12.告げ
うっすらと白い身を輝かせ始める月。オレンジの時は、もう地平線の向こうのみになっていた。影を落とす金色の草原を踏み、増えた一匹とともに良一達は家路を歩む。
良一の前に、遠く揺れる桃色の髪は無かった。良一は今、彼女のすぐ隣を歩んでいる。彼らの周囲を飛ぶ、新たな存在がその距離を変えていた。
「おおう! 見るもの触るもの全てが素晴らしいっスな! 実体ってのはいいもんっス!」
叢雲―― ステラがクモと愛称を付けた妖精のようなそれは、自由に考え動ける感覚が楽しいらしく、騒ぎを撒きながら彼らの間を飛び回っている。
そんなものの何が嬉しいのか、良一には理解出来なかった。
「あ、リョウちゃん、今日は何か食べたいものある?」
ステラはステラで相変わらず暢気なもので、あれだけ色々あった一日で、新しい厄介者が一匹増えたというのに何を思うという様子も無い。生まれたての明らかに人じゃないそいつは当然として、ステラも相当に常識からズレているなと良一は思う。
「なんでもいい…… 今日はもう疲れたし、これといって食いたいようなものも――」
呆れ混じりに言った良一の目に、光の粒子を散らせながら夕暮れを舞うそいつが止まる。
「……あれって、何かエサやんなきゃいけないのかな?」
「エサ?」
小さな人のようでいて、生き物ではないらしい謎存在。元が剣だったということもあり、その生態はさっぱり想像もつかなかった。
胡乱な目でクモを見る良一を、ステラはころころと笑う。
「なんでも大丈夫だよ、別にあげなくても大丈夫だし」
「え? 食わなくても平気なのか?」
「難しく考えないで。あの子は力のカタマリそのものなの。リョウちゃんの魔力そのものに、眠ったり食べたりが必要?」
「ん……」
良一の頭に、あの洞窟でステラが使っていた小さな光の球が過ぎった。魔力を操れば良一にも真似て作れそうな、シンプルな力の塊。叢雲があれと同じものだとして、そこに睡眠や食事など、生き物と同じ概念が当てはまるとは考えにくかった。
「……そうだったな。そういやあいつは『剣』か、サビ止めでも塗ってやった方がいいか」
「ん~、それは嫌がると思うけど……」
良一の軽口に、少し困った顔で笑うステラ。当の『剣』は、青い天球に浮かび出した星々に、「お~」と間延びした感嘆を漏らしていた。
「そうねぇ…… 強いて言えば、リョウちゃんが魔力を与えてあげれば、それが一番喜ぶかな」
「おれの魔力?」
「うん、魔力の塊に魔力を充填する感じ。放っておいても常に力は供給されているから大丈夫なんだけど、結いつけられているリョウちゃんからの魔力なら、一気にたくさん元気になるよ」
「元気になるのか……」
トンボのような四枚の羽で、秋空のトンボのように落ち着きなく飛び回っている妖精。元気になると言われても、あれ以上元気になられても困るし、具体的にどうなるのかはさっぱりだった。
「……ん?」
そして今のステラの言葉に、さっぱりな部分が更に二つ。
「放っておいても…… 供給されてる? 誰からだ?」
「え?」
疑問を尋ねる良一に、ステラが小首を傾げる。その表情は暗に「何言ってるの?」とか、「わからないの?」とでも言いたげな、常識を心配するような類いのものに思えた。そうされたところでわからないものはわからない。この場で常識がズレているのは実は自分の方なのかと、若干悲しくなりながら良一は尋ね直す。
「いや、あいつ…… 剣だけどエネルギーそのものなんだろ? ずっと消えないってことは、どっかから力が供給されてるわけで…… ひょっとして、勝手におれから送られてるのか?」
たどたどしい質問の様子に、ステラは何かを察したように頷く。
「ねぇ、リョウちゃん。リョウちゃんは自分の魔法が、自分の力だけで出来ているものだと思ってる?」
穏やかな口調で、微笑みとともに聞いてくるステラ。
「え? いや…… それは……」
当然、そう思っている。足掻き、力を磨き上げた日々。それに応え、日々強くなっていった自らの力。間違いはないはずだった。だが、答えられない。何かとても大事なことを伝えようとしている、そんなステラの雰囲気からか、答えること自体が間違っているように感じた。
口ごもる良一の前にステラは手のひらを差し出し、軽く閉じる。開かれた手のひらからは、あの輝く光の球が浮いた。
「リョウちゃん、力はね、世界に分けてもらうものなの」
「世界に……?」
「そう、世界。私達はみんな、世界の一部。石ころも人も、風も火もそう。みんながみんな小さな一部で、大きなことをするためには、世界に力を分けてもらわなきゃいけないの。魔法が得意なリョウちゃんなら、もう分かっているはずよ」
