23.内奥
数日が過ぎた――
学校をステラの個人授業に、自宅を草原に建つ奇妙な家に、世界を異世界に。
立つ場所を変えただけのような、同じリズムで刻まれていく日々が、緩やかに流れていった。
退屈を感じないといえば、嘘になる。
将来の不安を思わないかといえば、そんなことはない。
それでもその日々は、良一にとって大切なものだった。
清浄に、静かに、閉じられた世界。
いつしか良一は、自身の口調が以前よりも、穏やかなものになっていることに気づいた。
そんな、ある日――
「ステラ、話があるんだ」
夜半と呼ぶには少し前、良一は部屋からリビングに現われると、ステラに声をかけた。
ソファーに腰掛ける彼女の手には、いつも使っている理科の教科書があった。どうすれば良一に伝えやすいのか、それを考えてくれているのだろう。それは聞かずとも、もうわかっていた。
彼女は良一を一瞥すると、微笑みを浮かべ教科書を置いた。そしてその手を、ソファーの傍らでだらしなく眠りこけるクモへと伸ばす。
「……いい、寝かせといてやってくれ」
「そう?」
「そいつに聞かせなきゃいけないようなことなら、後で自分で話す」
良一の雰囲気から、大事な話だと察してくれたのだろう。ステラは小さくうなずきを返す。
だが、当の良一本人には、それがどれだけ大事な話になるかの判断はついていなかった。尋ねることに意を決する必要はあった。しかし尋ねたあとのことは、まだ何も考えられてはいない。
背を向けてリビングを出ると、ステラが立ち上がり、ゆっくりと良一のあとを追う。もう些細なことに声を掛け合う必要はなかった。
知らず家族のようになっている関係を、不思議なものだと良一は思った。
庭の池のほとり。以前とまるで同じようにベンチに腰掛け、二人並ぶ。
「それで、どうしたの?」
この場所を選んだのは、尋ねるべきかどうか、その迷いを断ち切るため。その甲斐あってか良一は深呼吸一つ、それだけで心を構えることが出来た。
「……答えを聞きたい。いや、答え合わせをしたいんだ」
「答え合わせ……?」
それはこの場所でステラから出され、考えてきたこと。
この静かな世界で彼女とともに過ごし、気づいてきたこと。
そして、最初からわかっていたのかもしれないこと。
「『過酷』、についてだ」
選択―― 自らの二路につきまとう、二つの影。その正体を確かめるため、良一はステラを呼び出していた。
固い表情の良一を見、ステラは目を伏せると、視線を池にたゆたう月へと送った。
「言ってみて」
それだけを言い、ステラは良一の答えを待つ。
ほんの少し言葉を整理した良一は、自分なりの言葉で、自分なりの答えを口にしていく。
「おれに出された道は、二つ。いや、ひょっとすると他にもあるのかもしれないが、ステラの言う通り、大きく分けて二つなんだと思う」
「そうね」
二つ以外の道。この数日でそれも考えた。
しかしそれはどれも自棄に近いもので、それを選んだ先にあるものは、どれも人生と呼べるものとは思えなかった。選ぶに値するもの、彼にとっての人生の根幹とも言える選択は、やはりこの二つ以外には無かった。
「選べる道は、正面から向き合い続けるか、徹底的に避け続けるか、それだけだ」
0か1か。半端もそれ以外も無い。それは自らの人生に対し、確固たる芯を通すこと。
選択を避けた中途な心構えが、被害者を装う心持ちがどんな結果をもたらすのか、それは最初の悲劇でもう理解していた。
ステラは池に顔を向けたままで、静かに肯く。
「ええ…… だけどそれには、それぞれの形で過酷がつきまとう」
「ああ、そうだ。それは絶対に避けられない。おれには、避けられない」
良一に振り返ったステラが、軽く微笑みを見せる。顔を正面に戻しながらに「続けて」というステラに、良一は自らの正解を見た。
「一つ目の道…… 『世界』の求めに答える、異世界に向き合うということは、そのこと自体が既に危険で過酷なことだ。こんなことは子供でも…… 異世界に行ったことのないただの子供でもわかる。しかも『世界』は、おれのレベルに合わせて問題の解決が出来るかを判断する。仮にいくらおれが強くなっていったとしても、危険が…… 過酷が消えることはない」
「そうね……」
強さだけでは、どうにもならないこともある。それも良一はもう知っている。
「そして、もう一つの道…… 禁則を使って、異世界を避け続ける道。そっちには――」
良一は夜空へと、その解を投げる。
「過酷は、何も無い」
それは明らかな事実。客観的な事実だった。
「もともとが、向き合ったところでなんの見返りも無いことなんだ。ただの算数の問題だ。何をどうしようとプラスがゼロなら、やる価値は無いし、やらせようという誰かの意図は全て詐欺師か泥棒の悪巧みか、狂信者のお為ごかしでしかない。それでも避けられないのなら、あとはマイナスの大きさの問題だ。一つ目の道のマイナスの大きさに比べれば、もう一つの道のマイナスの大きさは、何も無いにも等しい」
――『A>B』。
もう一つの道が、全ての過酷を退けられるわけではない。異世界に呼ばれてしまうことは、それ自体がすでに普通ではない『病気』で、大きな過酷だ。
だがそれでも、過酷の量を正の数としたこの式が動くことはない。AはBの要素を含み、その上で、肥大しているものなのだから。
「『禁則』について聞いた時、叢雲がそう思ったように…… いや、おれもそう思ったように、もう一つの道こそはまさに抜け道。どうしようもないおれの状況で、それでもマイナスを一番小さく出来る、そんな道だ……」
良一は腕を伸ばし、前方の、遙か暗がりの影を指す。
「見たままに…… あの山と、あの山。どちらが大きいか小さいか、目に見えるものそのままに、そこに嘘は無い」
夜の中に浮かぶ、黒と黒のシルエット。その過酷の比喩は、異なる高さを持ってそびえていた。
「そう、嘘は無い。偽りも無いんだ……」
伸ばされていた腕が降り、彼の視線が、地へと降りていく――
「……あくまで目に見える、事実だけになら」
夜に溶けた山は、その高さのみを伝える。その姿は陽の光に晒されれば、また違った情報を与えるだろう。だが、そういうことではない。それもただの目に見える事実だ。
良一が見つけた正体。『A>B』が『A=B』と、選択を迫るに値するに至る過酷の要素は、誰にも推し量ることの出来ない―― 自身の内側にあった。
「どの口がそれを言うのかと、お前のようなやつが何を言い出すのかと、言われることかもしれない。おれ自身も、そう言いたくなる……」
その手は脚のポケットを探り、固い感触を確かめる。
「でもおれには…… 過酷なんだ。そう思わないことは、強がりでしかないんだ……」
引き抜いたその手には――
「全てを無視して、逃げ続けること…… 救えるかもしれないものを、見捨て続けていくことは……!」
青銅色の、あの指輪。確かに存在したあの日々の、証があった――




