13.大いなるひと
その部屋の石壁には小さな羽虫が這い、ところどころと得体の知れない苔が生す。
座って背にした鉄格子の向こうには、淡い光を放つカンテラと――
『ねぇ、リョウイチ』
この世界で唯一の、彼の希望がいた。
『リョウイチの世界には…… 神様っている?』
『なんだよ、いきなり……』
異世界の少女。彼女の言う『神様』は、良一には正しく、彼女の思う通りに翻訳された。ならば同じような存在がこの世界にもあるのだろう。良一はそう察する。
『……いるにはいるさ、八百万匹くらいいるらしいぜ』
『そんなに沢山……!』
『例えだよ、星の数ほど沢山。おれの国ではな、そう言われてる。違う! 一人しかいない! って言うやつらも…… 他の国にはいるけどな』
仏壇すらも置かれていない、ごく一般的な現代家庭に生まれ育った良一には、宗教は縁遠い物事だった。胡散臭く、関わりたくないもの、そんなイメージでしかない。
『やっぱり…… リョウイチの世界でも実際にはお会いできないのね……』
そう変わらない歳なのに、驚くほどに頭のいい少女。彼女は良一のぶっきらぼうな答えから、彼の世界での『神様』の在り方を理解したようだった。
『なんだ、やっぱりこの世界でも誰かの作り事なのか…… どこの世界も同じだな。たしか弟が言ってたっけ、科学や文明がまだまだな世界じゃ、神様を作った方が大勢の人間を動かしやすいだのなんだの……』
はっと良一は行き過ぎを感じ、言葉を止めた。
自身の世界に比べ、発展の遅れたこの世界。それを揶揄するような物言いになってはいなかったか。そして、彼女が神を信じているとすれば、今の物言いは良くないものではなかったか。
白い石壁の部屋。ほんの数秒と響いた自身の饒舌が、訪れた沈黙に気まずかった。
『リョウイチは…… いると思う? 神様……』
ぽつりと、鈴の音のような声が背中に当たる。
『さぁな…… そっちの神様は? ここにもいるとすれば、どんなやつなんだ?』
彼女の声に傷ついたような様子は無い。良一を安堵を隠し、気だるげに応えた。
『多分…… リョウイチの世界と同じような感じだと思う。この城のある大陸の向こう…… 北方のギャリスや、西国のスタスト、違う文化圏のところではそれぞれ違う宗教があって、また違う神様が祀られている。いろいろなお姿や言い伝えがあるみたい』
『この国は?』
『……ここ―― この大陸は、神様よりも勇者様を祀っているから』
良一は舌打ち一つ、悪態をつきそうになる口を押さえ込んだ。彼女を責めても仕方が無い。そう思えるだけの心の余地を、彼女は与えてくれていた。
『神様がいるとすれば、会ってみたいか?』
『……ええ、少し怖いけど。この国を、この世界を救う施策をお持ちなのなら…… 誰も戦わなくていい方法があるのなら、お教え願いたいわ』
誰も―― それはきっと、自分を意図して言ってくれているのだろう。今の良一には相手を見ずとも感じ取れる、声のかかる向きのわずかな違い。その心根が気恥ずかしくて、良一は軽口を叩く。
『なんだよ、教えてもらうんじゃなくてそいつに全部やらしちまえよ。神様なんだしさ』
『それはよくないと思うわ。自分達の危機は自分達で乗り越えないと―― っ…… ごめんなさい……』
良一は完全に余所者で、彼女の言う『自分達』ではない。唐突に彼女が謝った意味。良一の理解は少し遅れたが、わかってみてもそこには苦笑以外浮かばなかった。
『別に、良くはないがいいさ…… おれの召還だってこの国の力だ。おれがなんとかすりゃ、自分達で乗り越えたことにはなるだろ。相変わらず無駄に真面目だなぁ……』
『そ、そういうものでしょうか……』
首を振りむかせて笑いかけてやると、彼女はよそよそしく目を逸らす。良一は少し空気を変えるつもりで、足元に置いたこの部屋には不釣り合いな、白い陶器のティーカップを鉄格子の向こうに差し出した。
良一の合図に彼女がポットを手に取り、空のティーカップに紅い液体が注がれていく――
『ねぇ、リョウイチは…… 会ってみたい?』
