50.玄人仕事
甲高い電子音が響き渡る。
それは短音の連続で、チープさに下品さを兼ね備えた、ただ耳障りな音だった。
「ん……? あ……」
旧寸法の畳の上、直に敷かれた布団。くるまっていた男が呻くような声をあげながら、もぞもぞと動き出した。
「……うっせぇ」
泣き声をあげ続けるそいつへと腕を伸ばす。
音を止められた半ばオモチャっぽいボディの携帯は、液晶に17:01の文字を主張していた。
「ふぁ~…… もうこんな時間か」
黒い髪を寝癖でぼさぼさに、男は身を起こす。
安普請な六畳間。ブラウン管に反射する橙を帯びた光が、携帯に続いて時刻を示していた。
「……陽が落ちるのも、ちょっとは早くなってきたか」
あくびをもう一つ。男は布団をはね除けてのっそりと立ち上がると、引き戸を開けて部屋を出ていった。
引き出しを開ける音。コンロを捻る音。やがて六畳間へと、香ばしい匂いが流れ始める――
「んぅ……?」
鼻腔をくすぐる匂いに、こたつの上、ノートパソコンのマウスパッドに寝転がっていたそれが目を覚ました。半目で上半身を起こしたそれは、金の髪を寝癖でぼさぼさに、トンボのような羽をまばたきするみたいにパタパタと動かした。
眠そうに目を擦りながら、その小さな頭が引き戸の先へと向く。
「……たいっしょ~、私もコーヒーいっちょ~」
引き戸の先―― 玄関と繋がったキッチンから「あぁ?」という悪態染みた声が返ることしばらく。中途半端に開いていた引き戸がガラリと足で押し開けられ、男が戻ってきた。
右手にはマグカップが握られ、左手には人形遊びに使うようなティーカップが指先で器用につままれている。
「ったく、宿主使う剣ってどうなんだよ。こぼすなよ、めんどくせぇから」
「ふむ…… ここ最近の大将は実入りが良かったせいか、機嫌がいいっスな」
男と人形のような少女が、無言でコーヒーをすすり始める。
軽量鉄骨二階建ての一階。アパートの前に原付の音が近づき、通り過ぎていった。
異世界を渡り歩く運命を背負った少年、伊達良一。
そんな少年に結いつけられた神の武器、叢雲。
あの日誓い、『仕事』を始めたその日から―― 十二年の時が経っていた。
「静かっスねぇ……」
「今さっきバイク通ったぞ」
「そっちじゃないっスよ。『世界』さんっスよ、『世界』さん」
叢雲―― クモの姿は少しも変わらない。出会ったあの日のままに、金色の妖精の少女だ。
「ああ、しばらく大人しいおかげで生活費も…… ってやめろよ、言ってたら来そうじゃねぇか」
良一は変わった。身長はかつて追いかけた女神の背中を追い越し、顔つきは歳相応の青年になった。
「だいじょうぶっスよだいじょうぶ~。『世界』さんも夏休みなんですってきっと~」
「もうそろそろ秋なんだけどな……」
逞しく、男らしさを見せる手が空になったマグカップをこたつに置く。膝に手をかけ億劫そうに立ち上がった良一は、まだ中途に体温の残る布団を畳み始めた。
「あら? もうそろそろお時間っスか?」
「ああ、八時からだからな。明日はまぁ…… 適当に買い物して、十時頃には帰ってくる」
「真夜中の労働ご苦労っスなぁ~…… 空飛んで行けばもっとゆっくりできるんじゃないっスか?」
「しゃあねぇだろ、衛星だのなんだのの目があるって恭次がうるせぇんだから。かと言ってここから工場の方まで電車だのバスだの使うと、交通費がシャレにならねえしな」
畳まれ、部屋の隅に押しのけられる布団。少し広くなった六畳間の上、良一は地べたに置きっぱなしだった外出着へと手を伸ばす。
「まったく、異世界でもそうだが…… 科学が発達すると監視の目がうっとうし過ぎる。毎日毎日通勤の度にマラソンしてるふりってのも、まどろっこしくてかなわん」
ぶっきらぼうに独り言のように流れていく良一の愚痴に、クモは表情を緩ませていた。
「連続で働かせてもらえて、よかったじゃないっスか。いつも一日だけみたいな飛び込みで、迷惑かけちゃってたんっしょ?」
「……まぁな」
生活費のための労働。普通の労働。あの日諦めたはずの、普通の人間のような日常の時間。
決して多くない賃金で、かじりつくようにして奇跡的に保てている日雇いの労働でも、それに向かう時の良一はいつも嬉しそうだった。
「さてと……」
時刻は十七時半少し過ぎ。身支度を済ませた良一は、狭い部屋を見回す。
「それじゃクモ、俺は行ってくるが、火は使うなよ?」
「あいあい、何度目っスか…… わかってますって」
「もし俺が明日帰って来なかったら…… そういうことだ」
