32.修羅場だ調理室
商店街から少し離れた場所にある大きな公園は、噴水や小規模なアスレチックにマラソンコースを備えた緑豊かな憩いの場だった。春めいてきた休日の夕方は、犬を連れた人々の散歩にも利用されている。
『おお! でっかい犬ですねぇ! あれはなんて言うんですか?』
『ラブラドール・レトリーバー、あっちはサモエド』
『へぇ、フタッキーは詳しいっスね!』
気配を感じたのか、レトリーバーが妖精に一声吼え、飼い主にリードを引っ張られていた。
『犬は飼ってたことがある。その時に覚えた』
部活中に皆が頑張っている中、二月はただクモと遊んでいるわけではなかった。彼女はこの短期間に、「テレパシー」をマスターしていた。伊達ほど遠距離で話が出来るわけではないが、クモと近くで話す分にはもうなんの問題も無い。
その隠れた努力の甲斐あって、今日はクモと出かけることを伊達に許されたのだ。
『クモ、はい』
『おおう! いただきます!』
ベンチに腰掛け、犬を見ながらたい焼きを頬張っていた二月が、クモに向けてちぎったそれを伸ばした。
二月以外の目には映らない状態になっているクモ。それが受け取り、咀嚼していくたい焼きの欠片は空中で消える謎物体となっている。
『いやー、幸せっスな~、やっぱ綺麗な世界は飛んでて楽しいっス』
『綺麗?』
『そうっス! うちの大将と一緒に歩いた場所は、綺麗な場所もあればもっと汚いヘドリィな場所もヤマとあったっス!』
『へどりぃ?』
『……道の脇にある溝の中みたいな場所っス』
言って思い出したのか、妖精は表情をひきつらせていた。
『クモはいろんなとこに行ってる。楽しそう』
『フタッキーは旅行とか行ったりしないですか?』
『旅行…… 家族とは、行ったことがある』
『……すまんっス、聞かなかったことに』
『いい。気にしない』
伊達の指示もあり、昨日の夕方から二月に張り付いているクモには気づくことがあった。二月はとにかく、「家族」や「過去」の話を避けようとする。それでも心を開きつつあるのか、クモの前では少しずつ、話したいような素振りも見せる。
クモという存在は、見た目や言動に反して彼女に比べ遥かに長い時を越えている。クモからすれば彼女は精神的にも弱いただの子供でしかない。そんな子供に、自らの過去を自らの口で語れと迫るのはあまりにも無情に思えて、聞き出すことはためらわれていた。
例え、今回は可能であれば聞きだせという、自らの信条をあえて捨てた伊達の指示があったとしても。
クモは心の中で伊達に詫びつつ、二月の肩に座った。
公園の中にゆったりとしたどこか物悲しい、郷愁を想わせるメロディーが流れる。田舎特有の夕刻を告げる放送だった。
二月はたい焼きの包み紙をベンチ脇のくずかごに捨て、立ち上がった。
『クモ、もう時間。そろそろ帰ろう』
『ん? 帰る時間なんスか?』
『うん、あんまり遅いと寮の人に怒られる』
『そっスか。んじゃ、どうせ帰り道は一緒ですし、送っていきやしょう』
『ん』
二月は満足そうに、クモを連れて商店街へと歩き出した。
学生達にとってのこの一週間、何かが変わりだしたのは二月にとっても同じだった。
~~
洒落た木目調のテーブルに、二杯目のコーヒーが注がれていく。
ウェイトレスは話の邪魔をしないようにと、声を出さずに会釈だけをして去っていった。
「正直…… 私としてはどう言っていいのか……」
話を聞き終えた伊達は、すっかり言葉を失ってしまっていた。何かを言おうとして形に出来ない。感想を述べることすら不適切な気になった。
「これまで私も、本人がどう思っているのかを聞くことは出来ていませんが、思い出すととても悲しそうに俯くんです。きっと、思い出しては堪えてを繰り返しているのでしょう」
小島はコーヒーを手に取り、飲んだ。
人の過去、彼に関わる者達の過去というのはそのほとんどが楽しい話ではなかった。そして今回もやはり、聞くに辛い話でしかなかった。
『過ぎた過去は本人にのみ変えられる』、昔出会った賢者に聞いた言葉だ。
彼が言うにはそれは言葉遊びや心の持ちようの話ではなく、事実そのものを改変してしまえるのだという。世の中の真実だそうだが、今現在、彼にすらそれは成しえていない。
しかし今は、過去よりも変えられる未来を見なければならないと、伊達は自ら頬を張った。
「伊達さん?」
いきなり自分の顔を叩いた伊達を、小島がきょとんとカップを片手に見つめていた。
「ああ、すいません……」
伊達は冷えてしまったおしぼりで顔を拭った。二、三、と擦ると気分が戻ってくる。
「小島先生、先ほどのお話で一点だけ、確認させて頂きたいのですが」
