30.神域
「おかえりリョウちゃん、どうだった?」
夕暮れの玄関。迎えたステラの第一声に、良一は身を硬くする。
「え……? どうって……」
「うん? あんまり楽しくなかった?」
良一は思い出す。
そういえば今日、家を出てくる時の言い訳は『この世界を一人であちこち飛び回ってみたい』とか、そんな他愛の無いものだった。
「あ、いや…… 結構良かった。いい気分転換になったと思う」
「そぅお? それなら良かったね。晩ご飯そろそろ出来るから、さ、入って」
「あ、ああ……」
暖色の明かりの下で見るステラの表情。それがいつもと変わりないことに安心する。
靴を脱ぎつつリビングへと戻っていくステラを見ていると、クモから思念が送られてきた。
『……心臓に悪いスな』
『ああ……』
この世界、辿り着いてから今日まで、ステラと居所を別にした日は初めてだった。もちろん、一人で外に出たことなどは一度も無い。今日の良一の行動には、拭いきれない唐突さと不自然さがあった。
「あ、そうそう! リョウちゃん、クモちゃんしらない?」
「へ?」
リビングへと消えたはずのステラが、廊下のドアからひょっこりと顔を出す。
「ク、クモならここにいる。途中で会ったんだ」
「あら、そうなの。一緒に遊んでて遅くなったのね~」
言い残し、再びステラはリビングへと消えた。良一はほっと息をつく。気のせいか体の中のそいつも、ほっと息をついたような気がした。
『……こいつは、ダメだな』
『そうっスね…… 今日みたいに丸一日調査とか、てきとーな理由で毎日出来るものじゃないっス……』
今日にしても、正確には丸一日を使えたわけではない。昼食後の個人授業を断り、こうして日暮れまでを使えただけだ。
この『世界』の考えを探ること―― それは今の彼らにとって、実際には「ステラの周囲を探ること」に近しい。調べるためにはどうしても一定の距離を置く必要が生まれる。仕方の無いこととはいえ、そこに後ろめたさと、嘘をつき、のけ者にしてしまっているという罪悪感もある。
『どうするっスか? 坊ちゃん』
『……タイミングを見計らって、少しずつやっていくしかないな。それほど広い島でもない、見るだけならなんとかなるだろ』
『大丈夫なんスか?』
『多分、な…… それより、ステラに直接聞いてみたいことがある』
『はい?』
そう言い残して思念を切った良一は玄関を後に、自らもリビングへと入っていった――
「島の外?」
良一の隣、ステラが小首を傾げる。彼がその話題を振ったのは、三者で囲む夕食の最中だった。
「ここって空に浮いてる島なんだよな? 島の外って何があるんだ?」
ステラの手元のプレート、チキンカツに添えられたフライドポテトを抱えたクモが固まった。大丈夫なのかと言いたげな顔で良一を見上げてくる。
「ん~」
目を閉じて若干上を見上げ、言葉を選んでいるような仕草を見せるステラ。
禁則に絡んでいる事柄であり、尋ねることに不安が無いわけではない。しかし良一には、この問いかけ自体になんらの問題は無いという確信があった。
彼女は良一が空を飛べるということを知っている。それを知りながら、彼に一人で外に出ることを許したのだ。ならばこの世界の端の光景、良一にとっては異様でしかないその光景を彼が見る―― それは想定されていて、それで構わないということだ。
良一は何でもない風を装い、食事を続けながら彼女の返答を待った。
「……何も、無いって言えばいいのかな?」
「……?」
歯切れの悪い言葉に、良一は味噌汁の椀を口元に彼女の顔を見る。
「ねぇリョウちゃん、実際に外に行ってみたりは……」
「いや、してない。島を出ても仕方無いし……」
「そう」
その普段通りの穏やかな表情から、窺えるものはなにもなかった。良一が椀をテーブルに置くタイミングで、ステラの言葉は続く。
「ここはね、領域なの」
「領域……?」
「世界の中にある小さな世界。いえ、中というよりは裏と言った方がいいかしら」
多くの世界では、その世界の中に別の世界というものが存在している。それは時に「別の時空」であり、「並行世界」であり、「鏡面世界」等でもある。
『世界』が表としている最も大きな本流に対する裏。一部の力を持った存在はそこに干渉し、自らを置くことや、独自の世界を構築することが可能なのだという。
今良一がいるここも、そんな裏の世界の一つ。ステラはこの場所を、『神域』と言った――
「ここは神様が作った世界、そういうことか?」
「そう、と言っても私が創ったわけじゃないけどね。神族はいくつものこういった世界を持って、それぞれの住み家としているの」
「おれの…… 世界でも?」
「リョウちゃんの世界の神様のことは私にはわからないわ。でも神族がいる世界なのなら、同じなのかもしれない」
良一の世界にも、叢雲に関する伝承のように神様の絡む逸話は多い。それは彼の住む国だけになく、幼い彼がまだ見ぬ海外にまで残る。しかし人類は未だ、神というその存在そのものは掴めないでいる。
自身の世界にもこの場所のようなものがあるのだとすれば、それは納得のいくことのように思えた。
「もし…… おれが出ようとすれば、この場所の外には出られるのか?」
「そうね……」
ステラは箸を置き、目を伏せる。
「……本気でその気があるのなら、リョウちゃんの力なら出られるのかもしれない。表と裏を繋ぐ次元の切れ目、そこを見つけて強引にこじ開けることが出来れば……」
「切れ目? そんなもの…… そんな場所があるのか?」
「ええ、私達神族にとっては扉のようなものね。目に映るようなものじゃないけど、たしかにあるよ」
今日飛び回った限りでは、それらしきものの発見には至らなかった。まったく知識に無い話で、注意すら払いようが無い。
――探してみるか? いや……
得られた新たなとっかかりに過ぎった思いに、良一は小さく首を振る。
正直を言えば、今は何を調べていいのかもわからない状況ではある。しかしそれでも、この「とっかかり」を追うことは何か違うような気がした。
『世界』は良一に、「島を出るな」と言った。ならば――
「リョウちゃん?」
「……え? あ、ああ…… 何?」
思考にうつむきかけていた頭を、良一は戻す。
「なんだか少し、元気になったみたい」
「……?」
まじまじと、微笑みを浮かべ見つめてくるステラ。その唐突な一言への理解に、良一の背に焦りが沸き立つ。
「そ、そうか? おれは、別に……」
「今日はいい息抜きだったのね。それはとてもいいことね」
「あ……」
しかし、ステラはそれ以上を追及することはなく、食器を重ねて席を立った。
「……ちょっと、深入りしすぎたっスかね?」
「いや……」
キッチンへと入っていったステラを、良一は目で追いかけ続ける――
今の自分は、思慮に欠けていた。
深入りし過ぎたかと言われれば、そうかもしれない。思考に沈みかけたり、妙に行動的であったりと不自然だったと自身でも思う。
だが今は、そんなことよりも。
席を立ち、立ち去るステラの背。そこに見たほんの些細な違和感が、良一を釘付けにしていた。
解決への糸口――
『世界』に選び抜かれた少年の感覚が、今そこに触れようとしていた。




