41.Reliquiae
月の光の下、煙管から昇る紫煙が揺れる。湿った木々と土の匂いの中にあって、その煙は甘くも感じた。
「それが汝の辿ってきた道か……」
「ああ……」
ステラと別れ、この世界と別れると決めた良一は、鍛冶の神を訪ねていた。ステラを送り出す『次元の切れ目』、その場所を聞き出すためにである。
決行は、翌日。これを最後の機会とせざるを得なかった良一は、約束通り自らの全てを明かした。それは鍛冶の神にとっては、不必要なことだったのかもしれない。しかしなんらの見返りを求めず、快く答えてくれた鍛冶の神に対して、何も言わないままにはしたくなかった。
鍛冶の神はただ黙って、過去三度目になる良一の昔語りを、最後まで聞いてくれていた。
「なるほどな…… 不憫なものだ。あの赤黒い力にも納得できる。その娘には感謝せねばならんぞ。指輪の力はたしかに最善の道を選んだ。ステラに出会うことなくして、これほどの短い間にあの力が解きほぐされることはなかっただろう。力とは、使い方次第というものではない…… その身に、その器に見合う力を保つことこそが肝要なのだ」
「……そうか。そう…… なのかもな……」
「そうだ。それを忘れるな」
振り回されてきた力。振り回されてきた過去。力を失い弱くなったからこそ、噛みしめられる言葉がそこにあった。
そして同時に、感謝がある。かつての少女だけになく、今の、大切に思う人に。
「なぁ、鍛冶の神…… おれは、間違っていないだろうか?」
「何をだ?」
「おれはステラを、この神域から出られるようにしたいと思っている。そのきっかけになりたいと思っている。それは――」
「間違いかどうか、か? わかるわけがなかろう」
たんっと音を立て、鍛冶の神は立てた人差し指に煙管を叩き付ける。草地に落ちた灰が煙をあげた。
「我は鍛冶の神、未来を演算する力などは持たん。いや、例えどのような神であったとて、未来を完全に予知することなどできはせん。極めて可能性の高い行く末を予期するのみだ。それは、大いなる計算を持つ『世界』にしても同じ。ましてやそこに神が絡んだ未来など、予測できるものなどおらん」
感情の見え辛い鍛冶の神。だが今のその口調は、やや強くあった。それは弱気を非難するようでもあり、良一は奥歯に強ばりを感じつつ、押し黙るよりなかった。
「……だが、汝がそうしたいと思うのであれば、間違いではないのかもな」
「……?」
新たに煙管の中身を整えながらに、鍛冶の神は言う。
「『世界』は汝に期待をかけている。大いなる計算に置いた汝が、汝らしく動くことにかけている。汝が心を強く、自身の信じる道を進むこと…… それが答えであるのかもしれん」
「おれらしく……」
「童子よ」
鍛冶の神の目が、良一の目を捉えた。
「ステラは、神だ。汝が想像だにできぬほどの、力を持った存在だ。見合う器など、『世界』にもこしらえられぬほどのな」
捉えられた視線を、逸らすことはできなかった。
「その器は…… 常に力に満たされている。揺らせば、こぼれることを知れ。そして今の汝が――」
「602100ン61200ァア602アァーーーーーー!」
昨夜の鍛冶の神の言葉が、警鐘が蘇る――
「ステラ!」
ステラの全身が光に包まれ、地鳴りと暴風が吹き荒れる。
「ステ…… ぐあっ!?」
目を覆わんばかりの光の波動に、良一の体が宙を舞った。
――『そして今の汝が、その器を揺らす存在であることを知れ』
金色。クモの放つ輝きと同質の、白き金色の光の中、ステラの叫び声が鳴り響いていた。嘆きにも、歓喜にも、どのようにも聞こえる、機械染みた耳をつんざく高音のまじった叫び――
「こ、これは……」
良一は、見た。
ヒトならざる存在。神が仮の姿を解き、今まさに変貌していくその姿を。
固く身構える良一を前に、光が収まる。
そこに現れたのは、白いローブを纏った―― 一体のマネキンだった。
「ス、ステラ……?」
力を失ったように、山頂に項垂れるマネキン。
長く美しい桃色の髪は、無い。白く柔らかく、優しかったあの手は、球体関節を持った骨組みと化している。
全身が白い金属でできたマネキン―― その無機物の顔には、あの光を失った琥珀の瞳が取り付けられていた。
「あ……」
声が、出ない。思考が止まる。
目の前の物が、ステラ。今、目の前で見ていたはずのその事実を、受け止められない。それはあの日以来見続けてきた夢の、どんな夢よりも悪夢だった。
がしゃり。白いローブのマネキンが、膝から崩れ落ち、山頂に転がる――
「ステラっ……!」
駈け寄っていた。その無造作な、無情の様に。
布にくるまれた金属の人形に、一瞬のためらいを見せた手が、それでもその身に触れようとする。
「っ…… おい、ステラ! おい、どうしちまった……!」