『神様か? そうだなぁ…… おれの世界じゃ、とりあえず死んだら会えることになってるっぽいけど…… 会えるならもちろん会ってみてぇもんだな』
湯気の無い、もうぬるくなっているだろう紅茶。ぬるくてもなんでも、今の良一にとっては最高の飲み物だった。自然と顔が緩んでいく。
『会えたら何かお願いするの?』
『いんや、願うことは特にねぇな。もう死んでるなら欲しいものもないだろうし…… 生き返らせてくれーってのも、なんとなく無理なんだろうってのはわかるしな』
『じゃあ…… 何か、聞くの?』
『ん~、というより――』
鉄格子を通り、差し入れられてくるティーカップ。一口含むと良一は美味そうに息を吐き、言う。
『ぶん殴る』
『えぇっ!?』
穏やかに言った穏やかならない一言に、彼女が石の部屋を響かせた。
『殴るって…… 神様をですか?』
『いやいや、そりゃ殴るだろ。この世界一つとっても無茶苦茶じゃねぇか。全部作ったやつだっていうなら敵う敵わねぇ抜きにして、顔面に一発くれてやるくらいしなきゃ気がすまねぇ』
『え、えぇ……?』
まさに神をも畏れぬ行為の宣言に、彼女が身を引く。
『ま、ほんとにいたらの話だ。冗談冗談』
『……もう、びっくりしました』
ほっとした声を出す彼女を背に、良一は笑って、ぬるい紅茶を喉に落とした――
「……冗談でも、なかったつもりなんだけどな……」
月の光が窓から四角く、白いシーツを灯す。
暗い部屋の中、ベッドに寝転がった良一は、一人そう呟いていた。
――『神族、あなた達の言うところの―― 神よ』
家への帰り道。そう告げたステラはそれからも変わりなく、普段通りに食事を作り、普段通りに風呂を勧め、普段通りに―― 穏やかに、楽しそうに笑っていた。
新たにクモを迎えたこともあるのだろう。家はいつもより賑やかで、まるで今は遠い、異世界など全く知ることのなかった頃の、あの頃の実家のように明るい夜の一時だったように思う。
だが良一はステラ達に受け答えはしていても、何一つ身に入ってはいなかった。
ずっと気になっていた、『ステラ』という一人の人物。今や人物と言っていいのかもわからない彼女の正体。半ば偶発的に知ってしまったこととはいえ、知ってよかったのか、知らない方がよかったのか、それはいくら思考を巡らせてもわからない。
「神様、か……」
そう言われてしまえば、納得出来てしまう。この家も、あの日本語のテキストも、これまで感じた不自然な事柄も、全てが全て『神』という一言の前には納得出来てしまう。
出会ったその日から、それとなく理解はしていた。ステラは人の姿をしているが、自分とは―― これまで色々な世界で出会ってきた者達とは、まるで何かが違っていた。
人間、魔族、魔王、その他様々な、数多く見てきた『動物』。それらとは根本的に何かが違う。どちらかと言えば、まだ魔物の方が近いようにさえ感じていた。
つい先ほど生まれたばかりの『叢雲』。生き物ではなく素材だという羽の生えた小さな少女。ステラに感じていた感覚は、あの存在から受けるものに一番近い。
『生き物』というカテゴリーを離れた何か。それがステラなんだろうと、今更に思う。
――『会えたら何かお願いするの?』
今も胸に刻まれた、彼女の声が虚空に囁く。
「そう…… だな……」
ベッドから足を降ろし、良一は部屋に立つ。
壁に掛けられた学校の制服から財布を引き抜き、握り締める。
知らなければ、今を続けられたのかもしれない。知らなければ、ずっと今に耐えられたのかもしれない。
だが知ってしまった以上、もう堪えることは出来なかった。
『神』という存在―― 『ステラ』という存在が、良一にそうさせた。
部屋を出て、廊下を歩いて、玄関の扉を開く――
「あら、いらっしゃい」
月明かりを受け、輝く庭の池。その前に置かれたベンチに、彼女の姿はあった。
「ステラ……」
良一のために、良一という存在のためだけに、おそらくこうして待っていたのだろう彼女。何も言われなくても言わなくても、それはわかっている。
「教えてくれ…… おれは、どうしたらいい……」
限界を抱えた心。
その吐露を、良一はもう抑えることが出来なかった――