「……? はい、どうしました?」
伊達のその言い方はどこか刑事ドラマのようで、過去を話していただけの彼女からすれば違和感だらけの口ぶりだった。
「二月は、過去に予知を外したことがあるんですね?」
~~
どうしてこんなことに、と、息を荒げながら少年は逃げ惑っていた。
出来ることなら四階から三階へ降りた際、そのまま階段で一階まで一気に脱出を図りたいところだったが、真上に彼女が現れたことでその考えを断念し、三階の廊下へと走らざるを得なくなった。
だが、この学園の階段はフロアの両端にある。逃げ切るには容易いはずだった。
彼女の『直線上』に立たない限りは。
「……! ここなら!」
三階の調理室の扉がわずかに開いていた。彼は彼女をやり過ごすため、一旦そこへと退避する。
後は彼女が勘違いをし、調理室を越えた先にあるもう一方の階段まで行ってくれれば、廊下を逆走してさっき逃げてきた側の階段で――
かつかつ、と、彼女が廊下を歩く。彼は調理台の影に隠れ、すりガラスごしに陽光に影を映す彼女の姿が過ぎるのを息を殺して待った。
『そこっ!』
叫ぶや否や、彼女は躊躇なく力を放ち、窓枠ごとすりガラスを飛び散らせた。
調理台で防ぎきれなかった飛び散る破片が彼の腕を切り付けた。大事にも至らない切り傷、今は気にかけている場合ではなかった。
咄嗟に、引き出しから「しゃもじ」を引き抜いて彼女に投擲すると、彼はその間隙をぬって廊下へと飛び出した。
「待ちなさい! 梢 充孝!」
そのすぐ後を、当たったしゃもじに額を抑えながら未沙都が追いかけていった。
~~
「え、ええええ!? こ、告白って……」
「え? よくあることだよ? もう一年の頃から…… ちょっとわかんねぇな。人数はもう忘れちまった」
真唯の動揺は最早隠せない域に達していた。
「あー、悪かったなぁ穂坂、そういや言ったつもりになって助言すんの忘れてたわ」
「助、助言、な、何を……?」
栄作は満面の笑顔で親指を立てて言った。
「あいつ狙うなら覚悟決めろよ? あいつはぼーっとしてるけどまわりはぼーっとしてくれないぜ?」
「うあっ……!?」
真唯は自分の想いが見透かされていたことや、今になって理解する校内有数の人気物件に手を出そうとしていたことに気がついて両手で頭を抱えた。
そして、続き両腕をだらんと、力無くうなだれた。
「そうだよね…… 梢くん、カッコいいし、優しいし、背も高いし、成績もいいし、超能力も優秀だし、将来も安泰な由良木卒になるし……」
「天然でぼーっとしてて無表情だけどな」
「ああ、何舞い上がってたんだろわたし…… ちょっと同じ部活になって一緒にご飯食べられるようになったからっていい気になって……」
「いや、それ他のやつに比べれば大幅リードなんだけど……」
一人の世界に入り込んで暗くなっていく真唯。栄作が傍にいるというのに最早心を隠そうという気すら見受けられない。
仕方無く、栄作は打開策を出してやることにした。
「うっし、じゃあ行くか」
「……え?」
大きな声でそう言った栄作に、瞬間、真唯が固まった。
「いやいやいや! 行けないよ! 今って梢くん中で告白されてるんでしょ!?」
「いや、そうとは限らんが…… 話はそっちじゃねぇよ」
「……? え?」
「明日三人で遊びに行こう。まずはそっからだ。そんで仲良くなっていって、いつか誘いやすくなったらデートにでも持ち込め、それでいいだろ?」
ちょっと聞き捨てならない単語に真唯が真っ赤になって慌てふためいた。
「うわ! うわうわうわ! 何言い出すの木林くん!」
そんな彼女を見ていた栄作にふと、魔が差す。
「じゃ、手っ取り早く、行ってきてくれ」
「へぇ!?」
「早くしろよ穂坂、多分あいつ、とっとと用事済ませて戻ってくるからさ。校舎に迎えに行って、明日遊びに行くことを伝えてきてくれ」
「え? ええ? それって木林くんが誘うんじゃないの? 同じ寮だし」
もっともな言い分に、栄作は背中を向けた。
「ああ、そこで尻込みするようなら並居る女子には勝てないな、見込み無しってことで俺はもう知らないね」
「うぐ…」
「へっ、頑張れよ穂坂、あいつと遊びの約束を取り付けるって理由にかこつけて、電話番号だのメルアドだの交換してこいって言ってんだよ」
「あ……!」
「じゃあな」
そう言って、今日の三枚目は無理に二枚目を装って帰って行った。
しばし立ち尽くしていた真唯は、思い切って体をもと来た道へと反転させた。
「い、行こう……! これってすごいチャンスだ……!」
真唯は並木道を期待に胸を膨らませながら、今最大の修羅場へと戻って行った。




