49.陽は昇る
瑞々しい生命を感じさせる草木の香り、それを運ぶ冷たい風。
開いた瞳に映るのは、どこまでも遠く黒い空に浮かぶ星々の煌めきだった。
「ここは……」
湿った草の感触を手に、横たえていた身を起こす。
薄暗さの中に見えたものは、足首ほどの高さしかない草地とまばらに立つ木々。そして彼方に大きな影として映る岩山だった。
「変わらない、ね……」
その風景は彼女の記憶のままだった。暗がりの中でもわかるほどに、彼女はその場所を知っていた。
「そっか…… 私、知らないうちにこの場所を真似していたんだ……」
二百三十年余りの時を経て、今更に気づく。
自らの存在の影響によって創り変わっていった、もとは岩ばかりだったあの神域。今も続いていたその変化の先が、この場所を目指していたことに。
忘れようとして忘れられない執着。あの神域の風景は、伏せたはずの自らの想いを映していたのだ。
顔を上げ、うなずく。そして彼女は歩き出した。
さくり、さくり。草を踏みしめる音が鳴る。
歩み続ける彼女の前、森と高い岩山の向こうに青みがさし始めていた。
もうすぐと―― 鳥が鳴く。長く日常に欠けていた生き物の匂いが、それを知らせる。
「……!」
遠く、明かりが見えた。『電気』という技術を使ったものではない、まだ未熟な炎の明かり。
「集落……」
煌々と、ゆるやかな煙を上げるその場所へと、彼女は歩んでいった――
天高く、器用に組まれた木枠の間を大きな炎が上がる。
赤々と燃えるその周りを、白い麻の服を着込んだ人々が囲んでいた。
ある者は槍を手に、ある者は大きな草を手に、ある者は小さな鼓を手に炎を中心に踊り回る。そんな彼らの周りには、杯を手にした大勢の人々が座り、手を叩き、話し合い、笑い合っていた。
「これ…… は……」
見覚えのある風貌、目に馴染みのある文化。時間を超えた、胸を満たす匂い。
彼らは自分の知るままにそこにいて、かつて教えたままの宴の中にあった。
「どうして……」
希望の通り、期待の通り、その姿はあった。しかし、夢幻のように信じられなかった。
行く末の絶望を知りながら目を伏せ、見捨ててしまったはずの人々。彼らは地に足を着けてそこにいて、笑っている――
集落の入り口に立った彼女は、理解が及ばないままに立ち尽くしていた。
「……ステラ様」
しわがれた声。久しく聞くことのなかった懐かしい声に、顔を向ける。
「あなたは……」
いつ現れたのか、見過ごしてしまっていたのか、道の脇、丸太に座る老人の姿があった。
大きな袖を持つ―― 丁度あの少年、伊達良一の持つ情報の中にあった、遙か昔の神職の服装というものに似ている、そんな恰好をした老人だった。老人は白髪の頭をひと撫でしながら、丸太の席を立つ。
「おいでになったと聞き及びましてな…… お待ちしておりました」
「私を……?」
「左様に。あなた様をあの神域に押し込めてしまったものの一つとして、頭を下げに来た次第であります」
この老人―― 老神のことを、ステラは知っていた。これまで何度か仕事を共にしたことがあり、その温和な気質は好む所でもあった。そして何より、あの神域へと入るその日、案内役に同行した神の一柱でもある。
頭を垂れる老神に、ステラは静かに首を振った。
「あなたが謝ることは何一つとしてありません。全ては私の弱さが招いたこと…… 私こそがあなただけになく、あの日私を気遣ってくれた全ての神に、感謝と詫びを述べねばなりません」
「……畏れ多いお言葉です」
「それよりも……」
頭を上げようとする老神から、ステラは人々へと目を戻す。気遣ってくれるものに良い態度とは思えなかったが、今の彼女には余裕が無かった。いったいこれはどういうことなのか、自分が閉じこもっている間に何があったのか、知りたいという気持ちが先行していた。
そんな想いを察してくれたのか、老神は恭しく彼女の前に手のひらを差し上げる。同行を請う仕草に、ステラは老神の手のひらへと、自らの手を乗せた。
一歩、一歩と、老神に手引きされるままに、ステラは集落の中へと入っていく。
真昼のように暑さを孕む空気。揺蕩する炎の明かりを受け、人々の踊る影が落ちる集落。かつての文化の名残はあれど、そこはもうステラの知る場所ではなかった。
布や草でつくられていた住居は全てが木組みのものへと変わり、粗末な石や木の棒でこしらえられていたはずの農具には、鉄の技術が使われている。柵、椅子、器、小さな物から大きな物まで、ステラはその変化と発明の数々に戸惑いつつ、目を奪われてしまう――
「あ……」
杯を持った若者が立ち上がり、老神とステラの体を通過していった。
――そっか、見えないんだ……
若者の背中を見ながら、ステラは彼らと関わっていた当時を思い出した。この『遊び』に興じていた頃、自らが定めた『設定』。それは今も変わらず生きていて、彼女の胸を、風が凪いでいった。
炎を囲んだ宴の場を越え、ステラの手を引いた老神は歩き続ける。やがて足は家屋と家屋の間を抜け、広い畑の続く農道へと出る。
人々の喧騒が、遠くなっていた。
「あの…… どちらへ?」
「この道を、真っ直ぐにございます」
真っ直ぐ―― 農道の先は上り坂の向こう、森へと続いていた。太く高い巨木が織りなす、深き森。
その森のことはよく覚えている。『遊び』の始まりの場所であり、子供たちとの始まりの場所。まだ人々に姿を見せていた頃のステラが、何も知らずにいた彼らから、驚きと、愛しさと、『心』を教えてもらった場所だった。
――あの場所に…… 何が?
