37.安息の日
遠く湖を望む、緑の丘を風が凪ぐ。
透き通る空に見合った穏やかな風は、波か小雨にも似た音を聞かせ、横たわる体を足から頭へと通って行った。
「のどかっスねぇ…… 昨日のことが嘘のように」
「ああ」
背中には白とピンクの線が交差するレジャーシート。傍らには、編みカゴのバスケットとその上に座るクモがいる。
「ピクニック…… ね……」
「……? どうかしたっスか?」
「いや……」
クモと始めて出会った日。あの日以来、こうして気晴らしのようにステラと共に外に出ることは何度かあった。しかし心境としては、随分と久しぶりにも思ってしまう。
あるいは向こうから誘われることが無ければ、最後までこんな時間はなかったのかもしれない。それを想像すると、不器用な自分が心苦しくもある。
「ステラ様おそいっスねぇ……」
「今行ったばっかりだろ」
ピクニック―― 斜に構えるようになってしまった自分には、ひどく不釣り合いにしか思えない遊び。
だが記憶の中には、かつてそれを楽しんだ時の自分の姿がある。まだ幼い弟がいて、姉がいて。母と、そして父も一緒だった。
ただ一度だけの、家族全員で行われたピクニック。何をして、何を話していたのかは憶えていない。それでも、やけに楽しかった憶えだけがある。
ひょっとするとステラはまた、自分すらも忘れた求めているものを与えようとしてくれているのかもしれない。そう思いつつ、良一は複雑な心持ちで目を細めた。
「……そんなにぃ、イヤだったっスか?」
「あぁ?」
そんな良一の表情を覗うように、クモが的外れなことを言い出す。
「カッコいいと思うんスけどねぇ、『ヘブンズクラウド』」
「ぶふっ……!」
まどろみに爆弾を落とされたような気分で良一は跳ね起きる。
「てめぇ! すっかり忘れてたが思い出させたからには変更してもらうぞ! 撤回だ撤回! 今すぐ別の言葉にしろ!」
「えぇ~? ちゃんと契約したじゃないっスかぁ~」
「あん時ゃ決める暇もなかったからそれにしたってだけだろうが! ポーズ含めて全部変更しろ!」
「え~?」
両足を肩幅に拡げ、右手を天にかざし、高らかに『宣誓』を述べる(全力で)。
それが神より受けた武器である叢雲を、鞘から引き抜くという儀式だった。
「だいたいてめぇ最初普通に剣だったじゃねぇか! ほんとにあの儀式いるのかよ!」
「いりますよー! 儀式なかったら本気の力がでねぇっス! サイキョー至高の力にはロックかかってて当然っしょ!?」
最強至高、その威力は良一も見ている。そこに厳重なセキュリティがかかることも納得は行く。だが、譲れないものもある。
「……変更だ。なんでもいいから、とりあえず今すぐ変えろ」
「なんでっスか? あんなにカッコいいのに」
「かっこいいわけあるか! 何十年前の昭和のセンスだ! しかも古くさいエコーまでかかるなんざ聞いてなかったぞ!」
十五歳―― 人から見ればまだまだ子供でも、本人は幼稚を脱した気分の年齢。
そんな彼にとって、あの儀式はキツ過ぎた。どれだけ強力であろうとも、二度とやるまいという恥ずかしさがあった。そしてそれは今後、歳を重ねれば重ねるほどに更にキツくなっていくことは想像に難くない。
発声してびっくり、色褪せた映像のガチャガチャテレビの頃のようなエコーまでかけられ続けるわけにはいかないのだ。
「なぁわかるだろ? いくらなんでもあれはないだろ? 今時マンガだって必殺技の名前なんて叫ばな――」
「でもあの時、なんでもいいから任せるって言ったの坊ちゃんスよ? それで私、坊ちゃんの持ってる坊ちゃんの世界の情報を探って、もっとも坊ちゃんがそれらしく思う儀式ってのを選びだしたわけですし……」
「坊ちゃん坊ちゃん言うな! っていうかなんだ!? あれおれが選んだってのか!?」
「だからあの時言ったじゃないっスか…… 真の力を解放するってイメージで契約の動作と言葉を決めてくださいって。それで任せるって言われたから、その時坊ちゃんの思念のかたすみに浮かんでいたイメージを使ったんスよ。あんなポーズするヒーローの記憶とか無いっスか?」
「あ”……」
良一の頭に、幼い頃に弟と夢中になって見ていたロボットアニメの記憶が交錯する。
そいつはたしかに、番組後半になるとあんなポーズで、バカでかい剣を空に向けて必殺技を叫んでいた。
「うそだろ…… ねぇわ……」
がっくりと、良一は項垂れる。
「あんな状況でおれは…… 何を一瞬でもそんなもんを思い浮かべてたんだ……」
「いやいや、でもカッコいいじゃないっスか。めっさカッコいいっスよ?」
苛烈な経験を漂っていた良一も、本人の自覚はともかくただの中学生ではあった。いや、「真の力」と言われれば、少年はいくつになってもそんなものなのかもしれない。
良一はさめざめと、恐る恐るとあまり聞きたくない方にも触れてみる。
「じゃ、じゃあ…… あの、契約の言葉の方は?」
「坊ちゃん情報によると、私の名前って正式には『天叢雲剣』なんっしょ? それをっスね、叫ぶにはカッコいい感じでイングリッシュにしたんっスよ――」
そこまで言ってクモの瞳が、すすすっと横に逸れる。
