48.『仕事』
白み始めた空。黒い詰め襟の制服姿の少年が宙に浮かんでいた。
その胸元には少年の背丈にアンバランスな、白いローブ姿の女神が横抱きになっている。
二人は口元にわずかな笑みを、穏やかな笑みを浮かべ、明るくなっていく雲海の向こうを眺めていた。
「嬉しいな…… こんな風にリョウちゃんに抱っこされる日がくるなんて」
「……今すぐやめるか? まぁ、最後くらいはいいけどよ」
光に晒される桃色の髪。白く柔らかく、暖かみのある肌。その容姿は目を見張るほどに美しくもあるが、良一にとっては、我が家に戻ってきた時のような安心感を生むものだった。
「ごめんねリョウちゃん…… 痛かったでしょう?」
「……覚えてるのか?」
「ええ…… 全部」
そう言って制服の胸元をきゅっと掴む手に、良一は何も言えなかった。
叢雲の一撃は、時の壁を砕こうと躍起になるステラを正面から捉え、彼女を消滅させた。
跡形も無く消えた彼女に不安を抱いたのも束の間。彼女は元の姿で中空に現れると、静かにその身を草地へと横たえた。
ステラの身に神気の宿りを感じ、無事を察した良一。彼は彼女を抱き上げると空へと―― 彼女が行くべき扉がある場所へと飛んだ。
姿は戻っても中身まではわからない。しかし良一は鍛冶の神を信じた。そして何よりも、目を覚ましたステラがもう迷わなくていいように、近い場所へと運んであげたいと思った。
ステラが目覚め、一声とともに良一が安堵するまで―― それほどの時はかからなかった。
「ここでいいわ、リョウちゃん」
良一にとってはたしかではないその方向。わからないながらも島から離れようとしていたところに、ステラの声がかかった。
ステラは笑みを送ると良一の腕を降り、彼の顔を見つめたまま、彼のもとを離れる。
「……リョウちゃん、私、行くね」
「いいのか……?」
「うん…… リョウちゃんが私のためにいっぱい頑張ってるところを見たし、最後の最後、リョウちゃんの想いもちゃんと聞こえたから…… 私も、立ち向かうね」
「……そうか」
今のステラは冷静で、おかしなところはどこにもなかった。
それが彼女が言うように良一の想いが通じたからなのか、単に力を大きく失ったからなのか。それを見抜くような力は、良一には無い。
「決めたんなら、ちゃんと守れよな。おれだって、頑張ったんだからな……」
でも良一は、今のステラなら大丈夫だと、そう思えた。
「ねぇ、リョウちゃん?」
「うん……?」
「教えてくれる? リョウちゃんは…… 選択、できたの?」
AかBか。異世界に関わり続けるのか、無視を決め込むのか。戦う前にも聞かれた良一の未来への回答。
今答えを待つステラには、あの時のようなごまかしは感じない。感じるのは、先を示したものとしての純粋な思いやりの気持ち。だから良一は、先延ばしにしてきたその答えを、真正面から伝える。
「……選択なんてできちゃいない。答えを見つけられていないっていうのは、本当のことだ」
「そうなの……?」
「ああ、だって最初から、選択なんてどこにも用意されていないだろ?」
「え……?」
その驚きの声は、良一にしても初めて聞くような声色だった。言葉にしなければ伝わらない真意、そんなものが彼女にもあるのだと、人間らしさに良一はつい嬉しくなる。
「だってそうじゃないか。本当の答えはどっちも嫌で「選びたくない」なのに、それでも選びなさいなんていうのは無理強いっていうんだ。それで「あなたが選んだんでしょう?」なんて言われちゃかなわない。そんなものは選択じゃない」
困惑するステラに、良一はいたずらな顔で微笑みかける。
「だからあえて答えるなら、おれは「選ばない」。おれはおれの思う道を行く、それだけだ」
「思う道……?」
良一は顔を上げ、空を仰ぐ。ここにはいない誰かを見るように笑みを浮かべ、そしてその目を、自らの両のてのひらに降ろした。
「十年…… 続けてみるのさ」
「十年……?」
いつか別れた、もう記憶も不確かなあの硬い指先の感触を思い起こし、両手を降ろす。