「あ……」
確信をもったように語るステラに、良一は自らの誤りを気づかされた。
世界―― これまで訪れてきた複数の異世界、そして家族のいる生まれた世界。感じ、奇妙に思い、わからなかったことの答えが、そこに置かれていた。
「じゃあ…… 『魔力』は、世界に借りるものなのか……」
「ううん、借りるわけじゃないの。魔法はね、世界に助けてもらう方法のことなの。自分の力よりももっとたくさんを、世界から分けてもらう作法なの」
良一が訪れてきた世界。その世界によって良一の魔法は、凄絶にも微弱にもなった。微弱に感じた極地は、元いた自身の生まれた世界。魔法の概念すらオカルトで、他の世界にあったような、魔力を含んだ空気感のようなものをほとんど感じなかった。
ステラの答えを当てはめるとすれば、世界はそれぞれに魔力を持っており、術者に分けられる量が違う。おそらくはそういうことなのだろうと、良一は得心した。
「それじゃあ…… あいつは、世界から魔力を?」
「ええ、あの子には世界から、常に力が供給されているの。でもそれはリョウちゃんも一緒よ。その世界に存在するもの全てに、世界は常に力を供給しているの。例え生き物で、その生命が途絶えてしまっていても、そこに何かが『在る』限りね」
生きている、生きていないは関係無い。生き物であるかさえも関係無い。全ての存在に、その力が降る。
良一は思わずと空を見上げていた。黒く青く、星々が散らばり始める吸い込まれそうな空。そこに生まれて初めて身に受けるような、世界というスケールの壮大さを感じた。
空の先、星々の向こう、その先まで続く―― 『世界』。
誰敵うことの無い力を身につけたはずの身が、誰知ることの無い苦痛をもったはずの心が、ひどく小さなものに思え、現実感が失われるようだった。
「リョウちゃん、覚えておいて」
囁く声が、無防備になった身に、心に染みる。
「どんなに辛くても、世界を変えようとしてはダメ。あなたは世界の一部で、あなたも世界なの。あなたがゆっくりと変わっていけば、世界もゆっくりと変わっていく。あなたは自分に出来ることを、あなたのペースでやっていけばいいの」
ステラの言うことはわからなかった。でもその声を聞き、良一はなぜかまた、ここに来たばかりの頃のように目元が緩みそうになるのを感じた。
本当にわからない。この人はなんなんだろうか。どうしていつも自分さえもわかっていないような、心の奥底が求めているような言葉や事柄をくれるのだろうか。
――おれは何か、返せるのかな……
きっと何も求めないだろう。そんな彼女の存在や、目に映る世界を想い、良一は目を閉じる――
「な~にイイ雰囲気作ってやがんスか?」
間近に聞こえた声に飛び退くと、遠くを飛んでいたはずのちっこいのがいた。
「お、おまえ……! いつの間に……」
「だってずっと立ち止まってんスもん、帰らないんスか?」
たしかに気づけばちっこいのを放置し、会話に耽ってしまっていた。きまり悪く頭をかく良一に、にょにょにょっとちっこいのが顔を近づける。
「いや~、それにしても、何度見てもステラ様は美人っスなぁ」
「……あ?」
可愛らしくあるはずのその顔が、妙におっさん臭く思えた。
「一緒におうちに帰るって、一緒に住んでるってことっスよね? こりゃ坊ちゃんたまらんっしょ?」
「はぁ?」
何を言っているのやら、と、良一は目を細くする。
「こんっな綺麗な人と一緒に住んでるんっスよね? どうなんスか!? もう手の何本かも出したんっスかね!?」
「はぁ!?」
おっさん臭いどころか、おっさん丸出しだった。その発想は無かったと、良一は手を前にしてクモを押しのける。
「何言ってやがんだ! 家に住ませてもらっといてそんなこと考えるわけねぇだろうが!」
「え~!? 嘘でしょ~!?」
すっとんきょうに、まさに跳び上がって驚くクモ。良一が困り顔でステラを向くと、ステラはニコニコと楽しそうでそれはそれで扱いに困った。
「ちょっとちょっとおかしいっしょ! 坊ちゃんどう見てもヒトのオスっスよね!? それでなんでそーいう展開になってないっスか!」
「いやいや待て待て! なんでそうなる! そもそもステラ相手にそういう考えは……!」
理不尽にも逆ギレ気味に迫ってくるそいつに、良一はのけぞるも――
「は……! ま、まさか坊ちゃん……!」
「あ?」
ぴたりとそいつが、壮絶な顔をして動きを止めた。そして――
「どっちかっていうと…… ぼーいずら――」
「アホかてめぇは!」
――すぱこん! べちゃ!