「それもわかってるっスよ。あっち行って、お困りになったら引き寄せてくださいな」
そして良一は、畳の上に投げ出されていた―― 黒いジャンパーを羽織る。
「行ってらっしゃいませ! 大将!」
片手を挙げて答えた良一は、玄関の扉を出て行った――
――あれから十二年。少年の住む世界では、十五年の月日が経った。
学業は中断され、弟以外の家族とは疎遠になり、その弟も一つ年上になった。
あの日に目安とした十年。それが過ぎた今も、二つの目標はそのままに残っている。
いつ果てることもない、いつ果てるとも知れない、『仕事』の日々――
辞めることは許されず、褒美はなく、与えられるのは自身の世界との乖離と、ただ積み重なっていく己の年齢のみ。
彼の歩む現実は、一途なまでに過酷だった。
しかし、それでも――
生まれ持った才能と孤独に振り回される少年たちを、喧嘩友達にしてやれた。
悲劇に見舞われかけた小さな子供を救い、強さを教えてやることができた。
雪に覆われた村に、次の時代へのきっかけを与えることができた。
明日を失った学生と心を閉ざした少女に、未来を見せてやることができた。
滅びに向っていた世界に、緑を取り戻すことができた。
二人の少女に課せられた定めを、終わりにしてやることができた。
歳の離れた友人に、誰かを失うことを教えてやれた。
閉じられた世界を、前に進めてやることができた――
全ては、出会い過ぎ去っていく物語のように、とりとめもなく朧気。
止めどなく溢れ出てくる鮮烈な『仕事』の波に、誰一人へと語らぬまま失われてしまった記憶もある。
うまくいくことばかりではなかった、『禁則』に頼り、見捨ててしまった世界もある。
泣く泣くと、誰かの願いよりも、『世界』の願いを優先せざるを得なかった世界もあった。
――だがその全てが、今の伊達良一を作っていた。
例え忘れてしまっても、無念を残そうとも。歩んできた道の全てが、今の伊達良一を作っていた。
数多の世界に対して、ただ一人―― ただ一人であるかどうかも、定かではない。
しかしこの道を歩み、『世界』の願いを聞き、誰かの背中を押してやれる。
その道の、その『仕事』の『玄人』。
歩んできた道が、出会ってきた人々が、伊達良一という『玄人』を作ってくれていた。
その道に後悔はある。苦悶もある。冷めない苦悩も、恐怖も、虚しさも。それらが失われることはない。
だが例えそうであったとしても―― 歩み続ける気概が尽きることはない。
それが『伊達良一』であると、自覚があるのだから。
この道こそが自らの歩む道であり、『伊達良一』であること、自身を表すそのものだと自覚があるのだから。
『玄人』としての今の自分こそが、顔も忘れた人々から受け取っていた、かけがえのない贈りものなのだから。
この『仕事』を、この道を歩むきっかけをくれた人を、忘れることはない。
そして――
――『あなたの行く先に、あなたにとって良き道が選ばれますように――』
導いてくれた彼女を、今も導き続けてくれているのだろう彼女を、忘れることはできない。
彼女にもう一度。
理解できないままに別れてしまい、そのままになってしまっている彼女に、もう一度巡り会う。
それは『仕事』ではなく、伊達良一としての願い。
会ってどうしたかったのか、何を言いたかったのか―― それはもう遠く、同じ気持ちを思い起こすことはできない。きっと過去と今がそうであるように、この先出会う時が来るとすれば、また別の想いを抱いているのだろう。
しかしたった一つ、変わらないこと。変わりようのない、伝えなければならない言葉がある。
ひどく簡単で、シンプルで、それでもきっと、口にすれば世界の全てに色が灯るような、そんな笑顔を見せてくれるだろう―― 彼女だけに伝えられずにいる、たった一言。
その言葉は――
アパートの前、町並の向こうから、青をはね除けるオレンジの光が射す。
手をかざし、目元をしかめた良一は――
「……行くか」
その温かな光の輪に、口元を緩めて歩き出した。
世界、異世界。
道はどこまでも、左右すらもわからず、続いていく。
いまだ終わりは見えず、始まりの場所も、もう遠い。
しかしそれでも、かつての少年は歩き続ける。
扉を開けて、手慣れた玄人仕事でカタをつけて、
また、扉を開けて戻ってくるのだ。
新たな扉を、開くためにと――
お疲れさまでした。
『#10』並びに『玄人仕事』はこれにて完結となります。
残り数回は『あとがき』をお送りします。
一足お先ではありますが、ここでお帰りの方にご挨拶を――
長きに亘り、ご愛読ありがとうございました。