「答えなんて、この先のことなんて、おれにはわからない。でも先がどうであれ、この道は…… こうやって『世界』のわがままを聞いたり、そこにいる誰かの力になったりなんて道は、他の誰でもなく、おれだけの道なんだ。この道があったからこそ、おれは彼女の力になれたし、こうしてステラの力にもなれた」
目の前にいるステラ。元の姿を見せてくれるステラへと、目を細める。
「それはおれじゃなきゃできなかったことで…… 今おれは、この道がおれにあったことを、本当によかったと思っている」
辛くはあった。道を戻れと言われれば、素直にうなずけることではない。でもそれは、良一の本心だった。
「きっとこの先も、同じような道が続いているんだと思う。もっと辛かったり、苦しかったり…… それでも救いたい人を、救える道が。だからおれは……」
拳を、軽く握る。口にすることで、誓う。自分自身に誓いを立てる―― そんな覚悟で、良一は言う。
「おれはこの道を、おれの『仕事』にする」
「『仕事』……?」
「雇い主は『世界』で、おれはただの使いっ走りだ。でもおれはおれの意志で、その世界にいるやつらを、前に進めるようにぐっと押してやるんだ。『世界』の言うことなんて全部は聞いてやらない。おれはおれ自身に仕えて、やりたいと思った、やらなきゃならないと思った事をやってやる。この初『仕事』みたいにな」
「あ……」
ステラは驚いた顔をして―― 穏やかな笑顔を見せた。
「そっか…… 私はリョウちゃんの…… お客さん第一号なんだね」
「そう…… かな? いや、きっとそうだ」
二人空に笑い合う。
「でも…… それでいいの? リョウちゃん。リョウちゃんがやろうとしていることは、形は違っても私が言った『異世界に関わり続ける道』とほとんど変わらない過酷が待っているのよ? あなたがいくら強くなっても、『世界』はそれだけ――」
「厳しい『仕事』も持ってくるようになるって話だろ? 願ったりだ」
「……? 願ったり?」
良一は後ろを振り返り、山頂を見下ろした。そこには並んでこちらを見守っている、妖精と巨人の姿があった。
「……普通じゃなくなったものを、普通に戻すことはできない。でも、普通を目指すことはできる」
「……?」
「今のおれじゃ、口ではどう言っても結局のところは『病気』に縛られてるままだ。でもそうやって、どんどん厳しい『仕事』に立ち向かって、それをこなして行けばさ…… いつかおれの『病気』なんて簡単に解決しちまえる、そんな術がある世界にも辿り着けるかもしれないだろ?」
「それは……」
無理とは言えない、でも希望的観測。少なからず『世界』を知るステラにはそう思えた。それでも――
「そうね、可能性は…… きっとある」
良一の考えを否定する気にはなれなかった。この世界で間近で見てきた、伊達良一という少年の在り方が―― 深い闇に打ち据えられていても、這い上がってみせたその強さが、そうさせた。
「まずはそれを目標に、立ち向かい続けてやるさ。もし『病気』をどうにかする手段が見つかったら……」
「見つかったら?」
「……その時はその時だ、またその時のおれが決めればいい。ちゃんと今から十年経ってたら、好きに決めりゃいいさ。未来まで全部決めちまうなんて、つまらなさそうだしな」
「十年って…… なんなの?」
「……さぁな」
見えない陽は雲海を離れ、世界は眩いまでの朝に包まれる。
ステラは良一を背にして大きく手を広げると、神域と地上、世界の裏と表を繋ぐ境目を空に描き出した。
丸く、白い光を放ちながら開いた次元の切れ目。良一を振り返ったステラは、最後に問う――
「ねぇ、リョウちゃん。「異次元」も「あの世」も、「並行世界」も、「何光年と先の星」も、「過去」も「未来」も…… どのような世界もが異世界。辿り着ける確率はゼロに等しく、偶然は期待できない」
その表情は、あの穏やかな微笑。しかしその問いは、良一の眼差しを真剣なものにした。
「それでもリョウちゃんは…… 歩み続けるの?」
ステラはやはり、神だった。先ほどとは違う、ステラがステラであるという嬉しさに―― 良一は自身の中、決まり切った答えを返す。
「ああ、それだけは絶対だ」