「あ」「あ」
大の字で若干地面に埋まったクモに、手のひらを振り下ろした体勢の良一と、見守っていたステラが声を揃えた。
「ヤ、ヤっちまったか……?」
さぁっと良一から血の気が引く。ついうっかりな感じで、多少以上に力が入ったように思う。
「……ぶ、ぶは! なんてことするっスか!」
「え……? えぇ!?」
どっこいそいつは生きていた。がばっと地面から顔を上げ、恨みがましく見てくる様に良一は後ずさる。
「ああ、大丈夫よリョウちゃん。クモちゃんは痛覚とか無いし、体も体っぽく作ってるだけだから」
「そ、そうなのか……?」
笑顔で手をひらひらさせるステラに、謎存在の謎生態(?)を新たに知る良一。知れば知るほどに、謎なやつだった。
「もう! もう! なんなんスかなんなんスか! 私そこまでヘンなこと言ーましたかね!?」
ぷりぷりと跳び上がりながら怒る謎存在。ほんとに平気そうなところに、便利な体だと良一は若干羨ましく思う。
「うーん…… ごめんねぇ、クモちゃん」
そんな良一の背中から、頭に顎を乗せてステラが抱きかかる。
「リョウちゃんだけじゃなくてね、どんな人でも、私にそんな感情を抱く人はいないかなー」
「え? え? なんでっスか?」
「……!」
柔らかく、温かい感触に包み込まれ、良一は今更に気づく――
「私は…… 全ての母のようなものだから」
共に住み、これまで一緒にいた数日間――
「母? 実はお母さんなんですか?」
良一はただの一度も、ステラを『女』として意識したことがなかった――
外見上は、数年と年上の「女」。背の高い痩身の、二目と見れないだろう、美しい「女」。気高さよりも愛らしさの勝る、親しみ易い仕草と笑顔を持つ「女」。
だが良一は、一切「彼女」に対して『女』としての意識を持たずにいた。それは彼の特殊な境遇のせいではない。「彼女」に対し、意識が向いていなかった。
「女」にして、「女」ではない。その感覚は、この世ただ一人。たった一人だけいる人に似通っていた。
「なるほど…… 母さんか……」
生まれた世界にいる、遠く離れた母親。今は話をすることすらほとんどなくなった、自身の生い立ちを知る者。
「うん、そう、お母さん」
そう囁いて、きゅっと抱きしめてくるステラ。その感覚はたしかに――
「どうりで、たまにウザイと思った」
「ひどーい!」
幼い頃に置き忘れてきた、ゆりかごのような安心感に思えた。
――本当に、ステラはいったい……
知りたいと思う、知りたいと思わない。それでかまわない。
言葉にできない、だがいつも胸にある、複雑な感情が渦巻く――
「あれ? 坊ちゃんご存じ無いんですか?」
「……!?」
顎に指を当て、くりっと小首を傾げるクモに、良一は絶句する。
「ねーステラ様、気になってるみたいっスよ? 言ってなかったんスか?」
「うん? 何を?」
口に出ていた、そんなはずは無かった。だがクモは――
「ステラ様って何者なんだろうって、ずいぶんと気になってるみたいっスよ?」
良一がずっと秘めていた想いを、あっさりと言い放った。
「おまえ! なんで……!」
「え? 坊ちゃんから結構強めに思念飛んできたっスよ? 私坊ちゃんとは思念で会話できますし」
「な……」
テレパス―― その魔法の使い方は、良一も知っていた。だが今使った覚えは無い。
「あ~、そっかぁ、クモちゃんはリョウちゃんと繋がってるもんねぇ~」
平然とした背中からの声が、寒々しく感じた。
「ステラ……」
振り返る良一から、ステラが身を離す。
「ん~、そうね~、私は~――」
身を固く強ばらせる良一を前に、いつもと変わらない日だまりのような笑みで、ステラは――
「神族、あなた達の言うところの―― 神よ」
そう、告げた。




