18.審判
「今のは……?」
何かをされた、それはわかった。だが体に感じるものは何も無い。良一は体の中に消えたらしい光を追うように、自分の背中を振り返る。
「私から出来るせめてものこと。リョウちゃんに少しだけ、『世界』を理解出来る力をあげたわ」
「理解……?」
自らの体に変わった様子は無い。何かを感じ取れる、そんな特別な感覚も受けない。
「理解と言っても、たった一つだけのことよ。あなたがこれからを選ぶために、とても大切なこと」
見る者に安心を与えるような、いつものステラの微笑み。そこに真剣なものを感じた良一は、わずかに身を固く、背を改めた。そんな空気を読むように、クモも彼らに身を寄せる。
「リョウちゃんが理解出来るようになったのは、とても端的な『世界』の意図。来て欲しい、帰って欲しい、それをやってはいけない。その理解」
「……?」
「あれ? それじゃ三つじゃないっスか?」
首を傾げるクモに、微笑みとともにステラは首を振る。
「その理解は大きくまとめれば、『世界』がリョウちゃんを望むか望まないか、そこだけなの。それ以上は何を知ることも出来ないけれど、この力はリョウちゃんにとって、命と意志を守るために必要なものになる」
命と意志、重い言葉だと思った。意志はよくわからない。だがこの平和な世界で、暢気なステラから命という言葉が出た。そのギャップが良一を、悲壮から緊張へと駆り立てる。
「リョウちゃんはこれまで、異世界に渡ることに受け身でしかなかった。でもこれからは明確なサイン―― 異世界への『扉』を認識することが出来る」
「とびら!? なんかドアっぽいのが見えるっスか!?」
「『世界』の「来て欲しい、帰って欲しい」という意図を、視覚的に捉えることが出来るようになったの。リョウちゃんの周囲に事象化するから、実際に物体として現われるわ。おそらく魔法のような力がまだ存在を許されている『世界』で、それを認識している生き物なら、リョウちゃん以外にも目にすることが出来るでしょう。もちろん、あなたにもね?」
「お、おー」
よくわからないといった様子ながらも、相槌を打つクモ。
良一は――
「ステラ、それは…… 開けなければ、どうなる?」
「へ?」
浮かない声で、そう聞いていた。
「……これまで通り。リョウちゃんの世界からなら、いつか強制的に迎えられる。異世界からなら、用が済み次第ですぐに帰されるでしょう」
「やっぱりな……」
「ええ!? それじゃ扉意味ねーじゃねぇっスか!」
半ば予想通り、そんな答え。それだけに落胆は薄かった。
そうでなくてはおかしい。これまでの召還、良一は一度たりとも意識がはっきりとしている状態で、何かに引きずり込まれる、どこかに入るといった感覚を受けてはいない。自らの行動でどうこうという問題ではないことはわかっていた。
そもそもが『病気』を避ける方法は無いと、ステラ自身が言っている。
だが――
「……あと一つは?」
話はまだ途中だ。
「「来て欲しい、帰って欲しい」の理解がその扉なら、「それをやってはいけない」、それはどうわかる?」
今、ステラがくれたというもの。ならば最後まで聞く必要がある、そう思えた。
望む未来は無い―― 捨て鉢になりそうな心であっても、素直に命まで捨ててやるつもりは無い、そうも思っていた。
先に立つ敵を見据えるような顔をした良一に、ステラは一つ頷きを見せると、
「その理解こそが、リョウちゃんにとっては最も重要なことよ」
そう言って、先を語り始めた。
「『世界』はリョウちゃんに、自らに起こった問題の解決を求めている。ただその問題を、『世界』があなたに直接伝えることは出来ない。あなた自身が『世界』の振る舞いから、予測しなければならないことなの。それはとても困難で、解決を迎えたあとですら、何が問題だったのか見えないこともあるでしょう。人が人の心の奥底を、知ることが出来ないように」
良一は黙って頷きを返した。『世界』は生き物、人間のようでいて、人間ではない生き物。その規格の違いから来る人間以上の理解不能さは、今更聞くまでもなかった。
「正直を言えば始まりの場所、この子がいたという世界でさえも、リョウちゃんが解決に導けたということは驚異的なことだわ」
言いながら、ステラは右手を差し上げる。その手のひらには、例の指輪があった。
「かなり感情的に動いていたあなたは、いつ『世界』に追い出されてもおかしくなかったと思う」
「追い出される……?」
「『世界』が思う、やってはいけないこと…… 禁則」
「……!」
――『……試すか?』