請われるままに、ステラは老神と歩む。しかし農道を越え、坂道に入り、森へ入っても、ステラには老神の意図がわからなかった。
案内するからには目的地があるのだろう。この森はたしかに人々との大事な思い出の場所ではある。だが『設定』を変え人々を見守ると決めたその時、森を出て平地に拠点を築くように指示を出したのは他ならぬ自身だった。
気まぐれな自然の恵みに身を預けるでなく、農耕による自活へ。神の手を離れても、生きていけるようにと。
遙か過去に放棄されたこの森には、今更何が残るはずもない。
「ここでよいでしょう。ご足労頂き、有り難く思います」
「いえ…… しかし、ここは……」
森の途中に足を止め、その手を離す老神。辿り着いたらしきこの場所にも、何があるということもない。
あるのは左右に分かれた森の木々たちと、前方に見える、高く黒い影――
「えっ……!?」
唐突に明るくなったその光景に、ステラは目を見張った。
前方に見えていた黒い影の上層が橙の光に取り払われ、闇に浮かび上がるように白い巨石が姿を現す。巨石を照らす光は、その左右に見える大きな篝火から放たれていた。
「な、何が……」
ステラの驚く間に、篝火の後ろから松明を手にした二人の若者が現れ、暗がりの中から下へと降り始める。動作を合わせて降りる二人は、少し降りては炎を脇道の篝へと灯し、少し降りては灯し―― その長く長く続く石の階段を露わにしていく。
刻々と、ゆっくりゆっくりと現れていくその様相に見入るステラに、老神は声を届ける。
「……二百三十年と前、たしかに彼らは、戦渦にまみれました」
「……!」
「神より戦の手管を施された侵略者たちは強大で、彼らは逃げ惑うより他無く、多くの者たちが凄惨な目に遭い、犠牲となりました」
それはステラが目を伏せてしまった、あって然るべきその後。守る神も見守る神も失った、彼らの歴史。
自責の念に身を強ばらせつつ、それでもステラは疑問を問う。
「……では、なぜ彼らが彼らのままで、生きているのですか?」
もしかすれば、彼らは彼らのままではないのかもしれない。彼らによく似た種族が、ここに住んでいるだけなのかもしれない。この場所がまだ自分の領土なのか、彼らが自分の人間たちなのか、『遊び』のやり方を知っているステラには『確認』は簡単だった。
だが彼女はそれをすることはなく、老神の言葉を待った。
「勝利した、からにございます」
「っ……!?」
ステラは神で、この老神も神。聞き間違えるはずはない。しかしステラは、聞き直さずにはいられない。
「今、なんと…… 勝利……? まさか……」
「それはそれはひどい過酷ではございました。しかし彼らは逃げおおせ、智恵を絞り、辛苦に耐え、団結し、見事侵略者たちを打ち払ったのです。以降も数度と侵略に遭いましたが、その度に彼らは研鑽し、堅牢となり、『遊び』の改訂により神主導の戦が禁じられた今、彼らを脅かそうという者はおらぬ状態です」
「そんな…… いったいどうやって……」
彼らを見守っていた身であるからこそ、想像することができなかった。狩猟を教えたのでさえも遙か太古、戦いはおろか小さな諍いでさえ経験のなかった彼らに、どのような術があったというのか。
戸惑うステラに、老神は目を細めて微笑みを浮かべた。
「並々ならぬ、士気であったのですよ」
「士気……? そのようなことで……」
「神の率いる『駒』となっていた人間たちには、武器、戦術―― 多くのものがあれども、それが欠けておりました。戦いに士気を持っていたのは実際に戦うことのない率いている神のみ。有利な状況を一度でも崩されてしまえば、瓦解するまではあっと言う間。『駒』たちの神は、『駒』に信用されておらんかったということです」
「信用……」
「我々神族としても、教えられることの多い戦でございました。互いが互いを想い合い、一人一人が自ら高い士気を持ち寄る。誰か一人が強く率いるのではない、皆が当事者となる団結とは…… これほどまでのものなのですな」
当時を思い返すように、ゆっくりと首を横に振って感心を現す老神。
神からの感心を与る、その子孫であるのだろう階段上の二人。彼らは最下段へと到達すると、最後の篝に火を灯す。
「さぁ、ご覧くだされステラ様」
暗闇から青に染まっていく森に、姿を現した建造物。
立ち尽くすステラの背後から、騒々しい鳴り物と人々のざわめき――
「あなた様がお戻りになった今日は、夜明けを尊ぶ祭事が日。二百年を超え絶やされることのなかった、ステラ様への感謝を捧ぐ日にございます」
盛大な喧騒とともに、集落にいた人々がステラをすり抜け、階段へと上って行く。
かつて想いを伏せてしまった人々。かつて愛し、今も変わらず愛していた子供たち。
人々は誰もが陽気に、穏やかに、頂上の碑に向かって、微笑みを送っていた――
「……彼らが生き残れたのは、ステラ様が見守ることに徹し、彼ら自身に自らで考え、自らの足で歩むことを教えたればこそ。彼らはあなた様に頂いた恩を忘れることなく、こうして今でもお慕い続けているのです」
段上に並ぶ幾人もの両手が、碑に向けて空へと掲げられる。
答えるように碑は影に染まり、白き後光を背負った。
光が昇る。碑を中心に抱いた、夜の終わりを知らせる白き光玉が神の祭壇に昇る――
――あ……
身に降り注ぐ輝き。その熱に触れた頬に、奇跡を感じる。
ステラという、一柱の大神。
彼女が初めて流した涙には、愛したものたちが送り届けた――
陽だまりの温もりが灯っていた。




