20.示唆
透き通り過ぎた青空。すでに頂点に昇っているだろう太陽の姿は、今日も当たり前のように無い。
光射すバルコニーに出た良一は、流れる涼やかな空気に身をさらす。吹く風の向こうには、遠く山岳が見える。叢雲を作った、あの声の主がいる方角だった。
良一はバルコニーの床を軽く蹴ると、宙を飛んで高い玄関屋根へと降り立つ。そして一昨日と同じように、斜面に寝転がると空を仰いだ。
少し遅く目覚めた今日。ステラはこれまで通りの様子で朝食を用意し、午前の授業を与えてくれた。
彼女は変わらない。自身を神だと明かしたあとも、良一の過去を知ったあとも。
この世界で過ごした数日、気づけば良一は変化を恐れるようになっていた。もはや『現実』では満たされる見込みのない、本来あったはずの日常。それをこの世界と、彼女が与えてくれる日々に映し見ていたのだ。
そう自覚出来たのは、つい昨日のこと。クモが彼女に対し、正体を知りたいと、良一の想いを投げかけた瞬間だった。
「なにをやってたんだ、おれは……」
彼女は変わらなかった。世界も変わってはいない。知ってしまうことで変わったものは、何もなかった。
良一の見ていた幻想は守るも破るもなく、最初から良一の中にしか存在していなかった。互いに知り合えば壊れると思っていた関係性も、蓋を開けてしまえばそれも幻想―― 良一の思い込みに過ぎなかった。
遠回りをしたように思う。しかし、無駄な遠回りではなかったとも思う。
幻想の中にあった穏やかな日々。それはただの思い込みだったにしても良一の心を軽くし、彼女との間に関係を作った。その遠回りがなかったとすれば、昨夜のような機会は生まれず、今これほどまでにこれからについて真剣さを持つことは出来なかっただろう。
神のお告げだからではなく、ステラの助言だからこそ、ことに当たろうとする素直な心を保てるのだ。
――『道は二つに一つ、それを選ばなきゃいけない』
二つの道、それはもう聞くまでもなくわかっている。
自らの未来には、ある意味では一つの道以外は敷かれていない。しかしその道の内側には、はっきりと二つの道が用意されている。
『世界』の求めるままに、道具となり続ける道。
『世界』の求めを拒否し、不良品を演じ続ける道。
どちらを選ぼうとも良一に得は無い。どちらを選ぼうとも『現実』の損失は免れない。ただ、失うものの大小があるだけだ。
ならば損は小さな方がいい。そう考えるのが賢明で、当然の判断だと言えるだろう。そしてステラは明確に、損を小さくする手段を示している。
だが、ことはそれほどに単純ではない。
――過酷。
彼女はたしかにそう言ったのだ。
賢明だと思う方―― 『世界』の呼びかけを無視し、無理矢理呼ばれようとも禁則を利用して脱し続ける。例えこちらを選んだとして、程度がどうであろうと生活上の困難を抱え続けることに変わりは無い。他者に理解されない『病気』と共に生きる。それを過酷と呼んでも、なんらの不足も無いだろう。
しかし、もう一方―― 『世界』の呼びかけに応え、『世界』の求めを果たし続ける道に比べればどうか。
良一にとって始まりの異世界であり、彼に特殊性を追加し、今の境遇を作り上げたとも言える彼女がいた世界。そこでの日々はそれだけですでに過酷にして、彼の人生を狂わせるに充分な時間を奪っていった。
世界により、流れる時間が様々であることは既に分かっている。彼の世界とほぼ等しい流れの異世界もあれば、一週間が一時間、わずか数時間が三日など、これまでもたしかな時差を経験している。
奪われる現実の時間がどれほどか、それは訪れたその世界次第であり、戻されたその時までわからない。
喪失される時間に比例して、小さくも大きくもなる現実への影響。幸と出るか不幸と出るか、運任せな時間の速度への考察はさておき、なんにせよこれだけは間違い無い。
長く留まることは、危険だ。
『世界』がどんな問題を抱えているにしても、真正面から当たれば時間は消費される。そこに流れる時間が良一の世界の数分の一か、数倍なのか、あるいはまだ見ぬ方向ではあるが逆に動くのか、それは関係無い。
異世界で過ごす時間が過ぎれば過ぎるほどに、その影響力は乗算されていく。仮に良一の世界での時間がまったく過ぎなかったとして、良一自身に流れる時間―― 肉体的な年齢が固定されるという保証はどこにもない。身震いのするような最悪の想定は、今異世界にいる、この瞬間にさえもある。
また、現実との乖離の点を差し置いても、もっと単純な危険性というものがある。
異世界は、そのものが危険だ。魔法が忘れ去られ魔力も薄い良一の世界に比べ、異世界は異様の塊だ。強い力を持つ人々や生き物が住み、それゆえに、力による支配が成り立っている世界も多い。そんな場所に降り立つ余所者に、安全などは担保されない。
――『力を増せば増すほどに、あなたを求める『世界』は増えていく。『世界』の求める解決も、あなたに応じてより一層と困難なものが含まれるようになる』
昨日そう言ったステラの言葉から解釈するに、きっとこれまで出会ってきた強者や今の良一を、更に上回る存在に相対しなければならない可能性も出てくるだろう。それは自らがいくら強くなろうとも、安心には繋がらないということでもある。
そして、異世界の危険性といえば、何よりも危惧されるべきはその環境。
飛ばされた異世界が、良一にとって生物的に生息できる環境であるのか―― その最低限を、『世界』が約束してくれるという保証も、やはり無い。
空を見上げ、眠気を誘うような日射しと空気の中、良一は目を閉じるでもなく、その薄い青さを眺める。寝転んだ視界に広がる雲一つ無い、球状のキャンバス。現状の思いと午前の授業が、淡く良一の中で混濁し、こんな言葉が口から紡がれる。
「A、イコール、B……」
そう、その言葉こそは、良一が理解している迫られた選択の骨子だった。
ことはそれほどに単純ではない。誰にでも、子供にさえもわかるような損得の問題。だがステラは――
――『どちらの、過酷を』
そこに含みを、彼女らしい、「よく考えて」と言わんばかりの、そんな含みをもたせていた。
『A>B』ではない、『A<B』でもない。
『A=B』―― その二つの選択が、選択ゆえの過酷が、同等であるかのようにそう言ったのだ。
――どちらも、過酷だと。
「リョウちゃーん、いるー?」
「……!」
かちゃりと真下のバルコニーの扉が開く音とともに、間延びしたステラの呼び声が聞こえた。
「ああ、どうした?」
屋根の下から現われたステラに向かい、良一は身を起こして顔を覗かせる。昼食後の食休み、午後の授業の開始時間は良一次第で、用事が無い限りステラから呼ばれることはなかった。
まさか昨夜の選択の答えを―― と、少しばかり身構えてしまう良一だったが、ステラはにっこりと微笑むと、昨日と同じ黄色い水筒を振って良一に言う。
「ちょっとお散歩しましょう? いいお天気だから、ね?」
「あ、ああ……」
ここはいつもいい天気じゃないか、と脱力気味に思いつつ、良一は屋根を降りるのだった。




