25.閉じた輪の理
ふつふつと両肩に、不愉快が募る。
「……ここにきて、責めるのかよ」
逃れ得ない罪の意識への指摘と、人間性を否定されたような感覚に、苛立ちが湧く。
「知ってるさ……! バカにすんな…… カルマってのは、因果応報ってやつだろ」
表現の出口を失った感情が、体の中で爆ぜる。
「悪いことをしたら悪いことが返ってくるってか? あの時のおれが悪党だったから、今のどうしようもねぇ状況が出来てるってか?」
憤り。体に渦巻く赤黒い魔力と、心地の良い―― 自虐心。
「だがだったらどうだってんだ…… 殺らなきゃ殺られる世界だった……! 事実殺らなきゃおれは殺されてた! 悪行だろうがなんだろうが殺られる前に殺っちまわなきゃ――」
「それは違うわ」
「何が違う!」
噴き上がった怒気が大気を震わせ、ステラの背中を凪いだ――
顔を上げ、獣のような眼を飛ばす良一。
風さえも止まった張り詰めた空気の中、立ち上がった彼女が振り返り、告げる。
「悪いことをしても、悪いことなんて返ってこないわ」
「え……?」
体から、膨れあがった毒気が抜けていく。それほどに彼女の顔は平静だった。
「『世界』が特別にそう定めているのならば、そういうこともあるのかもしれない。でもそんな理を置く意味は『世界』には無い。人一人の善悪―― 社会ごと、個人ごとに違う道徳の価値基準に、『世界』が焦点を合わせることはない。私達からすれば無制限に思える『世界』の計算能力にも限界はある。非効率で複雑が過ぎることに、『世界』は力を割かない」
淡々と紡がれる言葉には非難めいた色はおろか、感情的になった良一をなだめようという意図すらも映らない。それはただただ、物事の説明のために並べられていた。
拍子を抜かれた。そんな様子で良一は、一つため息を吐く。
「……冷てぇな、『世界』ってやつは。まぁ、その通りなんだろうがよ……」
感情の起伏に頭を揺さぶられ、ステラの言葉は理解半分だった。しかし理解には充分で、それが尤もらしいことも理解出来ていた。
「でもじゃあなんだよ、カルマってのは…… 報いってのはなんなんだよ」
「カルマは、『世界』の理ではなく、人の理」
「人の……?」
ステラは右腕を上げると、その指先を彼の顔へと向けた。
「人は…… 記憶をしていく生き物。そして記憶を支えに、未来を考える生き物、そうよね?」
「……あ、ああ」
感情を昂ぶらせた後の気まずさに、良一は答えとともに顔を背ける。彼女の指先は正確には顔よりも少し上、頭を指しているようだった。
「ならば未来は…… 過去の記憶によって作られる、そうならない?」
「……何が言いたい」
「考えてみて? 大事な話よ」
掠れたため息をまた一つ、良一は黙り込む。
考えろと言われても、そんな気分じゃなかった。今ここで出す話というからには、本当に大事な話なのだろう。そうは思っても、まだ収まりきらない感情は素直さを弾こうとする。
責め立てるように示された復讐劇の顛末。悪行だと咎められ、咎められたことが、感情から真っ直ぐさを奪ってしまう――
「……あ」
何かが瞬いたような感覚に、良一は思わずとステラに向かって顔を上げていた。
「そう、それがカルマよ」
その一瞬の閃きの様子に、ステラが笑みをこぼした。
「報いとは、行いそのものが巡り巡って返ってきたり、何かや誰かを通して返されたりするものじゃないの。それを行ったという記憶が考え方に影響し、次の行動に―― 未来に影響するということ」
「考え…… 方……」
「悪いことをした。そう思うことは、自分を嫌いになることや、自分の在り方に自信を持てなくなることに繋がりやすい。そして悪いと思うことを重ねていくと、それはやがて習慣となり、『常に悪いことを行う自分』が作り上げられていく。それはとても…… 不幸なことだわ」
不幸なこと―― 曖昧に示されたその結びは、言われずとも分かることだった。
人が『悪いと思うこと』、そこには大小差異あれ、現実的な悪事が含まれる。
『世界』の価値基準は関係無い。『悪いことをした』と思うのは、その世界で育った人間であり、その人間の住む社会的な価値基準において『悪いことをした』と思うのだ。
ならばいずれは、その『悪い』という思いが湧く行為―― 現実的な悪事によって爪弾きにされるだろう。社会的な悪として、罪に問われることもあり得るだろう。そして自分を、許せない悪党として抱え続けていくことになるのだろう。
それは確かに、不幸なこと―― だ。
「過去、現在、未来―― それは認識のための視点で、本当はそんなものも無いわ……」
「……?」
そう言って、もう一度いつもの穏やかな微笑みを見せたステラは、再び背中を向けて池へと屈み込む。
「過去の記憶が、現在のあなたを作っている。でも、未来に見えるあなたの像が、そこを目指す現在のあなたを作っている。常に動き続ける現在は、あると思った瞬間には未来にあり、思いは既に過去にある。あなたが立っている確かな場所はどこにもなくて、あなたはどこにでも立っている」
「それは…… どういう……」
掴みどころの無い、理解しきれない話。良一にわかるのは、全身が実体を失ったような痺れと、ぐらつく感覚だけだった。
「思い一つ、それだけということよ。それが――」
ステラの指が水面に伸ばされ、浮かぶ葉に混じって並ぶ二つの小さな花弁を押す。
「彩を創り、形を創り、道を創り、創り上げるの。思い一つを水に浮かべた、その瞬間に」
波紋さえも見せずに滑っていく二つの白い花。
花は池の中央へと向かいながら、離ればなれ、その道を違えていった。
「だからリョウちゃんは、ちゃんと選ばなきゃいけない。選んだ後、何度となく訪れるだろう迷い。それを振り切っていけるくらいに、強い決意―― 思いを持って、他の誰でもない自らの思いのみで道を選ぶの」
「おれの……」
「未来に予想出来る結果も損得も、基準にはならない。どちらを選んでも正解であり不正解……」
花を見送った背中が、すらりと立ち上がる――
「正解を作るのはあなたの決断への思い、それ一つよ」
その背中は、夜空さえもを支えるように毅然としていて、良一ははじめてステラに、人ならざる者への畏怖を抱いた。