変わり果てたステラを揺さぶるも、反応は無い。その体は硬く、重い。
「なぁ…… おい……!」
ただその身を包むローブには、ほんの少し前まで「人」であったはずのぬくもりが残っていて、
「おい……!」
それが良一に、焦燥感と後悔を抱かせた。
「あ…… 間違えた、のか……? おれは…… 何かを、間違え……」
ステラは答えない。物と化したその身は、なんらの答えを返すことはない。
現実を受け止めはじめた脳が、彼女に触れていた手を力なく引き戻させていく――
「おれは……」
気づいていた―― その『心』に。
ヒトとは違う神がどんな心の仕組みを持っているのか、それはわからない。だが良一は気づいていた。ステラがそれを、心を、想いを持ち、変容させていたことに。良一の心が変わったように、彼女の心も変わっていたことに。
最初は違っていたのだろう。突如現れた良一に家を用意し、与えられるものを与えはじめた時は。そこにはただ親切と優しさがあった。幾ばくかの、過去への贖罪の念もあったのかもしれない。
しかし積み重なっていく日々と触れ合いは、ステラと、そして良一にも、別種の情を生み出していった。
危険なまでに甘く、愛おしいまでの怠惰―― 互いの過去の傷を舐め合うようなふたりの日々は、互いに互いを、欠けてはならないものとした。
依存――
落ちていく沼は落ちるほどに泥を濃くし、重くし、身動きを封じていく。
気づいた良一は、急がなければならなかった。まだ動けるうちに、まだ沼から足を、地上に引き抜けるうちに。もがけばもがくほど、深みにはまっていく最悪の状況に陥る前に。
「ステラ……」
その結末が、目の前にあった。
急ぎすぎた結果か、強引すぎた結果か。あるいはステラはすでに抜け出せない状況にあったのか―― 結末は、目の前の通りだった。
「おれは…… おれは……!」
だんっと良一の拳が、大地を穿った。強すぎるその拳は土を巻き上げるも、カケラほどの痛みもない。それがまた晴れない悔しさと無念を誘った。
「なんでだ……! なんでおれはこんなことを考えた! 力になってやりたいなんておこがましいことを考えた! 『世界』とおれの思うことが一緒なんて、そんなはずがないじゃないか!」
その軽率さに、反吐が出る。かつての無力感は湧き上がることなく、ただ自身への怒りのみが湧き上がった。
「どうしてだ…… どうして人の心がわからない! もっとうまくやれただろう……! あの時と、同じかよ……!」
直情的な自分が、嫌になる。自分のことを人間ではない、何かの化け物だと思ってきたこの数ヶ月が胸に痛みを生む。化け物となってしまったがゆえに、他人の心がわからないままに突き進み、そして最後に後悔する。そんな自身の成長の無さに、やり場の無い怒りが走る。
だがそんな怒りも、激情も、長くは続かなかった。
「なぁ、ステラ……」
無残に転がるその姿を再び目にし、感情が薄れていく。そこに一筋の涙も流れない。彼女を失った自らを、可哀相だと哀れむ心など全く無い。
今はただ、喪失感のみがあった。
「おれは本当にただ…… 恩を返したかっただけなんだ…… ごめんな……」
触れたいと思った。自分の人生は、これからも続いてしまう。だから最後に、この時を忘れまいと、この人に触れたいと思った。例え今は白い金属となってしまっていても、その頬に触れたいと。
貼り付けられた琥珀の暗い瞳を持つ、その顔に手を伸ばす――
『0000100100010001、00200123000000003――』
「……っ!?」
琥珀の瞳の中が放電を見せ、重い駆動音が鳴る――
「なっ!?」
瞳が輝きを増し、何かに吊り下げられるようにステラの身が空に浮いた。
浮いた体は両手を左右に真っ直ぐに、両足は揃えて真っ直ぐに、T字型で宙に静止する――
「ステラ!? ……くっ!?」
再び光が吹き荒れた。先ほどよりも遙かに強い、力の放射とも言うべき暴風。
良一は吹き飛ばされまいと、両腕を眼前に後退りする足を必死に大地に噛む。
「あ…… あっ……?」
めきりめきりと音を立て、白いマネキンと化したステラの体が更なる変貌を遂げていく。
背中から四本の腕が伸びていき、髪を失った頭部は、西洋の冠のような形状に変化していく。
絶句する良一の前、金色の光を後光に、それはマネキンからローブを纏った甲冑へと変わっていった。
そして最後に、金色の後光は背中に光放つ輪として顕現し、大きく光放って真の姿を示した。
「ステ…… ラ……?」
アンドロイドか、ロボットか。機械染みたの六本腕の甲冑は、異質にして、畏怖を憶える神々しさを見せる。
冠の下、元のステラを象ったような微笑を張り付かせるその顔が、口を開くことなく――
『問題となる対象を検知、特定しました。隔離、削除を実行します』
良一に、そう告げた。