「どうかしたっスか? 坊ちゃん」
「……!? あ、いや……」
思わずと飛んでしまった思考に、良一は首を振る。
心当たり。半ば確信を持っていたそのルールを、今までの話に照らし合わせ、口に出してみる。
「なぁステラ…… それは…… 問題の解決が出来なくなり、『世界』に見限られるってことなのか……?」
ちらりと、ばつが悪そうに視線を向ける良一に、ステラは「ええ」と肯定を返した。
「あなたが問題の解決に用を成さない。いることが害悪となる。大いなる計算を外れた未知数の行動を取る。そういったことがあれば、『世界』はあなたを排除するでしょう。薬でないのならそれは異物。生き物としては、外に出さなければならない」
「……わかりやすいな」
「でもそれがあなたにとっての、『世界』の意図を理解するヒントになる。「やってはいけない」ことがわかれば、そのレールから外れることなく、最後まで進むことが出来る」
ステラは指を立てると、良一の頭へと持っていく。ひやりとした柔らかな感触が、良一のこめかみに触れた。
「禁則に触れた時、あなたは『世界』の叫びを直接に受け取ることになるわ。それは人の脳には抗うことの出来ない苦痛。意識を維持することさえままならない」
「うげ…… 大丈夫なんスか? それ……」
「受け続ければ大事に至ることもあるかもしれない…… でも意識的に本気で禁則を犯すのであれば、リョウちゃんは何事も無く、自分の世界に戻ることになるでしょう」
「……!」
「え?」
良一とクモ、気づいたタイミングは同時だった。
『世界』の意図を計り、解決への道しるべとなるという『禁則』。そこに前提を覆すような、解決への道が敷かれていた。
「ステラ様、ナニゴトも~…… なくなんスか?」
自身の聞き間違いを疑うように、クモが尋ねた。
「無いわ。もう一度そこに呼ばれるかはその『世界』次第だと思うけど、何事も無く、戻れるわ」
「へ? いや~…… そうなんス…… か?」
ぽりぽりと、頬を掻きながらクモは目を逸らした。その拍子抜けしたというような表情、言わんとすることは良一にもわかる。
「……おれを追い出すだけなのか? 『世界』は……」
「『世界』にとって大事なのは、リョウちゃんが問題を解決出来るかどうか、それ以外に無いの。出来ても出来なくても、用が無くなれば帰す、それだけ」
それはひどく空虚に感じる理だった。
報酬も無ければ責任も無い。『世界』にとって、良一という個人は認識されていなかった。ただ、そこにあるから使う。使い終わったから返す、役に立たなかったから返す。
その関係性は、人と道具。それも一切の感情を挟まない、まさに――
「まるで一時の飲み薬だな…… おれは」
一過性、使い切りの道具のようだった。
乾いた感想に沈黙が訪れる。やがてぽつりと、クモが口を開いた。
「……じゃあもう、いいんじゃないスかね?」
シラケ切ったような表情からの、シラケ切ったような声。
「やってもやらなくても一緒なんっしょ? 『世界』とかいうののワガママに付き合う必要なんて無いっスよ。扉出してきても無視して、無理矢理呼び出すようなら禁則やらかして、ほったらかしといてやりゃいいんじゃないスか? 坊ちゃんがわざわざ人生やら命やらかけて、苦しんでやらなくてもいいんじゃないスかね?」
その言葉と声色には、理不尽に対する向かっ腹と、呆れが多分に含まれていた。
投げやりで、それでいいのかと思ってしまうような物言い。しかしそれは紛れもない正論だった。得るものはなく、失うものだけが多大にある。そんなものに付き合う道理は無い。
たしかに当然で、反論する理由も無い。良一自身もそれに気づき、その抜け道を選べばいいのではと思っていた。
「そう…… か……」
だが、素直には思えなかった。自身にとってそれが最良の道であっても、その発見すらも素直には喜べなかった。
それはひどく単純な、悔しさ――
これまで自分が現実に苦しみながらも、曲がりなりにもやり遂げてきたはずのもの。それを否定され、自らで否定するかのようで、もどかしく、悔しかった。
良一の隣、すらりとステラが席を立つ――
「……?」
目線をつられた良一の前、彼女は一歩、二歩と池の前へと歩き、足を止めた。
月光にさらされる桃色の髪が、再び吹いた風に揺れる。
「道は二つに一つ、それを選ばなきゃいけない。あなたはどちらを選ぶのかしら」
片手で髪を抑えた彼女が、ゆっくりと振り向く。
「どちらの、過酷を」
異世界の庭。
神は良一の心を透かすように、笑みを送っていた――