言わずにおいた秘めた目標。『病気』の解決などとは比べようもない、欠けた半身を願うような、その望みを口にする。
「おれはもう一度…… あの世界に行く。あの世界に行ってもう一度―― 会うんだ」
絶望的な確率に向けての、良一の笑み。少年を一つ越えたようなその力強い笑みに、ステラは何も言わずただ一度、ゆっくりとうなずきを返した。
ふわりと―― ステラの体が遠ざかる。
「ありがとう、リョウちゃん。あなたがしてくれたこと…… あなたがいてくれたこと…… 私の一生で、最高の宝物よ」
白いローブをはためかせ、背に白い後光を浴びる姿は、他に例えようのないほどに『女神』だった。
「リョウちゃんの行く道、きっとあの子や私のように、あなたを待っている人がいる。あなたに救われ、あなたから宝物を受け取る人たちが、きっといる」
その姿は、溶けるように後光に小さくなっていく。
「忘れないでリョウちゃん。宝物を贈ったその時…… あなたも何かを受け取っているの。その受け取った何かがたくさん集まって、あなたを守り、力になり…… あなたの人生に、彩りを与えてくれる……」
次元の裂け目、その光に、シルエットになっていく――
贈られる言葉、最後に残そうとする彼女の言葉。
出会いには、必ず最後に別れがある。異世界での出会いは泡のようで、それはすぐに昇りきり、弾けてしまう。
「……ステラ」
最初は―― どう思っていただろうか。気づけば―― 求めるように目で追っていた。
曇っていた頭に、降り注ぐような陽気を浴びせてくれた。ずっと求めていた、普通を与えてくれた。膝を貸してくれた。静寂を与えてくれた。
過酷な人生に立ち向かうための知識をくれた。未来を選べることを示してくれた。ねじ曲げてしまっていた過去を、正すきっかけを与えてくれた。
ずっとずっと彼女は、与えてくれていた――
「……ステラ!」
叫びとともに、頬に熱いものが伝う。
その熱い雫が落ちる感覚が、良一を驚かせ、震わせ――
「おれはもう…… 大丈夫……っ! ずっと…… ありがとう……」
湧き上がる言葉をみんな消して、それだけを口にさせた。
ステラが、消える。
全身全てを光の中に隠し、光の裂け目が閉じ―― あとには青い空だけが広がった。
「じゃあ…… な……」
光に溶けた彼女が、最後に微笑んだような気がした。
頬に伝う雫は、まだ続いている。突然こぼれ落ち始めたそれは、良一にとって初めての感覚を伴っていた。声が出ないほどに胸が満たされていて、叫びたいほどに体がうずく。
その感情の高まりは、別れの寂しさにも、失う哀しみにもない。誰かがくれた温かさにも、慰めの優しさにもない。
やり遂げた――
良一は、自らのやるべきことをやり遂げた、その初めての感覚に打ち震えていた。
ステラがくれたもの、その全てを返すことは考えられなかった。でも例えたった一つでも、返したいと思った恩を返すことができた。
初めて自らに課した、担いきれないまでの『仕事』―― その達成を、ステラの最後の姿が教えてくれていた。
長く長く、始まりの悲劇より、良一の中にあった無力感。
今それは、雫とともに頬を伝い、異世界の空に落ちていった――
「た~いしょう!」
「……?」
目を拭い、良一は突然聞こえた声に振り返る。
「……クモ」
「ステラ様…… 行っちゃいましたね。すっかり元に戻られてよかったっス」
山頂で鍛冶の神と共にいたはずのそいつは、いつの間にか良一のすぐ後ろにいた。
「……お前、よかったのか? ステラと話さなくて……」
「いいんスよ。そりゃあ…… なごり惜しくはありますが。私も私で、お別れしなきゃいけない神様がいますから」
そう言ってクモが見下ろす眼下には、鍛冶の神の姿がある。
少女のようでしかない顔に、大人びた憂いを乗せて手を振るクモ。その造り主であり、父親とも言える神は答えるように手を振り、良一と目線を合わせ―― 彼らに背中を向けて歩きだした。
「……ありがとうな」
聞こえるはずもない言葉を、そっと呟く。無骨にして厳めしく、過ぎるほどに優しい巨人は、山頂に小さくなって、去っていった。
――光の柱が昇る。
「……!」