「坊ちゃんの英語力で……」
「うわあああああああああああああああっ!」
壮絶に直訳だった。いや、絶対間違ってると自覚の出来る直訳だった。直訳はわかっていたが、出所が自分だとは信じたくはない直訳だった。
「変えよう! 今すぐ変えよう! 恥ずか死ぬ!」
「いやいやいや! カッコいいっスよ! 絶対カッコいいっスよ! いいじゃないスか!」
「お前今英語のくだりで目ぇ逸らしたじゃねぇか! 間違ってるもんがかっこいいわけねぇだろ! アホ丸出しじゃねぇか! っていうかかっこよさなんて求めてねぇよ!」
「必殺技はハートっスよ! 『ヘブンズスラッシャー』だってカッコいいっしょ!?」
「ぬあああああああああっ!」
失態と恥ずかしさに頭を抱える良一は―― 頭を抱えつつも今の状況のヤバさに気づく。
「まったく、坊ちゃんが何を変えたがるのか全くわかんないっス。あれでいいじゃないっスかあれで。あれくらいキメキメでやってくれないと、作ってくれた神様にも申し訳ねーっしょ」
――あ、やべぇコイツ。マジでかっこいいと思ってる風だ。
何がそこまで良かったのか、どういう感性をしているのか、どうやらクモは本気であれでいいと思っているらしい。タチの悪い冷やかしならば最後には強行的に変えられそうなものだが、本気ならばなおのことタチが悪い。
不穏な風向きに口撃の勢いを失う良一に、クモは追い打ちのようにトドメの事実を刺す。
「っていうか、神様の武器との契約なんスよ? 変えられると思ってたんスか?」
「……え?」
「一度決めたら変えられねーっス、そういう仕組みなんで。神様を吹っ飛ばせる武器なんスよ? 鍵をころころ変えられたら危ないと思いません?」
「も、持ち主本人なんだからいいだろ……」
「本人さえも変えられないからこそ堅い鍵なんじゃないっスか」
「む……」
真っ当にも思える理屈に良一はやりこめられそうになる。やりこめられそうになりながらも――
「本当に…… 無理か?」
「無理っスね、諦めてください」
良一はレジャーシートの上、開けられる時を待っていたバスケットの蓋を開き、中を漁る。
「そうか…… 無理か……」
そして色とりどりに並ぶサンドイッチの中から、チキンカツサンドを取り出すと、
「無理、なんだな?」
クモの眼前に差し出し、無表情に念を押した。
「本当に、無理、なんだな?」
「ム……」
「絶対に絶対に、無理、なんだな?」
「………………」
チキンカツサンドを挟み、互いに見つめ合うこと数秒。
「……ほ、本当に、む、無理なんっしゅよ……?」
「半笑いで目ぇ逸らしてんじゃねーよ!」
一瞬にして疑い濃厚だった。
「変えられません変えられません! 本当に無理なんっスよ!」
「ぜってーウソだ! お前今思いっきり迷ってただろうがっ!」
「変えられないものは変えられないんですっ! ノリノリでやってたしカッコいいんだからいいっしょ!? せっかく決まったんだから断固拒否っス!」
「誰もノリノリでやってねーよ! っていうかやっぱお前が拒否してんじゃねーか!」
わーわーと、のどかな緑の丘に一人と一匹のわめく声が響く。
そんな騒ぎを聞きつけたのか、チキンカツサンドの作り主がいつもの笑顔で戻ってきた。
「ただいまー、今日も楽しそうねー」
半ば掴みかかりそうな体勢の良一と、半ばチキンカツサンドに掴みかかりそうな体勢のクモがそちらを向いた。
「あ! おかえりなさいっスー!」
「……おかえり」
ステラを見つけたクモがひょろろんっと彼女のもとへ飛び、良一はここまでかと座り直す。
「何話してたの? すごく盛り上がってたみたいだけど…… あら? お腹すいちゃった?」
良一の右手にあるものに暢気な問いかけをくれるステラ。
つっこまれるのも面倒に思い、良一はそっぽを向いて二口でそいつを腹にしまう。「あー」とクモが口元に指をあてていた。
「ステラ…… あいつは、なんか言ってたか?」
「ああ、えーとね――」
家から良一とクモを連れ立ったステラは、鍛冶の神に挨拶に行ってくると言ってこの場所を離れていた。
大きな力をぶつけあい、神の住み家そのものを吹き飛ばすに至った昨日の一件。ステラに対し全てを誤魔化すことは不可能と断じた鍛冶の神は、親切にも口裏を合わせることを良一に提案してくれていた。
「叢雲の使い方を教わっているうちに事故が起きた」。そう言っておけと言われた良一は他に思いつく言い訳もなく、その提案を受け入れた。
鍛冶の神の勧め通り、「別に怒ってはいない」とも伝えておいたわけだが、その話を聞いたステラは、
――『それじゃあ! 私が謝りにいかないといけないね!』
と、なぜか目を輝かせてしまった。
「謝りに行く」といういかにもな保護者っぽさが、彼女の琴線に触れてしまったのかもしれない。
そしてそんなステラは今、「えーとね」のあとに後ろを振り向き――
「ほら、あそこ」
丘から見える湖の向こう、ステラが戻って来た方向へと手をかざす。
「……?」
ずしーん、ずしーん、と歩く度に地鳴りが起こりそうな巨体と筋肉――
「ぶふぅっ……!」
昨日飽きるほどに見たそいつが、こちらに向かってゆっくりと丘を上っていた。




