39.御心へ
壁にかけられた黒い詰め襟の制服へと袖を通す。
首にかかる白いカラーが、締める気もないのにやけに息苦しく感じた。
『坊ちゃん、本気なんスね……』
「ああ」
良一にあてがわれた個室。この部屋で過ごした時間も、今着ている服が壁にかけられていた時間も、一ヶ月近くになる。
「頼んだぞ、クモ。うまく連れ出してくれ」
『うまくも何も、坊ちゃんが呼んでるって言って来ないわけがないと思うっスけどね……』
良一は部屋を見回す。白い壁紙、十字に木枠の走る小窓―― 感傷を誘うだけの部分からは目を逸らし、小さな本棚の上や、床の上、収納を確認する。
忘れものはなかった。異世界である自分の世界、そこから持ち込まれた自身の痕跡は、もう無い。
「……お前はどうする? もし残りたいなら、鍛冶の神に結いつけを――」
『私が決めたことっスから、そこは曲げられません』
「そうか……」
『それに――』
ひょるるんっと、良一の体からクモが飛び出す。
「私がステラ様なら、絶対坊ちゃんについて行けって言うっスよ」
そう言って笑いかけるクモの顔は、良一の背中に最後の一押しをくれるようだった。
そんなやりとりのあと、あの家を出て約一時間――
良一は家のバルコニーから何度となく見た遙か先、東方の山岳頂上にいた。
まだ暗かった空は黎明へと薄青く変化を遂げ、この世界での最後になるだろう朝が眼前に広がっていく。
良一は、待つ。
立ったまま微動だにすることなく、ただ呼吸のみを見て過ごす。
異世界にて魔力の教練として学んだ瞑想の習いに従い、心を腹に落とし、全身が痺れるような感覚の中、さんざめこうとする思考を沈めることに全霊を尽くす。
準備は整えた。しかし、あの時整えた準備のあととは、心の有り様が違った。
復讐という全て己のためのみに動いた果ての心境は、ギャンブルの成否を待つような高揚感の中にあった。
だが今は、全てを流れに任せ、流れに合わせる魚にも似た、冷えた落ち着きの中にいる。
それがまっすぐに覚悟を決められたということなのか、誰かのために己を捨てられたということなのか。
その答えはわからず―― わからないままに、良一はその思考を沈め、また呼吸へと意識を戻した。
やがて――
背後に音もなく、その気配は降りてくる。
途中席を外すように指示したクモは、その気配の中にはない。
気配のイメージは、白。ただ純粋にして、黒を混ぜようとも混ざらないだろう不変の白。その周囲を、金色の光が後光のように取り囲む、まさに神々しきイメージ。
「リョウちゃん」
良一は首を振り、声へと振り返る。
「おはよう、ステラ」
「おはよう」
他愛のない、朝の挨拶。昨日までと同じ、一日の出会いの第一声。
不自然な場所であるというのに、そのやりとりも、彼女の微笑みも変わらない。
「ねぇ、リョウちゃん」
だが、違うこともある。
「見つけられたのね…… 選択の答え、あなたの道を」
互いに向かい合う数メートルの距離。その開いた距離を、彼女が詰めてくることはなかった。
こんな早朝に身なりを整え、この世界に迷い込んだ日以来の制服を着た良一。わざわざとクモを案内に出しながらも、二人きりで話そうという良一のその意図。
そんな空気を、雰囲気を読んだのだろう。ステラの判断からの問いかけは、ごく自然なもののようにも思える。
「なにを言ってるんだ、ステラ」
良一は―― ステラに合わせるような微笑を浮かべつつ、
「らしくないな。おれはまだそんなもの、見つけられちゃいないさ」
きっぱりと、その読みを否定した。
「え? 違った…… のかな?」
ステラが声を小さくし、うつむく。その仕草も、『らしくない』。
「ああ、違う」
重なっていく、らしくなさ。それだけでもう充分だった。
「本当は…… わかってるんだろ? おれが今何を考えているのか、おれがどうして…… こんな場所に呼び出したのか」
言って良一は左腕を伸ばし、この山頂から浮遊島の外、空の一画を指差す。
そこが正確であるかは良一にはわからない。だが、ステラには正しい場所がわかっているはずだった。
「あそこが『扉』だ。この神域と外を分ける―― 次元の切れ目だ」
ステラの顔は―― その場所を追いかけない。うつむいたまま、見ようとはしなかった。
「……鍛冶の神に、聞いた。あの向こうには、おれの知っているような世界があるんだろう? たくさんの人がいて、動物がいて、神様の奇跡だけでできた場所じゃない、人間たちの世界があるんだろう?」
きっと、いや、確実に、自分の意図は伝わっている。
それが神様で、ステラで―― その察しの良すぎる彼女の在り方が、良一には辛かった。
それでも良一は、言葉にする。
言わなくても伝わることを、はっきりと言葉にしなければならないと、彼女のために口にする。
言えば関係が壊れてしまうかもしれない。そして、今の全てを終わらせてしまうだろう、その思い。緊張と心苦しさに震えそうになる声を抑え込み、良一はステラから目を逸らすことなく、言い切る。
「おれはステラに…… ここから出て欲しい。ここを出て、ステラが見守っていた人間たちがどうなったのか…… その結末を確かめて欲しいんだ」
ステラは答えない。良一も、彼女の答えを待って動けなかった。
時間が静止し、空気が凝固したような感覚の中、良一はステラに向き合い続ける。
「……それが、リョウちゃんのここでの役目なの?」
不確かな静寂の経過から、やがて返ってきた言葉に世界は動き出す。
「わからない。そうだと思っているけど、本当のことはわからない」
「わからないの?」
「ああ、わからない」
良一は正直に、そう答えた。
『世界』の真意は誰にもわからない。それはかつてステラ自身がそう言ったように、人の心の奥底、それを確かめるようなもので、完全に理解できるようなものではない。
だが良一は――
「でも間違っていたとしても、おれの想いは変わらない。それがステラへの、おれの役目だ」
自らの想いを、真正面から実行すること。それこそが『世界』が求める行動で、成すべきことなのだと信じた。
いや、本当は『世界』なんてどうでもよかった。例え『世界』の真意が自らと違っていたとしても、どうでもいい。
自分がステラに返せるもの、彼女のためにできること。それをやり遂げることが良一にとっての役目―― 自らの『仕事』だった。
ステラは変わらず、うつむき続ける。表情の見えない沈黙の中、再び時が重くなろうとする。完全に膠着を取り戻すかに思われた最中、前髪に隠れる彼女の口元が動いた。
「ねぇリョウちゃん……」
形作られたのは、笑み。吐息のように紡がれたのは――
「リョウちゃんは一緒に、ついてきてくれるの……?」
グラスが震えるにも似た、背中を走るような透明な声だった。