「えっ!? 私、ここにいるっスよ!?」
山頂の一画、唐突に昇った光の柱。宣誓時とは逆向きに、地上から高く昇ったそれは背丈を縮めていき、遠目には輝きにしか見えない大きさになる。
輝きは長方形を描き、その大きさは――
「ドア…… か?」
「あっ、あれってひょっとして……!」
クモのひらめきが伝染するように、良一が勘付く。
「扉か!? おれが元の世界に帰るための……!」
「間違いないっスよ! 『世界』さんが来てほしい、帰ってほしいっていうの、扉として見えるってステラ様がおっしゃってました!」
現れた『異世界への扉』。初めて見るそれに、良一は目を凝らす。
「……そうか、これで…… よかったんだ……」
「はい?」
「『世界』のやってほしいことが、終わったんだ。ステラが…… ここを出たことで」
「え……? あ…… あ~!」
少し呆けたように薄く笑う良一の言葉に、クモが大きく手を打った。
何を求めているのか全くわからない『世界』。しかしその解釈は間違いとは思えなかった。
『世界』のシステムだというステラ。ならば彼女を神域から外に出せたことは、予想もつかない内容ではあれ、この世界にとって影響の大きいことなのだろう。奇しくも『世界』と想いを共にしていたことに、良一は半端な笑いを止められない。
「ははっ…… これなら、『世界』の馬鹿野郎ともやっていけるかもな」
「ん? なにをっスか?」
「……えっと、まぁ~、これからのことっていうか――」
「ああ、『仕事』っスか?」
「はっ!?」
止められなかった笑いが止まった。
「だから『仕事』っしょ? 『世界』さんのわがままにつきあってあげるっていう……」
「お前聞いてやがったのか!?」
「ええ、途中からですが、暇だったもんで……」
良一は変な汗が浮き出た気分で、頭を巡らせる。一生笑われるようなことは言わなかったか、何かこっ恥ずかしいことは言わなかったか―― 結果として額に手をあてて、前髪を掻きまくった。
「ああもうっ! 帰るぞクモ!」
「……お、帰るっスか?」
「開けなくても帰れるってのはステラから聞いたが、あれがほんとにそうか確かめる。……この世界にも、長居しちまったしな」
「……そっスね」
眼下に見下ろす世界。この世界を、良一とクモは眺める。その目線は、同じところへと送られていた。
ステラと一緒に暮らしたあの家。草原にぽつりと建っていた、もう住む者のいないあの家は―― この場所からは見えなかった。
しばしの感傷の後、それを切るように、クモが良一の肩に乗った。
「……じゃ、行きましょっか、大将」
「そうだな…… 一応お前のことは恭次にも―― って、なに?」
「坊ちゃん」ではない、耳慣れない呼ばれ方に良一は面食らう。さっきいきなり呼ばれた時は驚きのためにわからなかったが、今ははっきりと聞こえた。
「だから大将っスよ。坊ちゃんはこれからもう、お仕事なさるんでしょう? 私のもってる坊ちゃんの世界の常識じゃ、仕事ってのは一人前の大人がやるもんだってなってるっス。じゃあもう、坊ちゃん呼びはできないっスよね?」
「……そういうもんか?」
「ええ、そういうもんっス。付き従う私からすれば、坊ちゃんは大将っしょ? カッコよくていい響きじゃないっスか?」
「……大工にでもなった気分しかしないが、坊ちゃんよりはマシか」
自分の世界での常識の「仕事」、そんなものが考えられないことはもうわかっている。いつ姿を消すかもわからない、そんな人間を雇う者はきっといないだろう。
将来はおろか、わずか先の未来さえも、普通ではいられない。
それでも良一は――
――『ねぇ、良一』
その小さな頃の思い出を胸に。
――『あのピアノは十年ここにあった。十年間、ずっと一つのこと、音を出すという仕事を続けてきた』
父の腕で見送った、その古い友達の最後の姿を胸に。
――『十年続けたら…… どうなるの?』
自分にだけできること。自分にしかできない、やりたいと思えること。
――『どんなことでも十年続ければ、人は玄人になるんだ』
自分だけの『仕事』を、その遙か高みの頂きを目指し―― 登り続けることを誓った。




