼のように立ち上がる。ちらちらと、白色の煌めきが彼の体に踊った。
「私の…… 勝ちだ……!」
「……!?」
黒い魔力が吹き荒れる――
レラオンの体の周囲を闇の魔力が取り巻き、グラウンド中が突風に見舞われた。
「な、なんということだ……! レラオンが『真魔法』を……!」
「え……?」
シュンは左手を見る。ガラの書はそこに、今までと同じく握られていた。
逃すことなく、シュンの視線を追ったレラオンは、彼の表情から思考を読み取った。
「ふ…… ふふふ…… やはり勘違いしていたようだな、教えてやろう」
殴られたダメージに体を傾けながらも、レラオンの顔には完全に余裕が戻っていた。
「貴様は後生大事にその本を持って現れ、戦闘中ですら手放すことはなく、あまつさえ私に『魔法を使えるのは本を持っている自分だけだ』と言った…… 実に間抜けな話だ」
「何を言っている……」
警戒しながら、レラオンが放つ黒い魔力を観察する。
『真魔法』を持つシュンの前で、その魔力がかき消える様子はなかった。
「ガラの書は触れた者に対し、その者が持つに相応しい『真魔法』、その全てを伝える。それは恒久的なものであり、忘れてしまうということは無い。つまりは――」
周囲に振りまかれていた闇の魔力が、レラオンの右手に収束した。
「一度触れてさえしまえば、わざわざ手に持っている意味など無いのだよ」
シュンは息を呑み、思わずと左手の本を目にした。
「ふははは! まったく! 大事な部分を伝えない本だな! 古代マルウーリラの民はよほど頭がいいと見える! 読み手に対する心遣いなど皆無! 高尚な学術書だとでも気取っているようだ!」
図星を看破したレラオンは、上機嫌に高笑いを見せた。
「いやはや、シュンと言ったか。君が愚かで助かった。おおかた本に触れ、絶大な武器を手にしたヒーローのような気分だったのだろう。ならば頼れる武器を手に、敵陣へ挑もうというのも頷ける。何せそれが無ければ、残るのは脆弱な己の身一つになってしまうのだ。棒きれを手にした子供のような男だな、君は」
饒舌な煽り文句に、シュンが奥歯を噛みしめる。
「そして、その愚鈍な君の頭が生んだ結果が、私の勝利を呼んだ。いやぁ有り難う、この物語は愉快な逸話として、せめて私が墓まで持って行ってやるとしよう。光栄に思え」
心を見透かされたことと、それがもたらした目の前の事実がシュンの中に劣等感を生み、怒りの感情が渦巻いた。
「言いたいことは…… それだけか……!」
ゴウ、と、シュンの右手から炎が噴く。
レラオンは首を傾け、彼を見下して言った。
「ああ…… それだけだ。愉快な君は私が直々に葬ってやろう……」
レラオンの右腕に灯っていた闇の魔力が、彼が指を鳴らすと同時に消失し、再び彼の周囲に激しい魔力が吹き荒れた。
「さぁ来るがいい、我が『真魔法』の最初の供物となってもらおう」
両者は睨み合い、共に、地面を蹴った――